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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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鬼、来たる

「ああ、やばいやばい……」

「おに、おに、おにがくる……」

「ああ、あ、あ、ない、ない……」


 スーパーに入った瞬間、青い顔して呟くスーツ姿の連中を見て、おれは"ここもか"と圧し掛かる絶望に背中を曲げた。

 せめて、前を向いて連中の惨めな姿を笑ってやろうとしたのだが、やめた。おれも連中と同じような顔をしていることは店内にある鏡でわかる。

 青白い顔。乾燥した唇。半開きの口の中は乾いている。手足が震え、脇が湿っている。おまけにトイレを我慢して店をハシゴしていたから漏らしそうであった。

 ため息を吐くと、一瞬だが臭った。おれは自分のこの臭い息が武器にならないかと思ったが、あまりにも馬鹿げたアイデアで、呆れ笑いさえ出ない。

 そして相手の息の方が絶対に臭い。

 三年前、初めて嗅いだその匂いがふと脳裏によぎり、映像とともに恐怖がフラッシュバックした。


 鬼。


 鬼が来る。作り物じゃない、本物の鬼だ。三年前から節分に鬼が現れるようになったのだ。

 夜。自宅の団地アパートのドアをゴンゴンと金属で叩くような音。それが金棒だったことはすぐに分かった。

 宅配便か宗教の勧誘だろうと妻に小突かれ、玄関に向かったおれの鼻をぶち破られたドアが掠めたのだ。

 驚いたおれはその場に尻もちをついた。その恐ろしい見た目。真っ赤な肌に二つの角。説明は不要だろう。一目でそれとわかる鬼である。ただし腰布は着けておらず、しかしその剛毛で性器は隠れていた。


 おれは恐怖のあまり、のちに顎が痛くなったほど口を開け、腰が抜けてしまった。

 そんなおれの代わりに悲鳴を上げたのは隣の部屋の住人だった。占い師のような風体の太った中年女性で、今まで数回しか顔を合わせたことはなかったが、あの耳障りな声は間違いない。

 だが、壁を突き抜けるその甲高い悲鳴はすぐに途絶えた。直前に、ゴン! という鈍い音がしたので、その脳天に金棒が振り下ろされたことは想像しやすい。

 隣にも鬼が来ている。かと思えば下の部屋、否。この団地中から次々と悲鳴が上がったことからして、全部屋に鬼が訪れているのかもしれない、とおれは思った。


 おれは目の前の鬼があの悲鳴を聞いた時、少し不快そうにしていた様子にある種の共感を覚え、仲間意識を感じて笑顔を作ってみた。

 しかし、一歩、鬼が前に進み出ると、尻を向けて手足をバタつかせ廊下を走った。

 リビングに入ると妻がまだ飲みかけだったおれのビールを流しに捨てているのが見えた。息子が椅子の上からおれを見下ろし、パパなにしてるの? なんて言ってニヤつく。妻はその声に反応し、チラリとおれを見ると、ため息を吐き、食器洗いに戻った。


「お、お、おに、鬼が出た……」


 信じて貰えるはずがないことはわかっているが、それでもそう言うほかなかった。どの道、リビングに入ってきた鬼を見て、おれが何を言わずともわかることではあったのだが。


 ヌッと現れた鬼を見て、妻が悲鳴を上げた。息子は泣きながら妻の後ろに隠れる。まさに今こそ父親の威厳を見せる時だが、おれはようやくつかまり立ちができるようになった赤ちゃんのようにテーブルに手をかけ、ぷるぷる震えることしかできなかった。

 そんなおれを押しのけ、妻が突然、テーブルの上に置いてあった節分用の豆を鬼に投げつけた。

 もしかしたらこの時点では妻はドッキリか何かだと思っていたのかもしれない。そうであって欲しい。そうに違いない。妻は蛇口の水の音とテレビの音でお隣さんのあの悲鳴も聞こえていなかっただろうし、ドアが破られるのを実際に目にしたわけではない。ゆえに仕方のないことなのだ。おれは腰抜けなんかじゃない。


