温暖化問題
急遽開かれた地球温暖化対策会議。発起人は著名な発明家(元、と付けてもいい。最近はあまり活動していない)でもあり、日ごろから地球温暖化問題を人々に強く訴えている、オレンティン博士だった。
各国の環境大臣や記者、大企業の重役などが集まる中、我が国の環境大臣は予定があるという理由で、秘書の俺だけをここによこした。
まあ、大臣が博士を軽視しているのも頷ける。こう言ってはなんだが博士は夢想家の環境バカ野郎だ。それはここにいるほとんどの人間が理解していることだが、おかげでこちらは利益を得ているので欠席するわけにはいかないのだろう。博士が広く地球温暖化問題を訴えてくれるおかげで、エコだや温暖化対策を掲げてビジネスを展開できる。企業も政治家も環境保護をアピールし、堂々と懇意の企業に補助金を垂れ流している。危機感を煽れば煽るほど利益になるのだから、博士にはぜひ神輿の上で踊ってもらっていたいというわけだ。
『ですので! 地球の痛みを知り、我々人類が一丸となって問題に取り組むべきなのです!』
博士は壇上でマイクを片手に大真面目に訴えているが、一個人としてはエコだの環境保全だのなんだのはくだらないと思う。この国が全力で取り組んでも、知らん顔をして滅茶苦茶にやっている他の国がある。ぜひ、名指しでそれを指摘してほしいものだ。ああほら、その国の大臣が席でニヤついている。でも同感だ。俺は紙ストローのあのマズさに辟易している。
『――と、いう訳で今、私の後ろにある、こちらの装置。これを起動し、みなさんに危機感を持ってもらおうと思います。では起動っと。はい、こちらにデジタル温度計がありますね。ああ、これはかなり頑丈に作ったのでご安心を』
……起動? 何のことだ? あれか? 博士の後ろにある黒い冷蔵庫のような形と大きさの装置は確かに起動したようだ。何か音がする。しかし、一体何の装置だろうか。説明を聞いていなかったせいでわからないが、確かデジタル温度計がどうとか、頑丈に作ったとか一体何で……ん、なんか……。
『さあさあさあ。室温が上がってきましたね。地球温暖化が進めば、このように息苦しくなるわけです。ははははは、地球の苦しみが身に染みるでしょう?』
28、29、30度――
温度計の数値が上がっていく。なるほど、確かに暑くなってきた。ネクタイを少し緩めておこうか。まったく面倒なパフォーマンスを始めたものだ。まあ、すぐに終わるだろう。
壇上で満面の笑みを浮かべる博士とは違い、周りの反応は冷ややかだ。ニヤついたり、眉を顰めたり、困惑している。その誰も彼もが額に汗を浮かべている。と、拍手している者もいるが、まだ早いだろう。
31、32、33、34度――
気持ち悪い。翻訳用のイヤホンをつけているせいで耳の中が蒸れてきた。壇上の博士は白衣が汗で滲んできているが、満足げな笑みを浮かべている。
36、38、40、42、44度――
とうとう体温を超えた。俺はスーツを脱ぎ、ネクタイを机の上に投げ出した。室温が上がったからといって体温が同じだけ上がるものではないが、元々俺は体温が低い方だ。正直言って、この状況は厳しい。
いつまで続けるのだろうか。老人の説教というのは、しつこくてしょうがない。誰かもう十分わかったと博士に伝えてくれないものか。いつまでこんなパフォーマンスに付き合わせるつもりなんだ。
47、50、53、56、59、62度――
ああ、暑い。暑い熱い暑い熱い。
机の上のコップに入った水を飲んだが生ぬるく、余計にイライラした。
ワイシャツのボタンを開け、靴と靴下をこっそり脱いだ。尻に汗をかいたようで気持ちが悪い。
尻を浮かせ、前かがみになると前の席の女のシャツが透けて下着が見え、ますます前かがみになった。
66、70、74、78、82、86、90度――
『ふー、博士、素晴らしい装置だよ。ちょうど家にサウナを作りたいと思ってたんだ』
どこかの国の者がそう言うと、会場に笑いが起きた。その言葉や笑い声に「もう十分だよ」という気持ちが滲み出ていた。
『ああ、確かにな。実に気持ちがいいが、もう十分だ。装置を切ってくれ』
『なんだ、もう音を上げるのか? まだ100度にもなってないじゃないか』
『俺は120は行けるな』
確かにサウナに比べればとマシだが、俺はもう限界だ。そもそもサウナなどというものに、好き好んで入る奴の気が知れない。健康に良いと謳っているが爽やかな自傷行為だろう。
さあ、もう十分だ。付き合い切れない。まだ続けるならご自由に。俺は外気浴と行こう――
『あ、開かないぞ! 扉が開かない! 博士! アンタの仕業か!』
会場の入り口近くの席で、マイクに向かって誰かがそう言った。
どうやらその男はこっそり逃げようとしていたようだ。しかし、扉が開かないとはどういうことだ。まさか……。
95、100、105、110、115、120、125、130度――
『ああ、その通り。しっかりと体験してもらわなければなりませんので扉は開きません。どうも、みなさんは真面目に温暖化対策する気がないように思える。もう何十年も前から私は危険性を訴えてきたというのに!』
あああ、あのクソッタレめ! 狂ってやがる!
