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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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少年が求めたもの      :約4500文字 :冒険

「ああ、ナキム! ナキム! どこへ行くというのだ、ナキム! 戻ってこーい!」


 島の大人たちがナキムの行動に気づいたのは、その姿がすでに指でつまめそうなほど遠く小さくなってからだった。

 自作のイカダの上でナキムは満面の笑みを浮かべ、手を振っていた。大人たちは浜辺でただ呆然と立ち尽くし、見送るしかなかった。その周りでは子供たちが波を蹴って跳ね回り、「すごい、すごい!」と声を上げ、ナキムを讃えている。中には寂しがる子や不安そうに眉をひそめる子もいたが、ナキムは戻るつもりはなかった。少なくとも、今は。


 ――ごめん、みんな。でも、ぼくにはどうしても欲しいものがあるんだ。


 ナキムのイカダは実にシンプルな造りだった。島の森から石斧で切り出した丸太を、蔓を編んだ縄でぎゅうぎゅうに縛り合わせ、帆には島に流れ着いた大きな布切れを使った。

 ナキムたちが暮らす島には、たまに外の世界から物が流れ着く。その大半はゴミだったが、中には目を惹くものも混じっていた。

 子供たち、特にナキムはそうした漂着物に強く惹かれていたが、大人たちはあまり良い顔をしなかった。それでも、ナキムがいつしか抱いた外の世界への憧れは、もはや誰にも止められないほど膨らんでいた。

 栄養と知識、そして希望をその身に蓄え、ぐんぐんと背を伸ばしたナキムは、本能的に悟っていた。今が、無謀な挑戦ができる最後の時だと。

 大人になってしまえば、もう無茶はできない。島を出ることなく、きっとこの思いを胸の底で燻らせたまま一生を終えることになるのだろう。そんなのは、まっぴらごめんだった。

 ナキムは大海原に向かって声を上げた。潮風を胸いっぱいに吸い込み、晴れやかな心地とともに、自分がしたことは正しいと確信した。


 ……が、冒険において順風満帆などありえない。ことに、海の上では。

 水面近くで揺らめく影を見つけたナキムは、さっと体を低くして身構えた。


 ――大海蛇だ。


 ナキムは木の槍を手に取った。この槍は、島のご神木の枝を削って作ったもの。何年かに一度島を襲う大嵐で折れた枝しか触れることが許されない、貴重かつ神聖な木だ。ナキムはそれを三本携え、島を発ったのだ。


 海面を割り、大海蛇が姿を現した。

 ナキムはその顔を狙って槍を構えた――が、それは尻尾だった。動揺したその刹那、尾がしなってイカダを叩きつけた。

 激しい衝撃でイカダが跳ね上がった。だが、ナキムは器用にバランスを保った。そして、素早く振り返る――その瞬間、赤黒い口内と鋭い牙が目前に迫った。

 ナキムは身を翻してそれをかわした。大海蛇の噛みつきは空を切り、口が閉じた。その黄色い瞳にナキムが映った。獲物を見る目だ。ナキムの身体を呑み込む瞬間を想像し、艶やかに煌めく。

 だが、ナキムにとっても同じだった。目の前の大海蛇は、狩るべき獲物だ。ナキムは恐れることなく、その瞳でしっかりと大海蛇の姿を捉えていた。

 ナキムは狙いを定め、力いっぱい槍を投げた。槍は海蛇の顔めがけて一直線に飛び、見事その黄色い眼に突き立った。大海蛇は仰け反り、白い飛沫を散らしながら海へ沈んでいった。