 豆をぶつけられた鬼は仰け反り、壁に背をぶつけ、その振動で部屋に飾ってあった安物の絵が傾き、おれはテーブルから手を放して床に倒れた。

 妻がさらに鬼に豆を投げつけると、鬼は床に膝をついた。

 鬼と同じような体勢のおれはまた鬼に共感を覚えた。

 目が合ったので笑顔を向けてみたが、鬼はただ血走った眼を向けるだけで、おれはその顔の恐ろしさに、少しだけ漏らした。

 妻が鬼の背中に豆を投げつけると、鬼はゴリラのように四つん這いで床を駆け、玄関から出て行った。


 死者は数千人に昇った。重傷者も同じくらい。

 意外なことに、他にも豆をぶつけることを思いついた連中がいたようで、それほど大きな問題にはならなかったようだ。

 いや、大事ではあるが、おれは地獄から鬼が人類を滅ぼしにやってきたと思ったので、それに比べたら小事である。

 むしろ、おれからしたらその後の家庭内の立場の悪さの方が一大事である。名誉挽回しようとおれは翌年の節分の日、豆を構えて玄関に立っていたのだが、鬼がやってくる時間は夜と言ってもバラつきがあるようで、「なんだ、来ないじゃないか」「そうだ。去年だけだったんだ」とちょうど油断、集中力が切れた時に現れたものだから、おれはまたしても腰を抜かしてしまった。

 風呂上がりの妻が慌てて豆を投げつけ、追い払ったため大事には至らなかったが、おれの立場と頭は低くなる一方であった。

 

 そして去年は鬼が現れなかった。わざわざ玄関の鍵を開けて、日付が変わるまで粘っていたのにやって来なかったのである。

 しかし、外、町の方で悲鳴が上がったことから、やはり例年通り現れはしたようであった。

 すでにニュース番組で、全家庭に現れるわけではなくランダムらしいという情報は知っていたので、それほど驚きはしなかったが、名誉挽回ならず、おれは肩を落とした。


 そして今年。なんと豆がない。その理由はまさに鬼畜。人の業。買占めである。

 この現象が起きてからというもの豆を買い占める輩が激増、いや、大半であった。何せ命にかかわるのだ。おまけに『賞味期限の過ぎたものは効かない』『国産でないと駄目』『年内に生産されたものでないと意味がない』などの噂が蔓延した。

 メーカーまでも大々的にそう銘打って高値で販売しているのだからもはや救いようがない。地獄行きだあいつらは。

 そして転売屋がそれを買い占め、値を吊り上げるので、手に入れるのは困難であり詐欺が横行、悪鬼羅刹。そう、こうして当日になっても豆を求める姿は地獄の亡者のよう。見つからない。しかし、当日だからこそ、豆を高値で売りつけたいはず。

