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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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第十等室

 しがない出版社のルポライターである俺、海藤と同僚の山野は、編集長の命令で豪華客船の旅に出ることになった。

 だが、ケチな編集長は一等室のチケットが一枚しかないと言った。奴は編集長室でチケットをひらひらと俺たちに見せながらニヤついた。


「さーあ、んー? どちらが一等室がいいかなぁ」


 本当は銀座かどこかの自分の愛人と行くつもりだったくせに、一枚しか手に入れられなかった上に、その女にフラれたことは俺も山野も知っている。

 だが、山野はそれを知らないふりをして編集長にへつらった。俺は山野のその顔も編集長の顔も見るのが反吐が出るほど嫌だったので顔を背けた。しかし、それがどうも編集長の目には俺がやる気がないように映ったらしく、取材自体を外されそうになったので、結局、俺もおべんちゃらを言うことになった。

 三流雑誌の食えないルポライターの弱いところだ。それでも言葉遣いや引き出しの多さ、人の懐に入り込む術には自信があった。

 だから、俺は山野に圧勝したつもりだったが、一等室を手に入れたのは山野だった。おそらく、俺の顔が良いから編集長は嫉妬したんだろう。チクショウ。


 乗船当日。俺と山野は二人でタクシーに乗って現地に向かった。興奮する奴の話とタクシーの揺れと匂いで吐き気がしたが、なんとかタクシーを吐瀉物で汚さずに済んだ。降りたとき、あいつの膝にぶちまけてやればよかったとも思ったが、まあどうでもいい。奴はすでに反吐まみれみたいなもんだ。

 現地には長い行列ができていたが、山野はキャストに一等室のチケットを見せ、悠々と鼻歌交じりにその列を横目に見ながら乗船していった。

 俺は列から離れ、編集長から渡された地図に記された場所を目指して歩いた。なんでも、その場所からならタダで船に乗れるらしい。当然、部屋のランクは下だが。

 それなら予算を半々にして、二人とも三等室か四等室にでも乗せてくれればよかったのにと思った。しかし、最高と最低、天国と地獄の対比が記事としては面白そうだということは理解していたので、ただ黙って歩いた。


 地図でに記された場所に行くと、そこは埠頭の倉庫だった。豪華客船の尻の近くで、遠くから聞こえる歓声と花火、空に上がる風船が小さく見えて、何とも切なかった。

 入り口には警備員らしき屈強な男が二人構えていて、それに乗船したい旨を伝えると服の襟を掴まれ無造作に中に入れられた。

 中には数十人の人間がそれぞれ黙って座っていた。鉄の棒を持ったキャストが中をうろついていて、双方が『逆らっては駄目だ』と無言の圧を与えてくる。

 だから俺も適当に空いている場所に腰を下ろした。しかし、尻が冷たかったので正座してみると、石抱の責め苦を受ける囚人が頭によぎり、一層惨めな気分になったので、我慢して体育座りに変えた。思えばこの時の自分の直感にもっと耳を傾ければよかったのだ。




「オエエエエェェェ!」

「そこ! 休むな! 走れ!」


 夢を運ぶ豪華客船キングホエール号。一等室は言わずもがな、政財界の大物や現代の貴族が。二等、三等と順に部屋や施設のランクが落ちていく。しかし、あのタイタニック号でも最下層の三等室が移民など貧しい人々の層だったが、この船の最下層の十等室、それがまさか


「おら走れ! おめーらが走って、この夢の船の電力を賄うんだよ!」


 ここまでの扱いとは思いもしなかった。


「ハァハァ、君はまだ元気そうだね。さすが若い人は違うなぁ」


「あ、十田さん……そんなに若くないですよ。もう四回は吐きました」


「わ、私は今日は六回かな……まあ窓がないし、あってもここは海の中だろうから、時間の感覚もないけどさ。まったく、あの時捕まりさえしなければ……」


 そう、ここ十等室は吐瀉物まみれだった。おまけに上層からパイプのミスなのか排泄物の一部がここに流し込まれる。

 ベッドなどはない。だだっ広いこの部屋に並べられたベルトコンベアの隙間か部屋の隅でしか眠ることができない。ただし、立ったままだ。横になることは許されず、看守……ではなく、スタッフ……でもなくて、キャストから鞭が飛ぶ。(そう呼ばなければならない。もっとも実際に呼ぶ際は様をつけなければならない上に、こちらから話しかけるとまず殴られる)そのコントロールは見事なもので、人の間を潜り抜け、狙った獲物に命中するのだ。いや、他の人に当たることもある。でも文句は言えない。