机の上のパソコンのモニターが次々と暗くなった。マイクを通していないので何を言っているかわからないが、会場にいる大勢が立ち上がり、博士に罵声を浴びせている。
その中にはおそらく熱で変形したのだろうメガネを掲げ、装置を止めるよう博士に近づいて訴えている者もいた。だが博士は首を振り、頑として続けるようであった。
本当に暑い。汗が尋常じゃなく噴き出してきた。目眩がし、机に手をついたが、その机もまた熱もっていた。頭痛は心臓の鼓動のように絶え間なくしている。
『いいかね、これは未来なのだ。地球の、人類の。そう、君たちは今、未来を見ているのだよ! 素晴らしいじゃないか!』
『博士、ああ、わかったとも、だからもう装置を切ってくれ』
『ふざけるな! これは脅迫だ! 拷問だ!』
『俺は140度のサウナ入れるけどな』
『俺は150度は行ける』
俺はとうとうワイシャツとインナーシャツを脱ぎ、それからズボンも脱いでパンツ一枚になった。
他にもちらほら同じような恰好の人が見受けられた。ネクタイを着けたままにしているのは、せめてもの礼儀か。
前の席の女はそれらを見て怪訝な顔をしたが、フーッと息を吐くと服を脱ぎ、ついに上はブラジャー、一枚になった。他の女も上下着一枚のみを残して、全員服を脱いだ。それを見て、男たちがニヤつき、女たちは嫌そうな顔をした。
しかし、俺はそんなことはどうでもよかった。今、ストリップショーを楽しむ余裕はない。どうにかここから逃げなければならないが、この会場には窓がなく、出入り口は一箇所のみ。大勢がその出入り口の扉に駆け寄り、叫びながら叩くが一向に開く気配がない。
『先ほど、私の指示で外側から溶接したのです。気が付きませんでしたかな? まあ、まさか閉じ込められるとは思わないから気づきようもないですか。それに私の話に眠そうにしてましたものなぁ、ははははははは!』
136、142、148、154、160、166、172――
『はかせ、頼むよ、えー、あー、おねがいひょうちきって』
呂律が回っていないのは、マイクを手に発言している男ではなく、うちの国の担当の通訳係が参っているらしい。イヤホンからぜいぜいと息づかいが聴こえ、暑苦しい。
通訳係が集まる席に目を向けると死屍累々。気絶していると思わしき者もいる。うちの国はまだ優秀なほうだなと、どこか感心した。
『おれは180いけりゅ』
『ろれは200だぬ』
『ほんなサウナありゅかー』
179、186、193、200、207、214、221、228――
刺激臭が漂い、何事かと思い、俺が辺りを見渡すと全裸になり、放尿する男と目が合った。その男は外国人のため、何言っているかわからなかったが、たぶんこう言ったんだ。
裸になるとでちゃうの!