 どんな値段でも今は喉から手が出るほど欲しい。手に入れなければ妻に何て言われるか。だから、おれはこうして店をハシゴし、探し回っているのだ。

 親戚や兄弟でさえも豆を分け合うのは困難だ。なぜなら鬼によって個体差があるのか豆の耐性というものが異なる。これだけ用意しておけば十分だろうなんてことはないのだ。

 一昨年、妻が鬼を撃退した時は豆を五袋も要した。政治家が言うには当日までに十キロの貯えが必要などと、ああ、苦労知らずの金持ちはいい気なものだ。

 当日ともなると枝豆はおろかピーナッツバターまでも売り切れなのだから、どうしようもない。諦め、スーパーから出ると駅前のスペースに人だかりができていた。


「ほい! 八万が出たよ! さあさあ他にいない? 豆はいくらあっても困らないよ!」


 豆のオークションをやっているようだった。軽トラックの荷台の上に乗った、ねじり鉢巻きに金髪の若い男がスピーカーを片手に客寄せのために豆を撒いている。

 鳩のようにそれに群がる人、人、人、人、人人人人人……。なんて光景だ。餓鬼餓鬼餓鬼だ。まさに地獄の一部を切り取ったかのよう。

 しかし、気づくとおれは背を低くして、その豆を拾い集めていた。どうせ粗悪品だとわかっているのに、それでもやめられない。

 結局十二粒しか拾えなかった。妻は政府やらメーカーやら教師やら、言葉よりも立場を信じるタイプの人間なので、効果がないと言われている去年の豆は捨ててしまった。

 そのくせ、おれに豆を買ってこいと言うのだから暴君もいいとこだ。

 しかし、醜態を晒した身としては逆らえるはずもない。『私はあなたの命の恩人なのよ!?』と何度言われても未だ、返す言葉が思いつかない。

 おれが鬼を退治さえすれば……と思うのだが、見通しは暗い。そう、暗い。

 夕日が沈む。ふと、このまま帰らなかったら? と頭に浮かんだ。

 心を鬼にし、見捨てる。想像すると息子の猿のような悲鳴と妻の鬼の形相および恨み節が聞こえ、背筋が冷えた。

 おれを縛るのは恐怖か愛か。努力はしたと言い訳が欲しくて、帰り道にあるコンビニに立ち寄る。

 店内は何人かの、やはり亡者のような顔をした三人の男が腰を低くして商品棚を食い入るように見つめていた。なんならさっきスーパーと軽トラックの前の人だかりで見た顔もあった。

 そのうちの一人がおれを見て、同じことを思ったのかその低い姿勢のままぺこりと会釈してきたので、おれも仕方なく会釈した。ただちょっと嬉しい気持ちになった。

 店員はレジカウンターで突っ立ったまま欠伸をしているので、その余裕、もしやレジの下に豆を隠し持っているのではないかとおれは疑った。

 他の連中がいつまでも出て行こうとしないのはおれと同じ考えを持ったのかもしれない。それか家に帰りたくないか。

 探したが豆と名につく商品は、つぶあんの豆大福ぐらいなもので、おれはこしあんが好きだ。おれはため息をつき、豆大福を棚へ戻した。


「あ、あ、あ、ああああああ!」


 亡者の一人が声を上げたので、まさかと思い、おれは入り口に目を向けた。ちょうど自動ドアが開き、入店時のメロディーが流れた。


 鬼だ。


 店員は目も向けずに「いらっしゃいませー」と言ったので、おれはあいつがロボットか何かかと思ったが、鬼が金棒を横に振り、中華まんのケースを叩き割り、勢いそのまま店員の頭を下顎だけを残して吹き飛ばし、トイレが逆流するように血が吹き上がったので、あいつは人間であったと、おれはよくわからない安心感を得た。

 しかし、それも束の間である。鬼が来るのは家だけとは限らない。それもニュースで知ってはいたが外で遭遇するのは初めてのことであった。


 ひゃあああと悲鳴を上げ、鬼の後ろ、自動ドアに駆け込んだ亡者の一人が、すぐさま振り返った鬼が振り下ろした金棒によって頭を叩き潰され、入り口のカーペットに大きなシミを作った。

 倒れた体は手足をほんの少し折り曲げ、虫のようにびくびくと不規則に動いていた。

 

 鬼が手前側の通路、雑誌コーナーを通過して行く。おれは真ん中の通路から顔を出し、それを見つめる。

 鬼の大きな体、あの筋肉が生み出すパワーは今見たとおりだ。瞬発力もさることながら足の速さも人間とは比べ物にならない。 あれから逃げるには距離が必要だ。鬼が店内の奥、隅にまで来たら自動ドアに向かって走ろう。

 おれはそう作戦を立てたが、早まった亡者の一人が入り口に向かって走ったため、鬼はまたも入り口近くまで戻った。

 鬼がダッシュと共に繰り出した金棒による突きは、ビリヤードの玉のように亡者の一人の頭を吹き飛ばし、壁に蝋燭の火のような丸みを帯びた赤い染みを作った。その吹き飛んだ頭部はズリズリと下に落ちていった。金縁の眼鏡はひしゃげ、金棒の棘に引っ掛かっていた。