 ナキムはほっと一息……つく間もなかった。

 ナキムの頭上を長い影が覆った。再び大海蛇が現れたと思いきや、それは足だった。それも十本の。そう、大ダイオウイカである。

 ナキムは二本目の槍を構えたが、どの足を狙うべきか目をキョロキョロ動かして悩んだ。

 しかし、大ダイオウイカは待ってはくれない。足が絡みつき、イカダがミシミシとしなる。このままではイカダが壊され、海中へ引きずり込まれてしまう。

 どうにか逃げ出す方法はないか、ナキムは必死に考えた。

 だが次の瞬間、イカダがぐんと揺れ、大ダイオウイカの足が引き剥がされるように離れた。


「海が味方したんだ!」


 喜びが胸を弾ませた――が、それも束の間。振り返ったナキムは、大ダイオウイカが離れた理由も、イカダが勝手に後ろへ下がった理由も悟った。

 背後で、巨大鯨が口を開けていたのだ。

 そして次の瞬間、鯨はナキムの声変わり前の甲高い悲鳴ごと、イカダを飲み込んだのだった。


 激しい流れに襲われ、ナキムは必死に帆柱にしがみついた。右へ左へと大きく揺さぶられ、ときには一回転もした。

 やがて流れが落ち着くと、ナキムはそっと目を開けた。目の前に広がっていたのも暗黒。酸の匂いが鼻を刺し、ナキムは今、自分が鯨の胃袋の中にいることを理解した。

 頭上からは液体が滴り、帆に当たるたびにジュッと音を立て、小さな穴を穿つ。

 ポタポタポタポタ。まるで涎だ。胃の中にいると、腹を空かせているのがよくわかる。

 あちち、あち。肩や首筋、足先に熱い雫が落ち、ナキムは島のウッポッケーの踊りのように体を振った。


 ――このままじゃマズい。お尻から出してくれるのをのんびり待っている場合じゃないぞ……。


 ナキムは決意を固め、二本目の槍を構えると、天井めがけてそれを投げた。

 すると火山の噴火を思わせる大きな地鳴りと轟音。胃袋が震え、衝撃が走る。再び生まれた流れに、再び生まれた流れに、ナキムは身を任せた。

 暗いトンネルを駆け上がる――そして、その先が開けた。

 ずぼーん、と巨大鯨の口から吐き出されたナキムとイカダは、くるりと一回転して海面に着水した。波は穏やかに、結晶のかけらのように光を散らしながらナキムを受け止めた。

 喜びのあまり雄叫びを上げると、背がほんの少し伸びた気がした。それは気のせいとは言えない。体中に自信が漲り、力が湧き上がってくるのを、ナキムははっきりと感じていた。

 去り際、鯨は腹いせのように尾びれで海面を叩いた。その衝撃で生まれた大波も、ナキムは難なく乗りこなし、その勢いのままぐんぐんと進んだ。

 だが、次にナキムの行く手を阻んだのは大嵐だった。雷鳴が轟き、狂ったような風が吹き荒れ、空からは滝のような大雨、大荒れの大津波が押し寄せる。

 それでもナキムは笑った、笑ったのだ。両手に握った二本の縄で帆を動かし、見事にイカダを操って大波を切り裂くように駆け抜けたのだ。

 頭上から落ちる雷をひらりとかわし、目の前に突如現れた大渦も、外側を二周して勢いをつけて脱出した。

 ナキムの快活な笑い声に大嵐は不貞腐れ、そのままどこかへ去っていった。


 大嵐を振り切り、久しぶりに太陽と再会したナキムだったが、さすがに疲れ、少し眠ることにした。

 イカダの上で大の字になり、まぶたを閉じる。風がナキムの黒く癖のある髪をそっと撫でた。 


 ――ウンヤバウンヤバヒンヤバダッター

 ――アイババブンヤバホーヤバベッダー


 どこか懐かしい、けれど聞き覚えのない歌声に、ナキムは目を覚ました。


 ――島……ドクロ島だ!