他にも全裸になる者が大勢いた。女もいた。それに興奮したのか勃起し、若い女もそうでない女もお構いなしに男たちが集団で取り囲んだ。各席に置かれたペットボトルの僅かな水の奪い合いが起き、怒号と汗と血飛沫が飛んだのが見えた。
『こ、このままでは人類は滅びる! 苦しみながらみんな死ぬんだ! お前たちにはそれがまだわからないのか、あっ、やめろ! やめないか! あ、ああああああああ!』
壇上に押しかけ、博士に装置を止めるよう詰め寄っていた連中がついに博士を殴り、そして滅茶苦茶に踏みつけ始めた。
装置に近づき、スイッチを探ろうとする者がいるが、その暑さで蚊取り線香に近づいた蚊のようにフラフラと離れてはバタバタと倒れていく。
唇が痺れ、筋肉が痙攣を起こし、そして俺は嘔吐した。全身から噴き出す汗は止まることなく、正常な皮膚を斑点状に僅かに残し、全身の肌が真っ赤になった。
失神し、尿と大便を漏らす者が多数あった。床に溜まった尿を啜る者も見受けられた。俺は漂う悪臭にまた嘔吐した。
『りょれは300はいけりゅ』
『れろれろれれー』
『おちんちーんいっぱいーいっぱーつ』
翻訳係の頭がとうとうイった。いや、逝ったようだ。もう、あの暑苦しい息づかいも聴こえない。最後の言葉は消え入るような声のおちんちん。この会議に選ばれた者だ。きっといい大学を出たエリートなんだろう。なんてこった。
236、244、252、260、268、276、284、292、300――
俺は意を決し、壇上に向かって歩き始めた。希望はあそこしかない。出入り口は、逃げようとしたが力尽きた者たちが折り重なって肉の山となり、扉を覆い隠していた。
すでに意識は朦朧としていたが、俺はどうにか壇上まで上がり、後ろを振り返った。
ほとんどの者が力尽き、唯一動いているのはセックスをしている一組のみだった。それもただ揺らいでいるだけで陽炎よりも動きが緩慢であった。ひょっとしたらただ痙攣を起こしているだけなのかもしれない。
博士に詰め寄った者が、装置のリモコンか何かを探したのだろう、博士は服を毟られ全裸の状態で事切れていた。体のところどころから骨が飛び出し血塗れで、顔は潰されて原形をとどめていない。
俺は問題の装置に近づこうとしたが、途端に肌の痛みが増し、ブクブクと水ぶくれができた。
黒い装置の材質は鉄のようで、ジュウジュウと音と煙を立てている。ひょっとして、この暑さに装置も限界なんじゃないかと僅かに希望を抱いたが違った。それは、おそらく力尽きて倒れたのだろう装置に張り付き、死んだ人間を焼く音と煙だった。
装置のこの黒い外殻は中の装置を守るためのカバーのようなものらしい。よたよたと歩いて装置の周りを一周したのだが、熱を放出する切れ目があるだけで、スイッチらしきものは見当たらなかった。
目を細め、その切れ目に焦点を合わせると、俺はその中に小さな太陽のようなものを見た。綺麗だと思った。
しかし、これ以上この装置の近くにいるのは無理だ。俺はそう思い、壇上から降りた。いや落ちた。足がもう限界だった。痛みは感じなかったが、立ち上がる気力はなく、ごろりと仰向けになるように転がると壇上の温度計が見えた。
温度計は300度を超えていた。そしてなおも室温は上がり続けている。
体の痛みも熱さも遠のき、俺は寒気すら感じた。
やがてケタケタと笑う声が聞こえ始めた。
驚くべきことにまだ生きている人がいた。男だった。女もいた。全裸の男女が続々と壇上に上がり、叫びながらまるで蛇の脱皮のように自分の皮膚を剥き始めた。
倒れている連中の目玉が沸騰し始めた。
髪の毛が燃え出し、煙が上がった。
パソコンや紙が発火し、煙が混ざり合い、何も見えなくなった。
でもたぶん、それらは全部幻覚だ。壇上に人が上がったところから俺が見たものは全部幻覚。
もう、みんな死んだ。俺も、もうすぐ死ぬ。あるいはもう死んでいる。目の前は真っ暗だ。
……だが、俺は思った。これは確かに、博士の言う人類の未来なのかもしれない。
人類は苦しみながら滅びる。
でも、それは少し間違っていると思う。
だってほら、楽しそうな笑い声が聞こえる。




