歯音 :約1500文字
……頭の中に霞がかかっている。
意識が靄に包まれたまま、まぶたが勝手に開いたり閉じたりを繰り返す。そのたびに、ぼんやりとしていた視界が少しずつ晴れていく。
「……っ」
体を伸ばすと関節がコキリと鳴り、小さく息が漏れた。
いつの間にか眠っていたようだ……。まあ、無理もない。私は電車に乗るのが好きだ。心地よい揺れ、温かな座席、規則的な走行音。そして、旅――
――カチカチカチカチカチカチ。
……カチカチ?
妙な音だ。電車の走行音じゃない。車内で鳴っている。
……あれか?
音のするほうへ、軽く伸びをしながら視線を向ける。
少し離れた座席――四人分ほど間隔を空けて――に女がいた。うつむいたまま座っている。その口元が微かに動いていた。
――カチカチカチカチ。
歯を鳴らしているのか? 顎を小刻みに動かし、上下の歯をぶつけ合っているのか……。
なんか、気味が悪いな。美容法か? いや、まさかな。この角度からでは顔はよく見えないが、くたびれた地味な服装からして、そう美意識が高いようには見えない。単に頭がおかしいのだろう。
私は女から顔を背けた。構う必要はない。
ふっ……。もしも、ここにお調子者の友人がいたなら、「おい、見ろよ」と肘で小突き合い、クスクス笑ったかもしれない。だが今は一人だ。そういうノリに付き合う必要はない。まあ、嫌いではないが。
一人……そう、一人だ。
妙な違和感が胸の奥を引っ掻いた。
なんだ? ……いや、まあいい。まだ眠気が勝る。再びまぶたを閉じると、バターが溶けるように意識がゆっくりと落ちていくのが分かった。
夢を見た。仲間たちと山を登っている。高校時代からの付き合いだ。暖かな陽の光に包まれ、昔と変わらずくだらない冗談を言い合い、笑い声が澄んだ空気に溶けていく。
足元では踏みしめた小石が靴の下で擦れ合い、軽やかな音を立てる。そのうちの一つが弾かれ、山の斜面を転がり落ちた。
――カチ。
音がやけに響いた。不自然なほどに。でも、どこか聞き覚えがある。
私は耳を澄ませた。
――カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ。
……あの音だ。
再び目覚める。
音が近い。異様なほどに――。
「……っと! う!?」
横を向くと息がかかるほどの距離に女が座っていた。
驚きのあまり、思わず席からずり落ちそうになる。だが、必死に留まった。出かかった悲鳴もどこかへ消え失せた。足が床に触れなかったのだ。
見下ろすと、そこにあるはずの電車の床はいつの間にか消えていた。
暗い。底の見えない闇が大きく口を開けていた。
――カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ。
音が近づいた。女が歯を鳴らしながら、のしかかるように体を寄せてきたのだ。
乱れた髪が頬に触れた。顔が見える――だが、そこに目が、鼻もない。
あるのは顔の半分を占めるほどに大きな口だけだ。そして、異様なほどに整った白い歯。それはまるで……雪……?
……雪だ。
気づくと、私は雪の上に横たわっていた。
でも、なぜ……ああ、そうだった。
夢を見ていたのだ。
体の感覚はとうに消え失せている。降りしきる雪、体を覆いつくす白。だが、その重さ、冷たささえ、もう感じない。
静寂が支配する世界。
ただ歯が鳴る音だけが体に響いていた。
――カチカチカチカチカチカチカチカチ……。