 ナキムはそう思った。その予想は正しい。いや、正確にはそこは『ドクロ島』という名の島ではなかったし、ナキムは自分が今、島にいると気づいてはいなかった。

 ただ、目の前でぐつぐつ煮える大鍋に浮かぶ“それ”を見て、そう連想しただけのこと。確かにそれは海に浮かぶ島のように見えたが、実際には人間の頭蓋骨であった。

 虚ろな眼窩と見つめ合うこと数秒、ナキムは自分が棒に縛りつけられている理由を悟った。


 ――ここは、人食い族の島だ。


 いつの間にか彼らの島に流れ着き、眠ったまま捕らえられてしまったのだ。

 さすがのナキムも、この窮地には身をよじり叫んだ。大焚火と大鍋、その上に橋のように渡された棒に縛りつけられ、身動きが取れない。

 ポタ、ポタ、ポタ、ポタ……。汗が鍋に落ちるたび、人食い族はそれをいい出汁とばかりに喜び、踊りに拍車をかけた。焚火を囲み、ウンヤバウンバ、ヤーヤーヤー。アイババブンヤ、ヤーヤーヤー。


 ――このまま炙られて終わり……?


 ナキムの心に、初めて諦めの影が差した。だが、そんな感傷に浸る暇もなかった。人食い族の一人が槍で縄を切ろうとしていたのである。


 ――もうすぐ、あの大鍋にボチャン!


 ナキムは身震いした。それは恐怖と希望の入り混じった震えだった。ただ、恐怖は希望よりもずっと小さく、やがて胸を躍らせる期待に変わっていった。

 ナキムはその瞬間を逃さなかった。縄が切れ、落ちるその瞬間――身を翻して棒をつかんだ。

 そして、ひょいと棒の上に立ち、駆け出して大ジャンプ。地面に着地するとすぐに振り返り、薪の中から火のついた棒を一本つかみ取った。

 ナキムは火を噴く竜の牙で作られた剣のごとくそれを振るい、人食い族をバッタバッタとなぎ倒す。

 ヤー! ヤー! ヤー! さっきまでのご機嫌な踊りは、今は逃げ腰に。掛け声は悲鳴に。

 と、最初は威勢がよかったのはナキムも同じ。倒したのはものの数人。なにせ、相手は数が多い。分が悪いと見るや、ナキムは棒を投げ捨て、一直線に海岸へと走った。

 ナキムのイカダは砂浜に打ち上げられていた。人食い族の目には価値のあるものに映らなかったのだろう。ナキムにとっては唯一無二の宝であり、大切な相棒だ。

 ナキムは急いでイカダを押し出し、海に浮かべると、足で水を蹴って再び大海原へ漕ぎ出した。

 ナキムの背中を追って人食い族の怒号と槍が飛んできたが、ナキムは彼らが驚くほど、あっという間に島から遠ざかっていった。

 その理由は単純。ナキムはたまたま見つけた海亀に縄を結びつけ、引っ張ってもらっていたのである。

 島から離れると、ナキムは海亀に礼を言い、ついでに大きな島まで案内を頼んだ。

 その道中も、亀を狙う大鮫や大怪鳥、その他あらゆる困難を退け、ついにナキムは新天地へ降り立ったのだった。





「……それで、先生。この少年は――」


「まあ待ってくれ。わしも歳だ、少し休憩を……水を飲ませてくれんか」


 ナキムは上陸早々、警官に保護された。それもそのはずである。ほとんど裸同然の格好に、持ち物は木の槍一本のみ。むしろ放っておかず、また犯罪行為もせず通報した市民は、善良で温かである。

 取調室でナキムの話を聞こうとした警官だったが、言葉が通じず頭を悩ませ、言語学者を署に呼び寄せたのだった。

 学者は、古代に栄えた民族の言葉とナキムの体に彫られていたタトゥーを見て「まさか本物か」と驚くだけに留まらず、ナキムのこれまでの話を口を開けたまま聞き入り、そして喉が渇いたというわけである。


「それで先生、彼の話を信じるとして……」


「ああ、わかっているとも。そうまでしてこの少年は何を求め、島を飛び出したのか、だろう? 今、訊こうじゃないか。エオウロピピオモポポクインテ?」


「エプアピピピア、パウサラバントポポイロ」


「ひょん!」


「せ、先生!? いったい彼はなんと……?」


「その……『それ一つで大冒険ができるという』……『本というものが欲しい』と……」


 ナキムのキラキラと輝く瞳は、目の前で呆然としている二人、そして取調室を越え、この世界そのものへ向けられていたのであった。

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