 黒い布を被せられ乗船した俺は、この部屋の惨状に絶句した。だが、立ち尽くす間はなかった。すぐさま歓迎の鞭が飛んだのだ。

 ここの人数は俺のような追加分も含め、当初は百人を超えていたと思うが、何人残り、何人減ったのか、落ち着いて数えることもできないからわからない。おまけに体、あるいは精神の疲労か、人間が二重に見える時がある。


 十田というのは、ここで知り合った気のいい中年の男だ。数年間この船にいるようで色々と話してくれた。

 ここの住人は主に犯罪者、ホームレス、債務者らしい。他には親に寄生していた無職。そいつとは一応知り合いになった。家族全員での豪華な船旅と騙されここに堕とされたらしい。飼っている犬よりも下の階層なことを嘆いていた。親や友人に騙され売られた者は他にもいるようだった。俺も一応、その区分になるのか。

 十田はホームレスだった。ある日突然、投網で捕まったらしい。

 ルポライターだと名乗れば、この惨状を世に広めて欲しいと十田以外者たちからも協力を得られるかもしれないが、無用な警戒を生んだり看守……キャストに目を付けられる可能性もあるから、俺もケチな犯罪をやって捕まったことにしておいた。

 ただし、性犯罪関係、とくに幼い子供に手を出した者はこの客室内のカーストが低く、虐めに遭うのでそこは否定しておいた。


 風呂は週に一回。温水どころか海水ですらない。上層の廃水である。許された時間は一人たったの五分。石鹸はない。髭剃りはないが髭を生やすことは許されない。我らの父たるキャストのみが髭を生やすことが許されるのだ。(それはなぜか? 知るか。理由など訊けるはずがないだろう)

 ゆえに髭抜きが十人に一つ単位で与えられる。飯は日に何回か。先ほど、十田が言ったように時間の感覚がないため、いつかわからないが、定期的に食える。と、言うのも、上から降ってくる残飯が俺たちの飯だからだ。

 上層が食べる限り、俺たちも食えるというわけだ。ただし、骨とクズばかりで食える部分がほとんどない上にアンモニア臭い。糞が混じっていることがある。

 その理由は、この一つ上の九等室もまた劣悪な環境だからである。十田が言うには、九等室では主に捕れた魚の鱗取りを担当している。船の外に仕掛けている捕獲網と近いためらしい。そこで処理した鱗が残飯に混じって落ちてくるので、初めは金粉の類が振りかけられているのかと思った。俺がそう言うと十田はポジティブだね、と笑った。しかし、笑うことは許されていないので鞭が飛んだ。俺は申し訳なく思った。

 九等室で処理した魚は、主に一般層である三等から四等で使われるらしい。船に積める食料には限りがあるためだ。船出前に仕入れた高級食材などは、一等室と二等室で優先的に使われるため補う必要があるとのこと。むろん、捕れた魚でも上質なものは一等室や二等室でも使われる。

 俺はそこでも格差があるのかと震えた。そして、山野を思い出し、怒りでさらに震えた。

 以前、魚の口の中に『助けて』というメッセージを仕込んだ者がいたらしいが、コックに処理されたそうだ。

 まったく食われた形跡のない肉には気をつけろ。ここには残飯しか来ない。十田がそう言った時の顔は忘れられない。


「どうにか上に行けないものですかね?」と、俺は十田に訊いたことがあったが、十田は首を横に振った。警備員がいることに加え、扉は閉められている。火事でも起きれば別かもしれない。それこそ爆弾でもあればなぁ、と十田は叶わぬ夢を見る者のように力なく笑った。

 以前、数年かけて上から落ちてきた残飯に混じった金歯や銀歯を集め、賄賂としてキャストに渡した者がいたそうだが、その後どうなったかは不明だ。まあ想像はつく。そもそも、それがうまく行くとしても、ここで賄賂にできるような価値があるものを拾える確率は奇跡に近い。