 鬼はそれを不快そうに摘まみ上げると床に落とし、のしのしと今度はレジ前を歩き始めたので、おれは慌てて通路の奥、商品棚の裏に身を隠した。残ったもう一人はトイレに駆け込んだようである。


 何とか隙を見て、おれは姿を隠しながら店の出入り口に近づこうと思ったが、鬼は獲物を探すのが面倒に思ったのか金棒で商品棚を壊しながら店の奥へと進み始めたので、これはもう詰んだとおれは思った。とは言え、潔く現実を受け入れたわけではない。足は震え、今にもああ、少し漏らした。


 鬼が迫る。鼻をひくつかせ、おれの股間から香る臭いを捉えたのだろうか。

 来る、来る。鬼、来たる。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏無駄無駄無駄。鬼は情けを見せず涙を見せず笑いもしない。ああ来る来る来る。鬼が来るくるくるクルクルクル狂狂狂……


 ――ゴォォジャアアアアアア


 鬼が足を止めた。トイレの方から水が流れる音がしたのだ。もしかしたら、亡者が隠れたついでに用を足したのかもしれない。そして自分のクソの臭いに耐えかねたのか、それとも癖でつい流したのか。可能性として一番大きいのは気が狂ったのだ。水が流れる音の中にえへえへと麻薬中毒者のような笑い声が混ざっていた。真相はわからないが何にせよ、鬼が素早くトイレの方へ向かったので、おれは自動ドアから外に出ることができた。

 背後から恐らくトイレのドアが壊された音がした。そして悲鳴。おれは振り返ることなく、家に向かって走り出した。


 渡る世間には鬼がいる。夜の住宅街、家々から悲鳴が飛び交う。

 ガラスを割り、外に出て柵を乗り越えようとする住人と目が合うも、助けを求めその伸ばした手におれが腕を上げる間もなく住人は後ろから脳天目掛けて金棒を振り下ろされ、ポットのお湯を出すように鼻から勢いよく血を出し目玉を飛ばし、壁の向こうへ沈んだ。

 おれは糸のついた目玉を飛び越え、断末魔の叫びが響く中、よろけつつ走った。


 団地の近くまで来るとベランダから飛び降りる住人が見えた。恐らく十分な豆がなかったのだろう。

 おれはホッとした。豆を用意できなかったのは自分だけではなかったことと、妻なら息子と一緒にああして逃げおおせるだろうと。

 しかし、鬼が後を追い、飛び降りたため、おれの顔は紐で縛ったように再びキュッとなった。


 階段を駆け上がり、自分たちの部屋に向かう。尤も帰ったところで豆もなし。しかし、おれの心は決まっていた。死ぬなら家族一緒がいい。

 

 部屋のドアは開けっ放しになっていた。おそらく、鬼が来ているのだろう。強い力で握られたのだろうドアノブが拉げており、ドアが僅かに開いたままであった。

 指でその隙間に手を入れ、開ける。

 キィーと音がした。電気はついたまま。静かだ……いや、テレビの音がする。

 唾を呑み、中に足を踏み入れると鬼の残り香か、やや汗臭い匂いがした。

 靴を脱ぎ、廊下を進む。開けたままのリビングの扉。中へ踏み込む。


「……遅いわよ」


 妻がしゃがみ込んでいた。

 そして鬼は……そのそばにいた。鬼の目には包丁が突き刺さっていて、そこから涙のように血が流れた痕跡が見受けられた。


「豆……豆は!? 買ってきてないの!? 頼んだでしょ! 遅いし、ホントお前、なにしてたんだよ!」


 妻がキッとおれを睨む。


 ――豆。


 おれはポケットの中に手を突っ込み、そこからあの時拾った豆を何粒か取り出した。

 そして、その豆を妻に向かって投げた。


「お、鬼は外……」


 福を招く分もなかった。

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