隔たった世界
「うっわぁ、ここ高いですね、先輩」
「……ああ、そうだな」
「落ちないように気を付けないと、ってははは! 当たり前か!」
「……ああ、そうだな」
「……っす」
高層マンションの窓拭きのアルバイト。高い場所は好きな方だし、何なら楽しみにしていたくらいだ……が、どうもこの先輩。愛想がないというか暗い。せっかく、こっちがおどけてみせたのに無反応だ。まあ、命の危険が伴う仕事だから、それが普通なのかもしれない。
「……ろよ」
「え? すみません、何ですか?」
「……気をつけろよ。中を見過ぎないようにな」
「え? ああ、プライバシーの侵害ですもんね、了解でーす」
「……呑み込まれるぞ」
「はい?」
「……準備できたか? 行くぞ」
「ああ、はい」
このマンションは二十階建て。ロープでぶら下がる方式だからこの高さはやはり少し怖い。
と、速いな。さすが先輩。もう降りて行った。二人で屋上から一階ずつ降りながら窓を拭いていくから遅れるわけにはいかない。
それにしても、窓がかなり大きい。金持ちはやはり違うな。壁や窓に足を掛けて右へ左へ移動し、洗剤をつけたモップで汚れを落とし、ガラスワイパーで汚れた水を切り取っていき、仕上げに乾いた雑巾で拭く。
ちょっとした忍者の気分が味わえて楽しく、思っていたほどの不安はない。きっちり講習を受けたので問題なし、っとははは、猫が寄ってきた。
うん? この猫……何か変だな? 奇形……か? ちょっと不気味だな……。
「おい、次行くぞ」
「あ、はい」
「……それと中をあまり見るな」
そう言われてもな……。そもそもこの金持ち連中は自分たちの生活を見せびらかしたいんじゃないか? 見られたくなきゃブラインドなりカーテンなりをつけるだろうに。
大体、窓を拭くんだ。中を見るなっていう方が無理。まさか目を閉じろとでも……
「うおっ!」
「見るな」
「いや、でも、こいつら真っ裸でヤッてますよ!」
揺れる胸に揺れる金玉。夫婦、あるいは売春だろうか。太ったハゲ頭の男が二十から三十代くらいの女を後ろからガンガン突いていやがる。
窓が分厚いせいか声は聞こえないが、その絵面でパンパンパン! と音が想像できる。
女はテーブルに手をついて紙で顔は見えないが男は恍惚な笑みを浮かべていた。横向きだからそう、図鑑に載っている虫か何かの交尾の写真を思い出す。
「おい、いいから見るな」
「そりゃ手は止めませんけど……うわ、胸でか。どう考えても見られたくてやってるでしょあれは……あ、おお、ほぉー、フゥー!」
「次行くぞ」
「え、もうですか? はぁ……」
この先輩。あれを見て何とも思わないって、もしかしたらEDなのかもしれない。くそっ、もうちょっと……ん? 今……。
「おい、次だぞ降りてこい」
「はいはい……うわ、何ですかここ、きったな!」
「汚いのは内側だけだ。外は関係ない。いいから見るな」
次の階の部屋は汚部屋なんてものじゃない。菌類の森だ。一面が白と緑のカビの絨毯。それが窓の下側から上に向かってせり上がるように張り付いている。
そして生えているキノコ類はどれもおどろおどろしい。白い笠に赤色のジャムのような斑点がついている。なにより大きい。あんなの今まで見たことがない。電気スタンドみたいだ。
手入れしてないコケリウム。無法地帯。不浄の楽園。見ているだけで喉がイガイガしてきた。ここに住人はいるのか……? 暮らせるはずが……いや、あれは……手か? 手、手だ!