 八等室はクリーニングや補修担当。「あそこは天国だよ……」と十田は語った。シーツ用の巨大なアイロンから浴びせられる熱い蒸気で火傷が絶えないそうだが、驚くことに座って眠ることが許されるという。俺はそれを聞いて、九等室ではまだ立ったままなのかと戦慄した。

 七等室は家畜小屋である。豚や鶏、牛などの管理の他に、一等室から二等室の客の通常預けることができない、危険なペットの管理も行っている。そのペットとは、肉食動物、もしくは毒を持った動物、あるいはその両方だ。

 俺はまさか家畜たちと同じ檻で眠るのかと驚いたが、実際はその逆で、人間が檻に入れられているそうだ。仕事をしていない時、つまり眠る時と食事の時はそこで過ごす。狭いため、そこでも横になって眠ることは許されない。

 動物同士が揉めないように、虎は虎と、蛇は蛇となど同系統で区分けされているが、それでも密室ゆえにストレスが溜まり、凶暴になるので、彼らの喧嘩の仲裁とストレス解消のおもちゃになるのが、給餌に次ぐ主な仕事だという。


 十田の話によると、六等室では横になることが許されているらしい。そこは『ホエールくん』などの生産工場だ。

『ホエールくん』とは船上層のアミューズメントパークで販売しているキャラクターグッズのことである。

 外の工場で作った物を寄港の際に積んでいるのかと思いきや、実際は材料だけを積んでこの船の中で作っているというのだから驚きだ。コスト削減という訳だろう。また一部のキャラの材料は人毛で賄っているそうだ。

 俺が「それはさすがに冗談ですよね」と言うと、十田は力なく笑ったので俺は本当だと思った。笑ったのでやはり鞭が飛んだ。

 それから、横になって寝ると言っても、ベッドなどはない。ベルトコンベアの真下にある狭い空洞に入り込んで眠るらしい。

 ただし、横幅はなく、縦一列に数人しか入れないので、順番に眠る。およそ五分で他の者に蹴り起こされる。その後は椅子に戻ってまた作業を再開する。

 しかし、嫉妬のせいか、睡眠中も足の先でガンガン蹴られるので疲れが取れることはない。椅子に戻った者もその怒りで蹴る側に回るので負の循環が崩壊することはない。むしろ、蹴っている間が一番安らぐ時間らしい。


 五等室の話はまだ聞けていない。無駄話するなと鞭が飛ぶので、そのまま話を続けて聞くことができないのだ。

 ただ、どうして十田がそこまで詳しいのか理由を聞くことはできた。何てことはない。上から堕ちてきた人間の話をまとめたという。「数年もここにいるからね」と言う十田の横顔は、遠い故郷に恋焦がれる戦場の兵士のような哀愁が漂っていた。ただし、彼は故郷のことを思い出せていないだろうとも俺は思った。

 俺も自分が何者なのか、時々見失いそうになる。それは反響するベルトコンベアの音のせいだろうか。その単調な音と、キャストの怒鳴り声が一緒になって、精神を蝕むのだ。


「そこペース遅い! 下に送るぞコラアア!」


「すびばせん!」


 また名前を知らない誰かが鞭で打たれた。その人の番号は……一一九三だ。それは俺たちに名前代わりに与えられた番号。ただ、覚える意味はあまりないと俺は思う。

 今キャストが言った『下』とは、海の底のことだろう。この部屋には上同様、穴があり、そこに残飯や死んだ者を投げ捨てることになっている。それはおそらく、定期的にゴミと一緒に海の底へ排出されるのだろう。


「おらぁ! 上から降って来たぞ! 飯の時間だ! ありがたく思えクズども! 今走っているゴミ野郎は、近くで寝ているクソを起こしながら来い!」


「ふう、助かったね」

「はい……行きましょう……あ、そこの人、起きてください。あなたが走る番で……死んでる」


 俺が声をかけたその男は、腕を突き上げて立ったまま、死んでいた。

 それは特に驚くべきことではない。俺は慣れてしまった。そう、こういったことはよくある。これが少し面白いところなのだが、立ったまま眠るのに、人それぞれバランスのとり方が違い、様々なポーズがある。

