月下の孤独
光。光。光。剣のように鋭く長い幾本もの光が闇を裂く。
それに驚き、今飛び跳ねたのは秋の兆し、蟋蟀。避けたのは蝙蝠。水溜まりに逃げたのは蛙。
夜を退け、草を踏み歩く行軍。それをはるか遠く、山頂近くの木の上から見ていた者。バーノン。それが彼の名。
自ら名付けたわけでもなく、特に気に入ってもいないが、名などどうでもいいからそのまま使っている。尤も名乗る相手はいないのだけれど。
光の隊列は整ったものではない。しかし、一定の距離を離れようとはしない嫌悪感を催す一塊。そしてあれらは何かを探しているようだった。
――俺を探しているのか……?
バーノンはかなり前にこの山に逃げのびた。口をもごもごと動かせばあの日の血の味が蘇る。少々手荒な真似をしたから追手が来る覚悟はしていた。しかし、いつ頃からか忘れたが時が経ち、安堵していた。
今さらとも思うが、当てなく探していたのならこの夜まで時間がかかったのも頷ける。バーノンは油断していた自分に苛立ちを覚えるも吐く息一つで冷静さを取り戻す。
まだ見つかったわけではない。ここに来るとも限らない。あの日からこれまで隠れて生きていた。手がかりなど残していない。
目の見えない者のように闇の中、そうやって手探りで蠢いていればいい。それを上から眺めるのも一興だ。
バーノンは月に歯を見せて笑った。
しばらくが経ち、バーノンは大きな欠伸をした。飽きと安堵。遠ざかる光に目を細め思う。何てことはなかった。こちらが気づいても気づかなくても結果は同じだっただろう。今の生活を何も揺るがしはしなかった。
バーノンは木から降りると、また一つ欠伸をした。眠気はあったがさっきの光の刺激で毛布に手を伸ばすにはまだ遠い。
適当に腹に何か入れようかと鼻をひくつかせ、耳をそばだてた。バーノンの感覚器は特段優れているわけではない。しかし、この夜。先程の一件で過敏になっていた神経が働いたのか、違和感に気づいた。それは歯に挟まった異物。バーノンは舌で探るように静かに歩き始めた。
落ち葉を踏み鳴らす音はこの山で目撃したどの動物の音にも当てはまらないものであった。しかしその音の大きさから、その全体像、重さがぼんやりとであるが脳内に浮かび上がる。
バーノンは相手に気づかれぬよう慎重にその音に向かった。退くことを考えなかったのは誰に認められたわけでもないが、この山の主たる誇りか。
――近い。近い。
その匂いにほんの僅かに懐かしさを覚えたが、それがこの山の異物である証。バーノンは苛つき、顔を歪める。しかし、月明かりの下、それを目の当たりにしたバーノンは硬直し、目を見開いた。
太く長い体に泥だまりのような形と模様が複数。そしてそれは時に不気味な目のように見え、バーノンはこの夜、初めて後ずさりした。そして腹立たしく思った。目の前のそれに。恐れた自分自身に。
バーノンは身を屈めると手探りで何かないか探した。
すると、その気配を察知したのかそれが動いた。地面を擦り、枝が折れた音がした。そしてそれは先っぽが少し持ち上がった。
目が合った。と、バーノンは思った。なんだ、あれが頭か。大したことはない、とも。
バーノンの存在を認識したそれはカグラという名であった。ただ、それもバーノンと同じく自ら名付けたものではなくまた、どうでもいいと思っていた。
カグラの口先から舌が飛び出すとバーノンは体をビクつかせた。
恐れではない。警戒心からだ。相手はどんな動きで何をしてくるかわからない。バーノンは気を引き締めた。
退くつもりは一切ない。その理由の一つは握っても余る大きさの石を手にしたからである。湯が沸くようにふつふつと体に闘争心が込み上げてくる。
早く。早くこいつを奴の頭に叩きつけたい。
確認するようにバーノンはちらりと手に持つ石に目を向けた。
たかが石ひとつで優位になった気に。それがマズかった。すでにバーノンがそれを敵と認識し、相手もまたバーノンを敵と認識した状況下で目を逸らす愚行。ろくに戦いの経験がなかったことは言い訳にもならない。バーノンは数秒後にそれを自ら知る。
――奴の頭に……奴は?