「せ、先輩! あれ! 人が倒れ――」
「見るな! 仕事をしろ!」
「でも……あれ? ない。見間違いか……?」
釈然としなかったが、おれは先輩の後に続き、仕事を終えロープを調節し下の階へ降りた。
途端、思わず吐きそうになり、嗚咽が漏れた。まだ一個上の階の映像が頭に残っていただけによく堪えたと自分を褒めてやりたい。
窓の向こうは糞尿まみれであった。積み重なる糞の山がアリ塚のような形を成しており、そこにハエが巣を作っているのかブンブン飛び回っている。
トイレが故障し、それがリビングまで溢れ出たのだろうか。尿が一面糞が敷かれた床の所々で溜まっていて、泥地の水溜まりにも見えるが、糞は糞だ。窓の内側にはこびりついた糞が陽の光で乾き、爪でひっかけばかさぶたのようにポロッと落ちそうだった。雨シミのように尿の汚れがあり、白い雑巾で拭いたら湿性の耳垢を拭いたテッシュのような色になるだろう。
窓が分厚いおかげか、こちらまで匂いが届くことはなかったが、人間の脳とは大したもので、おれはその悪臭を脳内で再現してしまっていた。
「おい、下に唾を垂らすな。クレームが来るぞ」
「おええ、で、でも、これ、ひどい、ですよ……」
「見なきゃいいんだ」
尤もな言い分だった。おれは目を細め、必死になってブラシを動かした。怖いもの見たさという言葉もあるがそう、見なきゃいい。
次の階は動物小屋かと思えば屠殺場であった。
鶏が寄ってきて窓をつつくのだが、おれはそれが助けを求めているようにしか見えなかった。
大男がその鶏の首根っこを掴むとテーブルの上に叩きつけ、そして包丁で首を一気に切断した。目を背けると窓際に転がる豚の生首と目が合い、おれはついに吐いた。
先輩はちらりとおれを見たが何も言いはしなかった。ただ哀れむような目をした。それはおれがあの鶏に向けた目と似ていた気がした。
次の階は乱交部屋だった。男女の全裸が踊る踊る。しかし、それは何の癒しにもならなかった。
全員血まみれなのだ。お互いを切りつけ合い、食人族の如く血を浴びケタケタ笑っている。もちろん、ケタケタというのはおれの想像。笑い声は聞こえはしない。ただ耳の中で響いている。
と、その中にひとり、怯えた顔をした男がいた。その男は助けを求めるように窓に向かって手を伸ばしたが、その指は大鋏で見事に切断された。
うまいことを言われ、あそこに連れて来られたのだろうか。おれはその男と自分を重ねまいと必死にブラシを動かした。
しかし、どこもこうなのだろうか。マンションの上階は下からは見ようとしても見れない。首を痛め、太陽の眩しさに目を細めるだけだ。
ここに来て、唯一いい思い出のあの男女のまぐわいも衝撃的な映像を見過ぎたせいか、記憶の中で豚人間同士の相撲に変貌を遂げていた。
だから、きっとあの時、人体模型のようにあの男女の片側の皮膚がなかったように見えたのも気のせい。きっと記憶が混乱しているのだ。おれはそう言い聞かせ、次の階へ降りる。
窓の向こうは一面真っ白。煙で満たされていた。おれは火事かと思い、慌てふためいたが先輩に肩を小突かれた。
『見なきゃいいんだ』
ここにきて、そのアドバイスが神の啓示に思えた。しかし、仕事をしていると、ふと部屋の中に人影のようなものが見えた。二足立ちではあるが人間ではないと、おれは確信めいたものを抱いた。
そしてこれが煙ではなく、霧なのだと気づいたが、それもどうでもいいことだった。無関係無関係。おれには関わり合いのない世界だ。だからそう、見なきゃいいんだ。
階を降りる。総理大臣に似た男に恰幅のいい社長風の男が、どう見ても賄賂らしきものを渡していたが、それも見なきゃいいんだ。
怪しい新興宗教の集会。それに参加するテレビで見た顔も見なきゃいいんだ。
ベッドに縛り付けられた複数名の男女。怪しい装置。人体実験だろうが見なきゃいいんだ。
拷問部屋で泣き叫ぶ男。見なきゃいいんだ。
ヤクザをもてなすお笑い芸人。見なきゃいいんだ。
夫婦喧嘩。たった今、妻が夫を包丁で刺した。見なきゃいいんだ。
有名男性アイドルと女性アイドルのセックス。見なきゃ……い、い、ん、だ。
見なきゃいいんだ。見なきゃいいんだ。見なきゃいいんだ。
「見てみろよ。いい夕日だろ」
「……はい」
仕事を終え、屋上に戻ってきたら、もう日が暮れかけていた。夕日を浴びて一息ついた途端、疲労感に襲われ、おれはその場に座り込んだ。
「お前、見込みあるよ。呑み込まれなかったしな」
「呑み込まれるって結局、何ですかそれ、はははは……」
「あれ、見てみろよ。それとあそこも、あそこも」
「え?」
先輩はビルやマンションを指さした。そこには、さっきのおれたちと同じように屋上から吊られている窓拭き作業員がいた。ただ、仕事中かと思えばそうではない。彼らは一定のリズムで手を上下に動かし、ずっと同じ場所を磨き続けているようだった。
おれにはそれが『こっちにおいでよ』と手を振っているように見えた。




