彼の葬式 :約4000文字 :じんわり
――静かで……気持ち悪い。
とある葬式場。お坊さんの口から読み上げられるお経だけが、夜の湿った地面を這うナメクジのようにじっとりと会場内に広がっていた。
整然と並べられたパイプ椅子の一つに座る沙知は、下腹部に鈍い痛みを感じながら、血の気が引いていくのを自覚していた。まるで脳みそを吸い取られているような感覚に襲われている。
――お経が嫌い。ううん、葬式が嫌いんだ、私。
どこか落ち着かない空気に、咳払いすらためらわれる。まるで、いくつも穴の開いた障子の向こうから、誰かにじっと覗き見られているかのようで。
沙知は目を閉じ、すべての情報を遮断しようとした。関係のないことを考えて、今をやり過ごす。しかし、思い浮かぶのは当然とも言うべきか、やはり葬式のことだった。
……お葬式は、残された人たちが区切りをつけるためのものだと聞いたことがある。死別を受け入れ、前に進むための儀式。
同級生の私たちがこれ以上動揺しないようにという配慮だろうか。彼の棺は固く閉ざされている。
お経にどこか聴き覚えがある……。お葬式に参列するのはこれで三回目だからだろうか。そのうち二回は小学生の頃、それも低学年のときだったけれど。
最初のお葬式は祖父のときだった。
祖父は私をよく可愛がってくれた。でも、まだ幼かった私は『死』がどういうものなのか、よくわからず、特に悲しい気持ちにはならなかった。ただ、なんとなく落ち着かない雰囲気が嫌だった。
二回目は遠い親戚の女の子。
祖父の葬儀を経験していた私は、これもあのときと同じようなものだろうと思っていた。
でも全然違った。祖父のときは『まあ、長生きしたよな』と、どこか諦めや称賛の雰囲気がその場にはあった。でもその子のときは、その子の母親の悲痛な叫びが会場に響き、初めて見る母の涙に私はその場から逃げ出したくなった。
怖くて泣いた。すると、彼女の母親は「悲しんでくれるのね」と、そっと私の頭を撫でてくれた。私はまるで嘘をついたみたいで、申し訳なくて胸が痛んだ。
だから私はお葬式が嫌い。もちろん、好きな人なんていないだろうけど、私は特に嫌い。自分のことばかり考える私が嫌い。悲しんであげられない自分が嫌い。
沙知は小さく息を吐いた。思考が途切れた瞬間、布が擦れるような微かな音が耳に届いた。無意識にその音を探ると、それがすすり泣く声だと気づいた。
沙知がそっとまぶたを開け、目立たぬように気をつけながら辺りを見回した。何人かの同級生が涙を流している。
泣いているのは女子が多かった。彼は特に女子に人気があったからだろう、と沙知は思う。だが、沙知はやはり涙を誘われることはなかった。別に気丈に振る舞うつもりはない。ただ単に、彼と親しかったわけではないから。
友人の友人……そのまた友人と言ったところ。その程度の関係。だから仕方がない。そう自分に言い訳をした。
――でも、せめて振りじゃなくて悲しんであげたい。あのときとは違って。
そう思いながら、沙知は彼とのつながりを記憶の中から探す。落ち葉が浮かぶ池に手を入れ、沈んだものを探るように。
すると、ふっと浮かび上がってきた。
あれは確か、友達から休日に遊びに誘われたときのことだった。
放課後に寄り道することはあったけど、休日に誘われるのは珍しい。そして、珍しくもその誘いに乗ってみたら彼がいた。いや、彼からすれば私のほうがそんな存在だっただろう。何せ彼は人気者。中心の存在。顔も運動神経も頭もいい。
彼と会話したことは片手で数えるほどしかない。でも、彼の発言には、はっとさせられるものがあった。私は自分の未熟さを恥じるとともに、彼への羨望と敬意の念を抱いた。
そんな彼が、どうして自ら命を絶ったのか。
焼香が始まり、沙知はふっと我に返った。自分の番はまだ先だが、沙知は顔を歪めた。
――しまった。ネットでやり方を調べるの、忘れてた……。
でも、他の人のやり方を真似れば、なんとかなるだろう。そう思いながら、小さく息を吐く。緊張のせいか、また体調が悪くなってきた。
沙知は気を紛らわせるために、先ほど浮かんだ疑問に意識を傾けた。
――どうして彼は死んでしまったのだろう。
幸せになる人間とそうでない人間を、ケーキを二等分するように分けるとしたら、彼は間違いなく『幸せになる側』だったはず。
別に嫉妬するわけじゃない。何も良い家、顔に生まれただけの話じゃない。彼も考えられないほど努力をしてきたはず。彼をよく知らない私ですら、そう感じる瞬間があった。
日常生活に不満はなかったはずだ。恋人はいなかったみたいだけど(同じ学校にいれば、彼女のほうが自慢げに言いふらしたはずだ)勉学も交友関係も良好だったはず。
家族との関係も悪くはなかったはずだ。葬式場に置かれていた彼の日記には、高校生らしい悩みは綴られていた。でも、私なんかより、ずっと日々を楽しんでいるように感じた。
もっとも、死後に家族が日記を公開することを予想して、本音を書くのを控えていたのかもしれないけど。……いや、それなら日記そのものを処分しただろう。