 慣れると起こされるまでそのまま眠っていられるが、熟練の技なのか、死んでからもそのまま倒れずにいるので、寝ているのか死んでいるのか区別がつきにくい。

 ベルトコンベアの間に等間隔で並ぶその姿は、畑に立つ案山子のようだ。ただし、カラスも寄り付かない悪臭漂う墓標。


 俺は死体を抱え、足早に穴のもとに向かった。見つけた者が処理しなければならない決まりなのだ。

 急げ、急げ、と俺は自分を後ろから追い立てるように煽った。全ての行動を迅速に行わなければ鞭が飛んでくる。それに、残飯も他の連中に食べられてしまう。

 死体を穴に落とすと水の音がした。この穴はバラストタンク内に通じているのだろう。見つめていると吸い込まれそうな、深く暗い穴だ。そこに落ちた死体はやがて海へ放出され、腐って溶けて魚たちのご馳走となる。

 そう、ご馳走だ! 残飯は最初こそ嫌厭したものの旨味があり、俺の中の抵抗感は次第になくなっていった。空腹は最高のスパイス。これこそ真理。いただきます。感謝します。今日のメニューは魚と豚のミンチのコンドーム詰め。髪の毛とレバーとレタスのナプキンサンド。パンナコッタ。


 食後、また走り、少し吐いてフラフラになり


「眠いか!」

「はい!」


「なら一生起きられないようにしてやろうか!」

「はい!」


「殺されたいのか!」

「はい!」


「よし、眠れ!」

「ありがとうございます!」


 キャストとの毎度のやり取りでようやく就寝が許された。


 俺の立ちポーズは片手を股間に添えて、少し俯くというものである。これをするとキャストが笑ってくれるのだ。たまに「ポゥ!」と言えと要求され、やるとまた笑ってくれる。

 最初は胸の前に腕組んで眠ろうとしたが、生意気だと言われ鞭で叩かれた。ちなみにウルトラマンのポーズをした者がいたが、それもまた反逆の意思と見なされて鞭で叩かれた。


 走って食って走って寝て走って走ってその繰り返しの毎日が続いた。

 そこに変化が起きたのは唐突だった。そう、いつだって不幸というものは前触れもなくやってくるものだ。


 あの無職の男が、十田が死んだと俺に告げた。

 

 前述の通り、見つけた者が処理をする決まりがあるが、どうしていいかわからないようだったので、俺が十田を担いだ。

 十田。彼は骨と皮だ。十田のその軽い体に、悲しみよりも憐憫の情が湧いた。

 彼は何のために生まれ、何のために生きてきたのだろうか……。

 だが、それは俺も同じだ。俺は何のために……ん? 何のために俺はここにいるのだろうか。忘れて、なんだ?


「……ん? う、うお! 十田さん!? 生きて、え、何するんですか十田さん!」


 十田を穴に落とそうとした瞬間、突然、十田が動き出し、俺にしがみついたのだ。死後硬直か反射かと思ったが、違った。

 十田は生きていたのだ。

 俺は素直に喜ぼうとしたが、何か様子がおかしかった。

 顔にかかる十田の息が臭いのは、誰だろうと、ここでは同じだが、涎を垂らし、ひひひひひと不気味な笑い声を漏らしているのは、あの優しかった十田の記憶もあり、俺の目に異常に映った。


「と、十田さん! 落ち着いて! 今、床に降ろしますから! 大丈夫です!」


「いいいいい、いいいんだ。彼にたの、頼んだんだんだ。手羽先の骨でぇ。わた私が、ひひひひししし死んでいると君に言えとぉー。ききき君は! 私の話し相手になってくれたぁ……。君が好きだぁ、いい一緒に堕ちよう……」


「や、やめろ! 正気に戻れ! あんなに優しかったじゃないか!」


「きき君、人は変われるんだひひひひひひ」


「意味が違うだろ! あ、ああああ!」


 落ちた先は真っ暗闇だった。腐ったような臭いが充満していて、上も十分に悪臭が漂っていたが、それとは比べ物にならなかった。

 下は俺が思っていた通り、バラストタンクのようだった。高低差があるのか、俺たちが落ちたところは足がついた。だが胸の下辺りまで海水に浸かっている。この状態では体温が奪われ、死んでしまうだろう。そして、やがてその死体は排出口から外に放り出される。

