深夜の客
「ふぅー……ふんはんふーん」
夜中。男はクラシック音楽をかけ、一人、部屋でくつろいでいた。
ご機嫌な鼻歌が部屋に舞い、程良い眠気を誘う。
と、その時。
ノックの音がした。
彼はソファから立ち上がると、のそりのそりと緩慢な動きで玄関に行き、ドアを開ける。
相手が誰かよく確かめもしなかった。それが良くなかった。
彼の見開いた目に、鋭い包丁が映る。次いでフードを被り無精ひげを生やした男の姿も。
「な、な、誰だ、あ、あんたは」
「いいから手を上げて部屋の奥へ行けぇ……。そうだ、ゆっくりだぞ……」
逆らえるはずもなく、彼は部屋のソファにストンと腰を下ろした。手足が震えている。と、よく見えれば相手も震えていた。緊張か、それとも……。
一体、なんなんだ。強盗か? 彼がそう訊ねる前に男が口を開く。
「……お前は酷い奴だ」
「は……?」
「お前が振ったせいであの子は死んだ。お前はそれを知っても笑っていたな」
彼の頭の中にこれまで遊んだ女の顔が次々と浮かび上がった。しかし、死んだとなると、どれもしっくりこない。
だが、最後に浮かんだ顔で彼は男の言っている意味を理解した。しかし、それは……
「そ、それってこの前、俺が出たドラマの話か?」
そう、彼は役者。ただし悲しいかな『売れてない』が前につく。そして彼が出演したドラマというのは一話限りの脇役。それも女をたぶらかすホスト役。雑に言うなら主人公に成敗される小悪党。
「テレビで見た。お前は最低人間だ」
彼は呆れ、怒り、そして戦慄した。実際、悪役を演じた役者に苦情の手紙やら誹謗中傷のメールが届くという話は耳にしたことがある。現実とフィクションの区別がつかない、おかしな輩だ。
が、それが目の前に現れたとなると嘲笑もできない。その真剣な顔に背筋が凍る。
「あ、あれはドラマの話だから……」
「誤魔化す気だな。ああ、そうだ。お前は嘘つきだったからなぁううううぅぅ」
男が歯を食いしばりながらドンドンドン! とその場で床を踏んだ。
彼はビクッと震え、そして言った。
「……わ、悪かった。謝るよ。俺は酷い人間だぁ」
彼は持ち前のそこそこの演技力を活かし、男に取り入ろうと考えた。馬鹿正直に正論で説得を試みても恐らく通じないだろう。そう判断したのだ。
「いいや、許さない。殺す。それから金ももらう。札束があるんだろ? 高い時計も。お前は悪い奴だからいいんだ貰っても」
彼は青ざめ、自分の不運を呪った。こいつは正義の味方気取りのクソ野郎じゃない。結局強盗でもあったのだ、と。
「そ、それもドラマの話だからな――」
「いいや、ある! あああるはずだぁ!」
男がまたドンドンドン! と床を踏み鳴らす。その雰囲気に押され、彼はまたも男に話を合わせざるを得なかった。
「わ、わかった。わ、渡すよ……」
時計はある。安物の腕時計だ。だが、妄想に取り憑かれている男なら区別もつくまい。
しかし、ソファから立ち上がろうとした彼を男が制す。
「いいや、動くな。お前を殺してからゆっくり探す。そうするそうするおれはそうする」
まずい、そう来たか……しかしこの男、ヤク中だろうか。だとしたらいい薬を隠していると誘おうか。
と、あれこれ考えが浮かんではドンドンドン! と男の地団駄で風船が割れるように消えていく。
「殺す、殺してやるぅ」
男が迫る。その時、彼の頭にある考えが浮かんだ。
「な、なあ頼む。その音楽が終わるまで待ってくれないか? お、俺の最後の願いだ。それくらい聞いてくれてもいいだろう? なぁ、頼むよぅ……」
彼は立ち上がるとよろめいて、壁にドン! と凭れかかり、そして崩れるように膝をつき、そう懇願した。すると男はニヤッと笑った。
「ははは、情けない顔だぁ。わかった。いいだろう。それくらいはな、いい。うんうん。最後だからな」
妙なところで話が通じるのが不気味なところだ。しかし、ラジオのチャンネルを合わせるように、かみ合うこともあるのだと、彼は思った。ほとんどがノイズでしかないとも。
だが、次の願いもどうか聞き入れられるようにと彼は祈った。
「な、なあ、もう少し音を上げてもいいかな? 耳が悪いんだ。頼むよ」
「……ああ、いいだろう」
CDプレーヤーのツマミを捻り、音量が大きく上がった。肌がビリビリするようであった。
男は特に何もリアクションを、音楽に聞き入ることもなく彼をじっと見つめたままだ。
曲が終わるまであと一分もない。
彼はまだかまだかと床を踏む男の足をじっと眺めた。
あと少し。もっとだ。もっと強く……
曲が終わる、その時だった。
ノックの音がした。
「誰か呼んだのか?」
「いや、さあ……ああ、親友かもしれない。見てくればいい」
「お前と同じ、悪い奴か?」
「そうかもしれない」
男が玄関の方に向かうと彼はふぅーと息を吐いた。
次の曲が始まる。そして壮大な音楽と共に争う音。
あの怒気が篭ったノックの音からして訪ねてきたのは恐らくこのマンションの隣人。前から度々、騒音の苦情で言い争いになっていたのだ。
こちらからすれば相手が神経質なだけという話で自分は全く悪くなく、むしろ被害者だと思っていたが今回ばかりは感謝すべきかもしれない。警察を呼んでくれてれば尚よかったのだが、包丁持ちとは言え、二対一なら何とかなる。
そう考えた彼は玄関に向かった。その間にベランダから外へ逃げることも思いついたが遅かった。そして後悔した。
玄関に続く廊下。
そこに立っていたのは血塗れの隣人。
ただし、手には男から奪ったであろう包丁と、もう一本、元々持っていたであろう金槌が握られていた。