何にせよ彼の日記には暗号めいたものもなく、彼の家族の憔悴しきった表情を見るに、『自殺に見せかけて殺した』なんてことはなさそうだ。
でも、どうしてだろう、このモヤモヤは。始まりからどこか違和感があるのは……。
――わっ。
ふいに肩を小突かれ、沙知は思考の海から顔を上げた。
自分の番が来た。急いで椅子から立ち上がり、通路に出る。同列に座っていた生徒たちが次々と沙知のあとに続き、沙知は少し恨めしく思った。なんでよりによって自分が先頭なんだ、と。おまけに、考え事に夢中で前列の人のやり方をよく見ていなかった。
ええと、確か摘んで、それを顔の前に持ってきて、それで……ああ、その前にお辞儀……。
脳内で順序をなぞりながら、沙知はなるべく平静を装って焼香を終え、席に戻った。
そのときだった。
一番後ろの列に座っていた女性と目が合った。といっても、その女性はサングラスをかけていたので、本当に目が合ったかわからない。ただ、くすっと笑われた気がした。
そんなにぎこちなかったかな……。沙知はずんと胃のあたりに重さを感じた。
……まあ、どうせすぐに忘れる。ここでも彼が主役。
沙知は小さく息を吐き、正面を向いた。
いつまで続くのか。終わりの見えないお経を聞き流しながら、沙知はふと彼の棺に目を向けた。そして次に、先ほどの女性が座っていたほうをちらりと確認する。ちょうど、その女性も沙知を見ており、沙知は反射的に顔を背けた。
……彼女、誰なんだろう。
若い。同年代っぽいけど、サングラスが邪魔でよくわからない。お葬式が始まったときはいなかった気がする。制服を着ていないところを見ると、うちの学校の生徒ではない? もしかして、彼の恋人?
可能性はあるけど……でも、それなら笑う余裕なんて……。いや、そもそも見間違いかもしれない。ただ彼女、というよりは……。
もう一度、彼女のほうを見たい衝動に駆られたが、沙知はぐっと堪えた。
どうせ、焼香を上げるときに確認できる。そう思ってじっと待った。
けれど、彼女は焼香を上げなかった。
ゆえに、沙知は脳裏に浮かぶ彼女の姿を反芻した。そして一つの疑問。思い浮かんだ推測は少しずつ育ち始めた。
そして葬式が終わり、会場を出ていく彼女の背中を見つけるや否や、沙知は無意識に足を踏み出していた。
彼女はお焼香をあげなかった。それは、彼と親しくなかったから?
……いや、目立ちたくなかったからだ。
彼女の背中が近づくにつれ、沙知の中の推測が膨らみ、花開こうとしていた。
「……君だよね」
声をかけると、彼女の足が止まった。
ゆっくりと振り返り、サングラスを外す。
そこにいたのは彼だった。閉ざされた棺の中にいるはずの彼が、目の前に立っていた。
「ばれちゃったか」
彼は舌を出し、小さく笑った。
どうして? と沸き上がる疑問を沙知はいったん押さえ込んだ。
「場所、変えよっか」
後ろを振り返ると、ちらほらと生徒たちが会場から出てきていた。
彼はサングラスを掛け直し、こくりと頷いた。
二人は葬式会場から少し離れた公園のベンチに腰を下ろした。
なぜ、彼は変装し、自分の葬式に来ていたのか。そう訊ねる前に、沙知は思った。
彼の姿。一時だけの女装にしては、あまりにも様になりすぎている。
「君は……女の子になったの?」
冗談と本気、半々くらいの気持ちで訊ねると、彼は驚いたように目を大きく開き、それから頷いた。
「性転換したんだ」
そう言った彼――彼女は静かに微笑んだ。
バイトで貯めたお金で、性転換手術を受けたのだと彼女は言った。
「両親はすごく落ち込んでね。それでも受け入れてくれたけど、でも、あまりに急な話だから、ちゃんとお別れがしたいって」
だから葬式をした。引っ越す前だったし、ちょうどいいと。本当は身内だけでひっそりやるつもりだった。けれど、どこからか話が漏れて、まさかこんなにも大事になってしまった、と彼女は困ったように笑った。
「香典は断ってたみたいだけど、滅茶苦茶な話だね……」
沙知が呆れ混じりに言うと、彼女は申し訳なさそうに頷いた。
でも、息子を失うという事実が、それだけ両親にとって衝撃だったのだろう。お葬式はお別れの儀式。この場合も、間違いではないのかもしれない。沙知は非難する気にはなれなかった。
「みんなには話さないの? 誰にも?」
彼女はゆっくりと首を横に振った。
「うん。天国ほどじゃないけど、遠くに引っ越すから。……でも、いつか話せたらいいなとは思う。みんながあんなに悲しんでくれるなんて思わなかったよ」
沙知は会場の様子を思い返し、頷いた。“彼”にとっても、この葬式は意味のあるものだったのかもしれない。
「君のぎこちない動きは面白かったけどね」
「ぐぅ……」
沙知が情けない声を漏らすと、彼女はくすくすと笑った。沙知もつられて笑った。
「よかったら、友達になれないかな」
ふたり、ぴったり同じタイミングで言って、また笑い合った。
空は晴れ渡り、どこまでも青かった。
このあと、からっぽの彼の棺は焼かれ、この空へ昇るのだろう。送り出すにはいい天気だ。
――こんなお葬式ならあってもいいな。
沙知はそう思いながら、目を閉じて耳を澄ませた。
鳥の囀りと子供たちの笑い声が聞こえてきた。