 それはあまりいいことではない。そもそも、バラスト水というのは大型船舶が航行時のバランスをとるために船内に貯留する海水のことであり、その排出、および貯蔵の際にはその海での海藻やプランクトン、生物もまた貯留、運んでしまうため、生態系に影響を及ぼすと懸念されている。

 と、そんな文面が頭によぎり、俺は自分がルポライターであると思い出した。そして、山野に対する復讐心が蘇った。

 必ず生きてここを出る。必ずだ。山野を殴る。そう決心したものの、どうすればいいのか。ひとまず、目が闇に慣れるのを待ち……十田は? どこに……


「ききききみぃぃぃぃぃぃ!」


「うわ、はなせ!」


 十田がワニのように突然水中から現れ、再び俺にしがみついた。奴が死にかけであることは間違いないはずだが、その力は凄まじかった。いや、もしかしたら俺もまた死にかけなのかもしれない。奴の痩せ細った体はどこか既視感があった。そう、細くなった俺自身の手足だ。そしてそれは上から落ちて来る残飯、骨付き肉。ここが俺の、俺たちの居場所。もう、それでいいのかもしれない。


「きききみしっし死のう! もう死のう! し――」


 静寂が周囲に漂った。俺の心臓だけが激しく鳴り響いている。十田が突然、俺から離れ、水中に姿を消したのだ。ただ、それが十田の意思でないことは明白だった。俺は見たのだ。十田の肩に青白い手が掛かるのを。


「こっちだ」


 ただ呆然と十田が消えた辺りの水面を見つめていた俺は、その声を聞き、ビクッと体を震わせた。男の声のようで、それはやや上のほうから聞こえた。

 闇に慣れてきた目をさらに細め、辺りを見回すと、壁面に人ひとりが体育座りで収まれるような窪みのようなものがいくつもあった。声はそのうちの一つからしているようであった。


「早く。食われるぞ」


 男が手を伸ばすのが見えた。それは崖に生えた花のようだと俺は思い、一瞬だが心が和らいだ。俺は駆け寄り、その手を掴んだ。もはや恐怖心は針を振り切り、目が回るほどぐるぐると周回していた。


「よぉ、ここなら安全だ。たぶんだがな」


 その男の顔を間近で見た俺は、吐きそうになった。しかし、礼を言う前にさすがにそれは無礼だと飲み込み、堪えた。おまけに息も呑んだ。

 その男の顔には窪みが二つあった。そう、目がなかったのだ。俺は、先ほど十田を水中に引きずり込んだのが鮫だったのかと男に訊ねようとしたが、やめた。

 馬鹿の振りはもう十分だ。

 ここは第十一等室。闇と人外の住まう深淵の底なのだ。


 男はこの目は長年ここに居たらこうなったと俺に話してくれた。ボリボリと頬を掻くその手の指の間には水かきがあり、適応したのは目だけではないと暗に言っていた。

 俺もいずれそうなるのかと思ったが、嫌悪感よりそうなる以前に生き残れるのかどうか、心配が勝った。

 そして、男が俺を助けたのは、今から二秒後にでも俺の首筋に食らいつき新鮮な血を啜るためなのではないかとも警戒した。

 しかし、男が口を開いたのはその牙を俺の肌に突き立てるためではなかった。


「これを、あんたに託したい」


 そう言って男が俺に差し出したのは一本のペットボトルであった。喉が渇いていた俺はすぐさま蓋を開けて飲もうかと喉を鳴らしたのだが、重さからして液体ではなかった。


「それは爆弾だ」


「ばく……爆弾?」


「そう、糞やら土やら小便やら何やらを混ぜて発酵させて作った物さ。まあ、そこに行き着くまで失敗も多かったからそれ一本分しかないがな」


 確かに、その昔、日本人が堆肥から火薬の原料を作ったという話は耳にしたことがあった。

 だから頭のイカれた奴の与太話というわけではないかもしれないが、しかし、俺にこれをどうしろというのだろうか。


「中にはティッシュとマッチも入っている。威力はまあ、そこそこだろうが、この上の」


「発電室……」


「そうだ。正確には動力室、その原子炉が狙い目だ。この巨大な船だ。ベルトコンベアの発電力ごときじゃ船全体を賄えない。原子力エネルギーでも使わないとな。そこを爆破すればさらに誘爆し、船に穴があくかもしれない」


