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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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黒いあの虫

 自堕落な生活をしていた男がいた。すでに完全に堕ちきったあとかもしれない。這い上がる気力はない。何にも。人生にも鉄パイプが飛び出した折り畳みベッドにも。

 床に敷いた丈足らずのカーペットの上に寝そべり、指の間から立ち昇るタバコの煙に息を吹きかけちょっかいをかける。

 さほど面白みもない。でも他にすることもない。

 その煙からふと視線を逸らしたのは偶然か直感か、それとも穴倉のように狭くボロいアパートの部屋でも主は主。侵入者に気づくのは不思議なことではないか。

 男は手を伸ばし黒いそれを掴んだ。

 そしてむくりと起き上がり、目についた横倒しのペットボトルの中に押し込んだ。蓋は開けっ放しであったから中身の飲み残しは蒸発して消えている。あるのは灰になった線香の残香ほどの匂い。

 目玉だけを動かし蓋を探すが見当たらない。ペットボトルを軽く左右に振るが、もたもたしているとそれが上がって来るかもわからない。

 よって男はそばにあった別のペットボトルの蓋を取りつけた。青色で元々ついていたキャップリングの白とは合わなかったが、これはこれでオシャレだと意味もなく前向きに考えた。そしてどうでもいいとも思った。

 

 さてと、これをどうするか。どうもしてやる気もない。

 床に置くとそれはペットボトルの底をカサカサと三周ほどした。僅かにペットボトルが揺れるのを見て男は赤子のおもちゃを想起した。

 黒いそれが止まると男はペットボトルを指で押して倒した。ペットボトルはおもちゃのように起き上がりはしなかったが黒いそれは大慌てで中を駆けまわり男は赤子のようにふふんと笑った。

 そしてふと、生かすには空気穴が必要だと思い、そばにあったカッターナイフでぐりぐりと蓋の部分に小さな穴をいくつか空けてやった。自分の体を切りつける以外の使い方は久しぶりなので少々手間取ったが慣れると楽しさを感じた。

 食べ物はいるだろうか、底に土を入れてやると良いだろうかと考えると楽しさと面倒臭さが同時に込み上げ、そして間から疲労感が躍り出た。

 結局男は埃がついたカーペットから抜け毛を一本だけ指でつまみ、穴から入れた。黒いそれは確か何でも食べるはずだからそれでいいと、そう判断した。

 少し時間が経ってからまた見ると黒いそれはポリポリと抜け毛を先っぽから食らっていた。男はまたふふんと笑った。


 部屋にこもりきりの男はおよそ時間の概念など持ち合わせてはいなかったが、それでも黒いそれが産んだ卵が孵り、ペットボトルの中ががさがさと賑やかになったことで月日の流れを感じた。

 段ボール箱をちぎり、ペットボトルの中に入れてやると中々飼育らしくなった。

 抜け毛を探すのも面倒なので、髪の毛を適当に切って中に入れてやった。残飯でもいい気がするが、ただの暇つぶしだ。スナック菓子のかけらをくれてやるのは惜しかった。

 それにその味を覚え、髪の毛を食わなくなったらつまらない。最近、読んでいる漫画に出てきたシーンのように、奴隷に自分の排泄物を飲ませるようなそんな嗜虐心と優越感に浸りたかった。


 しかし、数が増えると音が気になってきた。終始、ガサガサゴソゴソと、ペットボトルの中という世界は彼らには手狭になってきたようだ。

 男がうるさい! と怒鳴るとピタッと黒いそれらは動きを止め、ついでに隣の部屋の住人の話し声もピタリと止まるので、難はないと言えるが煩わしくなってきた。


 なので捨てることにした。といっても自然の中に放しに行くわけでもなければ蓋を開けてやる気もない。

 ただ窓を開け、大きく振りかぶり、狙いをつけた。

 窓から放り投げられたペットボトルは何回か回転しつつ、目の前の歩道と野原の境目のあたりに落ちた。

 男はその野原の先の川を見つめた。流れは緩やか、月明かりで僅かに光沢はあるが黒かった。

 ペットボトルは外灯の光の範囲の外にあり、中は良く見えなかったが蛹が蠢くように何度かペットボトルが動くのが確認できた。

 ここは良いジョギングコースのようで朝や夕方によく走っている人や犬の散歩をしている人が見受けられる。

 その誰かがあのペットボトルを拾い上げ、悲鳴を上げるのを男は想像し、ほくそ笑んだ。尤も、その時は寝ているだろうから気づくことはないだろうが。



 またしばらく経ち、半袖では寒さを感じるようになった頃。夜中に男は眠っていた。基本、昼夜逆転の不規則な生活なのは今更の話であるが時期によってはこうして朝まで眠れるときもある。最近はそうだ。

 だが、この夜は何かに引っ張られるような感覚がし、目を覚ました。夢の中では見知らぬ子供がちょーだいちょーだいと服の袖を引っ張っていたがそれとは無関係だろう。

 

 男は目を擦った。しっかりと目を覚まそうと思ったというよりは、それが何か気になったからであった。

 天井及び壁の影が蠢いたように見えたのだ。

 ぼやけた視界がハッキリしていく、雑に閉めたカーテンの隙間から漏れ入る外灯の光に当たり、光沢があるのが分かる。

 耳が捉える、ギシギシと歯ぎしりのような音は、それらの体が擦れ合う音かそれとも本当に歯ぎしりなのか。


 人生に絶望した男にはわかる。充実していた時代、子供の頃に帰りたくなる気持ち。実家。懐かしい母の味。

 男はふと自分の髪の毛に指を通す。傷んだ髪だ。引っ掛かることに驚きはしない。

 だが、その塊に触れたとき、男はヒィと声を漏らした。

 それを皮切りに黒い影が一斉に飛び上がった。


 果たして黒いそれは本当に自分が知っているあの虫だったのか。

 黒い虫は男の最後に浮かんだ疑問も恐怖も何もかもすべて、脳から食らいつくした。

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