バーノンが再び相手に目を向けたとき、そこにカグラの頭はなかった。
元々、素早くはあった。だがそれ以上にカグラは静かにバーノンの近くに頭を、その口に秘めた棘のように並んだ牙を運んでいたのだ。
バーノンが咄嗟に腕を自分の首元に運んだのは直感か運か。
手首に食い込む幾本もの牙、バーノンはその痛みに悲鳴を上げた。
カラスかミミズクか、近くの木から飛び立つ音。バーノンは自身の体から意識を離し、上空から己を俯瞰で見たのはほんの僅かな間。またすぐに現実に立ち返った。これで終わりではない。そう感じ取ったのだ。
それは正解であった。カグラはバーノンの腕に噛みつくと瞬時にバーノンの体に巻き付ついた。
バーノンは即座にもう片方の腕を自分の胸の前に運び、僅かな空間を作ったがそれもあっという間につぶされてしまった。神楽に全身を巻かれ、急激に増した重さによろめき倒れると、ごろんごろんと二回ほどバーノンは空と地面を見た。
ピタッと止まった先、バーノンはダンゴムシが慌ただしく逃げていくのを目にしたが、何も思わなかった。
バーノンは目を剥き、口を大きく開け、荒く短い呼吸を繰り返し、脳に酸素を送り込もうと努める。考えねばならない。今、自分に巻き付いたこの生き物は細長いだけではない。いいや、何なら細くもない。太く力強く、ゴムタイヤのような厚みと感触だ。
今思えばこれと似た生き物をこの山で見たことがある。それはこれよりはるかに小さかったが、噛みつかれたときは声を上げた。
しかし、頭から齧りついてやればあっけないものだった。手に絡みつかれたときもむしろ気持ちのいい力加減であった。
それゆえ、こいつのこともどこか大したことはないと思っていたのかもしれない。あの戦いの経験も勝利も今、何も役に立たない。まったくの別物なのに。
締め上げる筋肉の塊がバーノンの体を軋ませる。膨らませた肺も徐々に狭まってきた。
さらに力強く腕に食い込む牙にバーノンは伸びきった舌の奥から声にならない悲鳴を上げた。足の指先から血の気が引き、代わりに絶望が込み上げるのを感じていた。
寄り添う痛みがむしろ、気を持たすのによかった。まだ折れない、折れるわけにはいかない。
――牙、牙。
バーノンは自分にも牙があることを思い出し、噛みつこうとした。だが届かない。バーノンは身じろぎしたが、早鐘を撃つ心臓と呼吸、そのどちらが速いか、またどちらが途絶えるのが速いか、その競争しかできることはなかった。
また、ごろりと転がり地面から空に目線が向いたのは冷血なカグラが見せた一つまみの温情か。
バーノンは月を探そうとした。どこか満たされない夜は、月を眺めることで安寧を得られると知っていたからだ。
しかし、木々に阻まれそれすら叶わなかった。なので、バーノンは頭の中で月を描こうとした。丸く、そしてそれはどこか
――石。
バーノンは自分が石を握っていたことを思い出すと咬まれている右手の手首を傾け、左手の指を伸ばし石を渡した。ごつごつとしたろうそくの火に似た形の石で運よく尖っている部分が下を向いている。
バーノンは左手首を動かし、その締め付けるカグラの体へ石を押し付けた。当然、力が入らないためビクともしないがバーノンは何度も何度も、抉るようにカグラの体に石を押し付けた。
――緩んだ。
ほんの僅かだが、その空間に流れ込んだ希望と安堵にバーノンは甘えはしなかった。バーノンは素早く左腕でぐいとカグラの体を押し隙間を広げ、そこからさらに体を、そして足を出しカグラの拘束から逃れた。
が、しかしカグラの牙は依然、右手首に食い込んだままだ。カグラが再びバーノンを締め付けんと、地を跳ね肉が踊る。
バーノンはカグラの胴体中央部を踏みつけ、そして頬を叩こうとした尻尾を掴んだ。踊るようにうねる体にバーノンもまた身を動かし、逃さないよう懸命に自重をかける。
しかし、それが精一杯。さらに攻撃を加えるにはカグラに隙がない。その間も焼けつくような痛みがバーノンの顔を歪ませる。咬まれている右手首から流れた血が体毛を濡らすのがわかる。バーノンは再び失念していたあることを思い出し、少しだが自分を恥じた。
――牙だ、俺には牙がある。
バーノンは大きく口を開け、引き寄せたカグラの尾に噛みついた。果たして効果があったのかはわからない。相手は悲鳴を上げないのだ。
だが構いはしない。バーノンはさらに力を込め、食いちぎらんと顔を振った。僅かにだが、カグラが咬みついている右手首の痛みが和らぎ、バーノンは勝利を見出した。
みちみちと肉が伸びあがり、バーノンはカグラの尾の一部分を食いちぎった。カグラのうねりが勢いを増し、それを片足で押さえるバーノンはある種の楽しさを覚え、さらに右手首からカグラが離れると、バーノンは勝利を確信した……が、それは束の間。すぐに掻き消え、またバーノンは戦慄した。
一度頭を引き、そして勢いづけたカグラの跳躍はバーノンの瞳にその口内の禍々しさを見せつけた。