「な、なぜ……」


「そんなことを? ははっ、復讐に決まっている……なんて、おれはただ疲れたんだ。夢の船、船内アトラクション、豪華な部屋、キャラクター、全て虚像さ。その実、内部は腐ってやがる。その中でも、自分たちをキャストなんて呼ばせている船のスタッフどもは救いようがないほど狂信的さ。臭い部屋で鞭を振るう自分にもその臭いが染みこんでいることに気づかずに、弱者を痛めつけ、悦に浸ってやがる。ああ、薬と賄賂に溺れてやがるのさ。まあ、その賄賂は受け取るだけだったがな」


「まさか、あなたが金歯を集めていた人……」


「へえ、知っているのか。ま、昔の話だ。ああ、他に訊きたいのは、なぜ自分でやらないか、か? もうわかるだろう? この目だ。おれはここに馴染みすぎた。明るい場所にはもう行けない。皮膚がやられちまう。でも、あんたはまだ行ける。全部ぶっ壊して、陽の当たるほうへな。ここからもう少し右に行けばパイプがある。天井に繋がっていて、そこを潜り抜けて行けば、上の階、十等室の床下に到達する。そして、そこからまた上に向かって進めばその上の階に。そうやって進んでいけば動力室に行けるさ」


 無茶だ。空想だ。絵空事だ! ガキが自分をシコシコと慰める妄想以下だ! 

 俺はそう思ったが口を突いた言葉は自分でも驚くほど、力強かった。


「……わかりました」


「やってくれるんだな」


「ええ、必ず」


「ふふ、良い顔だ。まあ見えないけどな。ほら、もう行くんだ。おれが奴らを引きつけよう。もう連中も楽にしてやらないとな……」


 彼のその声は哀愁に満ちていた。まるで、故郷がダムに沈むような。もうここが彼にとっての家で、あれは同郷の者なのだろう。そう彼の……。


「……あの俺、実はルポライターで、あなたのお名前は――」


「聞くな。理由はわかるだろ?」


 そう言った男は水の中に飛び込んだ。水しぶきが上がる音を聞き、俺は美しい人魚を想起した。それはきっと間違いではない。名を知らない、いや名を忘れた男。だが、彼という存在は俺の中に確かに在り続ける。匿名希望。関係者Xよ。あんたの生き様は俺が伝える。俺はそう心に誓った。


 俺は彼に言われた通り、パイプを伝い天井に上がった。

 そこから先の道はさらに狭く、関節を外す必要があったが、自然と外れたのでよかった。この傷み、痩せ細った俺の体もまたこの船に適応していたのだ。

 ヤモリになった気分で体を押し進めると聞きなれた音。ベルトコンベアの音がした。

 そこからさらに壁の中のパイプを伝い上がる。落とさないようにするにはどうすればいいか考えた末に、尻の穴に入れたペットボトルは意外にも安定していた。それも適応のおかげだろう。だが多くは語るまい。


 十等室の天井まで上がった俺は、一際大きな振動と音を辿った。そこが動力室だろう。

 しかし、途中でもうこれ以上は進めないほどパイプが入り組んでいた。

 だから俺は床板を押し上げ、外に出た。 

 そこは廊下だった。十等室と九等室の間かもしれない。見つからずに動力室まで行けるだろうか。それに鍵がかかっていたら? 心配なことは山ほどあったが、進むしか選択肢はなかった。

 暗い廊下。電灯が弱いのはここに割くエネルギーがもったいないからだろう。富は一等と二等に優先的に割り振られている。そう思った俺はまた山野に対する殺意を覚えた。それが功を奏した。


「な、何だおま――」


 曲がり角から現れたキャストに俺は猫科動物のように素早く飛び掛かり、するりと蛇のように腕を滑り込ませ、首を絞めた。他に仲間がいればここでお陀仏だったが、靴音はない。

 暴れるキャストの手から鉄の警棒が金属質の床に落ちた音だけが響いた。

 俺は白目をむいたキャストから離れ、警棒を拾い上げると、気絶している奴のケツの穴に刺したい衝動に駆られた。それを抑え、奴を近くの鍵が開いている部屋に隠し、廊下を足音を立てないように進んだ。

 ほんの少し開いている扉があることに気づき、そこから煌々とした明かりと話し声が漏れ聞こえた。 

 そこは動力室らしい。ドアの小窓からそっと中を覗くと、三人のキャストがいるのが見えた。タバコを吸い、笑っている。鼻をすすると仄かに香った。

 室内の全貌まではわからないが、壁にはいくつかの機械とパイプ、計器があり、おそらくは巨大なタービンも見えた。

 俺は取り出したペットボトルの蓋を開け、中からティッシュとマッチ棒を引っ張り出した。マッチは一本だけしかなかったが、プレッシャーを感じる以前の問題だった。

 どう近づこうか。俺は引き返し、さっき気絶させたキャストの服を奪おうかと考えたが、この顔つきじゃすぐに連中に気づかれてしまうだろう。何せ奴らのような立派な髭がない。おまけに奴隷の臭いが染みついているはずだ。

 だが、結局俺は奴を隠した部屋に戻った。さっきは急いでいたため一瞬しか見えなかったが、使えそうな物があったのだ。


「ん、おお、ドゥミー! どうした? ドゥッキーは一緒じゃないのか?」

「アイツには飽きたんだろ? おれのをしゃぶらせてやろうか?」

「お前のはネズミ以下のサイズだろう。おれのにしとけよ」


 三人の男たちは大声で笑った。外から見た時は気づかなかったが、奥にもう一人いた。計算外だが、その男は雑誌を読んでいるようで、一度ちらりとこちらに目を向けただけで、すぐに雑誌に視線を戻し、警戒していない様子だった。そう、この俺の姿に。

 あの部屋には船内アミューズメントパークのショー用の着ぐるみがあった。スカートを履いた女の子タイプだ。おそらく、いくつかあるうちの補修待ちの物だろう。本物は今頃、上で踊っている。まあ、今が何時かも俺には分からないが。

 俺はコミカルな動きをしながら距離を取りつつ、連中の横を通り抜けようとした。この先にある、かまくらのようにこんもり盛り上がったあのハッチ。あれが原子炉のメンテナンスハッチなのだろう。連中は笑い、手拍子した。着ぐるみは意外と重く、転ばないように必死だった。しかし、うまくいきそうだ。


「そっちに何の用だ?」


 俺はピタリと足を止めた。連中の笑い声もピタリと止み、時間が止まり、空気が締まり、俺の喉まで絞まった気がした。

 雑誌を読んでいた男が、雑誌から顔を離し、椅子から立ち上がった。

 椅子に座っていたため気づかなかったが、他の連中よりも一際大きな体をしており、着ぐるみ越しでもその威圧感を感じ取ることができた。

 男の顔には明らかに警戒の色が浮かんでいた。完全に疑われているわけではなさそうだが、爆弾に火をつける余裕はないことは確かだった。

 男が一歩、俺に近づいてきた。

 カンと金属的な音が響く。来る、この着ぐるみの頭を俺の頭ごともぎ取る。そう思わせるだけの迫力があの男にはあった。

 戦っても無駄だ。奇跡的に倒せたとしても他に三人もいる。ここまでだ。もうできることはない。染みついた恐怖が体を縛って動けない。思考することさえ奪われた。俺は案山子。害のない案山子。死んだ案山子。だから鞭はやめて……いや、できることはある。


「おいおい」

「ははっ!」

「いいぞ、ねーちゃん!」


 俺は踊った。あの世界的ダンサーのように。

 踊る、踊る、踊る。ムーンウォークで距離を取る。遠い記憶、忘れかけていたミュージックという存在を思い出し、頭の中に流し、そして身を委ね、今この瞬間だけは最高にハッピーな自分を演じ、苦痛、貧困、差別、環境問題。この世界に、連中に背を向けた。そして――