咄嗟に顔を逸らしたバーノンであったが、右上唇と顎に食らいつかれた。カグラはさらに安定させようと牙を食いこませるよう動く。
バーノンが悲鳴を上げながらもがいたため、完全に固定されることはなかったが、カグラの胴体を踏みつけていたバーノンの片足が離れ、カグラに自由を許した。
カグラの胴体にドンと押され、バーノンは仰け反った。ここでまた倒れるわけにはいかないと足に力を入れる。左手は尻尾を掴んだままだ。そして今、右手でカグラの首を掴んだ。また押さえればいい。そう考えた。
バーノンはカグラの首を引っ張り、その牙を顔から離そうとした。だが、打ち付けるカグラの胴体に翻弄され、酔っ払いが見せる踊りのようにフラフラとよろめきながらであったため手間取った。
顔から外し、カグラの頭を空に掲げると逆光で黒いシルエットとなった顔、その並ぶ牙から血がポタッと垂れた。
僅かな安堵、そしてかつてないほどの怒りが込み上げた。
バーノンは右手でカグラの首を掴んだまま、左手の指をカグラの目玉に突き刺した。クルミパンからクルミをほじくり出すような感覚に楽しさと自身の嗜虐性を感じたが、それもそう長くはなかった。
――あ、左手……。
バーノンが気づいたときにはカグラの尻尾が顔面に迫っていた。
打ち付けられ、豪快に倒れたバーノン。頭を打ち、全身の力が抜けたがすぐにまた立ち上がった。
目の前には頭を上げ、口を大きく開け、右へ左へ揺らめくカグラ。
ここでバーノンの頭には逃げることも浮かんだが、すぐにそれを隅に追いやり、代わりにしたのは両腕を構えることだった。誰に教わったのかは知らない。野性を生き抜いた先祖の血かもしれない。
顔と水平になるように構えた手は顔面に迫る敵を捉えるのに適していると考えた。
バーノンは自分の精神が研ぎ澄まされていくのを感じていた。カグラの威嚇音も、葉が擦れ合う音も、遠くでカラスが一鳴きしたのも、頭上をいずれ通過する飛行機の音もさらに遠くにある車の走行音まで聞こえていた。
カグラの威嚇音が一瞬止み、跳躍するために力を込める、その筋肉のうめきさえも耳にした。
牙が迫る。だがバーノンにはその本数も何もかも見えていた。
バーノンはカグラの首根っこを掴むと即座に走り出した。もう尾による追撃を許すつもりはなかった。カグラの頭を地面に擦り付けながら山の斜面を勢いよく下り始めたのだ。
伸びきったカグラの体は抗おうとうねるのだが子供に引きずられる凧のように、こうなっては為す術がなかった。
バーノンは笑った。静寂を斧で割るように吠え、笑った。
茂みを突っ切り、落ち葉を蹴り上げ、そしてバーノンは飛んだ。
そこは山の切れ目アスファルトの上。バーノンが決して立ち寄らんと心に決めていた領域であった。
バーノン自身、ここに降りたことに戸惑いはあったが足から伝わるこの硬さと荒さなら、むしろ好都合なのではないか、そう考えた。
このまま走り、頭を擦り付け削いでやろうか。それとも今度は尾を持ち鞭のように振るい、頭を叩きつけてやろうか。
どちらでもいい。動きが鈍くなったところで、この足であの頭を踏みにじり頭蓋を砕いてやるのだ。
歯を見せ、笑みを浮かべるバーノン。勝利の確信。すなわち油断。先程耳にした車の走行音がすぐそこまで迫って来ていたことに気づかなかった。
眩い光がバーノンの目を刺した。
――逃げなければ
そう頭に浮かび、足も動きかけた。だがカグラの体が絡みつき、バーノンの選択の自由を奪った。
衝突。凄まじい勢いで車のボンネットから屋根へ乗り上げたあと、アスファルトへ叩きつけられ、そして跳躍。バーノンとカグラは絡み合ったままガードレール下の林へと落ちていった。
二体とぶつかった車の運転手がブレーキではなくアクセルをさらに踏み込んだのはたった今、自分が目にしたのが顔が猿で尾が蛇の化け物だと思い込んだからである。
後に家に帰った運転手はネットで適当に調べ、自分が見たものが鵺だと確信し、震えあがった。
その直近『飼いきれず自分が逃がしてしまいました。お騒がせしてしまい申し訳ないです……』と飼い主がアミメニシキヘビを野に放したというニュースを運転手は知らない。当然、数年前に動物園から脱走したチンパンジーのニュースも知らない。
ガードレール下。バーノンは木々の間から覗く月を見上げ、カラカラと喉を鳴らした。
ふと傍らに目を向けると自分の肩にカグラが頭を乗っけているのが見えた。
カグラは潰れた方の目がある側をバーノンに向けており、その表情、考えていることは元よりさらにわかったものではないが怒りを抱いてはいないように思えた。
バーノンがそっと手をカグラの頭に添えると、カグラもまた優しくバーノンを抱いた。
バーノンは生まれ育った動物園を思い浮かべ、カグラは飼育ケースの温かいライトを思い浮かべた。
抱き合うように眠った二体はいずれ白骨になろうとも、その身は離れず、運命のように強く結びついたままであろう。
それが悲しき運命かどうかまではわからないが。