「ポゥ!」


 俺は爆弾に火をつけた。連中の拍手が、まだ自分たちが何が起こっているのか理解していないことを示している。

 しかし、やはり大男は違った。足音が迫る。ハッチを開ける間はなさそうだ。だが、俺は窓ガラスがついていることに気づき、肘で叩き割った。

 一瞬見えたその中には薬剤のカプセルのような形をしたものが直立していた。あれが原子炉なのだろう。この爆弾がどの程度の威力を持っているのか、そもそも哀れな男の妄想なのではないか、今さらながら疑いの芽が顔を出したが、もう投げ込み、賭けるしかなかった。落ちていくペットボトル。一瞬キラリと光ったのは金歯だろうか。だろうな。彼はあそこに堕とされる前、死に物狂いで取り返したのかもしれない。それが今は落ちていく。そして、連中の心臓に届く。


 ふと、俺の脳裏にこの船に来てからの記憶がよぎった。これが死ぬ前の、いわゆるフラッシュバックなのだろうか。ただ、主にベルトコンベアの上で走っていた記憶だったので渇いた笑いがこぼれた。

 それでいい。今は走る時だ。連中が俺に駆け寄る。

 俺は背中に隠した鉄の警棒をスルスルと取り出し、まず駆け付けた連中の一人の頬目掛けて思いっきり振った。

 歯が二本飛び、そのうちの一つが銀歯だったので、俺はなんだかラッキーと思った。

 次に、あの大男が来る。一人目で様子を見たという訳だろう。狡賢い奴だ。

 もう一度、警棒を振るには間合いが足りないと判断した俺は、大男が伸ばした手をかわし、そのでかい図体の股の間に滑り込み

後ろを取ると、振り返った奴の鼻目掛けて警棒を思いっきり突き出した。

 奴の鼻は潰れ、そこから線のように粘液交じりの血が伸びた。

 ドシンと音がした。奴が尻もちをついた音だろう。目にはしていない。と、いうのも、俺はすでに出口に向かって走っていたからだ。

 後ろから俺を追えという声と原子炉の中を確認しろという声、いずれも怒声がした。それを一瞬で掻き消したのは、廊下に鳴り響いていた連中の増援の靴音でも、早鐘を打つ俺の心臓でもなかった。

 凄まじい爆風に俺は背中から押され、廊下の曲がり角まで凧のように一気に吹き飛ばされた。

 痛快だった。壁に叩きつけられた痛みよりも喜び、それも人を信じた結果が嬉しかった。爆弾は、男の意地は本物だったのだ。


 船が絶え間なく揺れ、さらに赤いランプに警報音。また大きく揺れ、爆発音が鳴り響いた。俺はまた大きな爆発が来ると直感した。

 慌ただしい靴音。何人かのキャストが廊下を走る。しかし、俺の仕業だとまだ知らない連中は素通りし、動力室まで向かって行く。

 俺は連中が走って来たほうへと向かった。

 ビンゴだ。階段があり、そしてその上の扉が開いている。

 俺は大きく息を吐いて、落ち着きを取り戻し、スターのようにゆっくりと階段を上がった。




「ままぁ……ままどこぉ! ままぁ!」


「チッ。ガキがうるせーな、クソッ。何で一等室のおれがこんな目に遭うん、痛ぇ! なにすんだ、痛! やめ、クソッ! ルポに書いてやるからな、あ、俺のスマホ! 返せ! あ、あ、あああああ! てめっ、海、ああああ! 何すんだこの、痛ぇ! やめ、わかったから殴んなよクソォ……」


「あ、ドゥミー! 隣にいてくれるの? えへへ」


 沈む豪華客船。キングホエール号。

 それを俺は避難船から見つめる。

 隣に座る子供が何か臭うなぁと鼻を鳴らしたが、頭を撫でてやったら笑顔になった。この何も知らない連中は、目にしていてもあれが何なのかはわからないだろう。でも、俺にはわかっていた。

 

 傾き、音を立てて頭から沈みゆく船。持ち上がった船底にこびり付いているのは貝類ではない。


 あれは第十二等室。

 縛り付けられた彼らの肉体と魂が久方振りの陽の光に喜び、目を細めているのだと俺は知っている。


 キングホエール号の悲しみを帯びた絶唱が、彼らへのレクイエムになることを俺は祈った。

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