おはよう
朝。その青年はどこかこそばゆいように落ち着きなく体を揺らし、電車が来るのを待っていた。
彼は高校生。今朝、珍しく早起きし、身支度を整えた彼は、ダラダラするのも何だからといつもより早めに家を出た。とは言え、目にする光景が劇的に変わるものでもない。少し人の流れが緩やかぐらい。そう思っていた。
駅のホームに入ってきた電車を左から右に流しながら見る。車内もいつもの時間よりは人が少ない様子。もしかしたら座れるかもしれない。いや、さすがに無理か。でも快適には変わりないな。
そう思いながら開いたドアから車内に足を踏み入れた。
「おはよう」
「え、あ、おはようございます……」
「おはよう!」
「は、はい、おはようございます」
「おはようございます」
「おはよう、ございます……」
「おはようねぇ。高校生かい?」
「え、はい……高校二年生です……」
「おはよう」
「おはようさん」
「おはよー」
「おはよう」
「おはよございます」
「おはようねー」
……何なんだこの人たち。
電車に乗り込んだ彼はただただ困惑し、そして気味悪く思った。
会社員らしき男も女も大学生、おじいさん、お婆さん、おばさん、若者も青年より年下の者もこの車両にいる全員が挨拶してきたのだ。
「いやー、良さそうな子じゃないか」
「うんうん、素直な子みたいで良かったわぁ」
「ホントですねー」
「変な人じゃなくてねぇ」
「ねえ、降りる駅はどこ?」
「え、えと、四つ先の駅です」
「じゃあ、それまでよろしくねふふふふ」
お婆さんが彼にそう微笑んだ。その笑顔に彼は自分の肌が粟立つのが分かった。やはり、どこか普通とは違う。まさか、この車両丸ごとどこかの宗教団体の……馬鹿な。でも次で降りようか……いや、降りる駅は申告してしまった。怪しまれる。いや、それが何だというんだ。構うものか。
彼はそう考えたが「ええ」や「はい……」と相槌や質問に受け答えしているうちに次の駅に到着し、人が乗り込んできた。
「おはようございまーす」
「おはようございますっ」
「どーも、おはようさまでーす」
「おはようございまーす」
「おーう、おはよう」
「おはよ」
「おはようさん」
「おはようございます!」
「おはよう」
まただ、またこの車両の全員が挨拶を。しかも、今回は乗ってくる人が自ら、まるで常連のように……ん? 常連? まさか、この車両ってそういう……。と、彼が眉間に皺を寄せて考えていると声をかけられた。
「お、新入り? おはよう」
「おはよー!」
「おはよう」
「あ、お、おはようございます」
「素直そうでいいじゃないか、ねえ早下さん」
「ええ、そうねぇ。大野さんは引っ越したんですって。寂しかったけど、いい子が来て良かったわぁ」
新たにこの車両に乗って来た男とお婆さんの会話に彼は自分が立てた仮説が正しいと裏付けされていくのと同時に、不安が広がっていくのを感じていた。
薄気味の悪い空間。垢が浮かぶぬるま湯。ここから早く出たい。早く。そう思った彼は電光掲示板に目を向け、車内アナウンスを求め、耳を澄ます。
「おにいさん、おにいさん」
「あ、え? な、なんですか?」
「ふふっ、窓の外見て。そろそろよ」
「え、なに……わぁ」
「ふふふ、綺麗よねぇ。あの川、朝日で嬉しそうに輝いていたでしょう?」
「ええ……僕、いつもの時間帯だと混んでて窓の外なんて見れませんでした」
「ふふ、そうよねぇ。忙しいけど朝こそ、心に余裕を持たないとね。一日の始まりなんだから良いスタートを切らないとっ」
「ええ、まあ確かに……」
「おい、ボウズ。これやるよ。どっかで食っとけ」
「え、あ、チョコ好きなんです。あ、ありがとうございます」
「私もこれあげるわ」
「俺もほら」
「こっち座りなよ。おれ、次で降りるし」
「部活は何部に入っているの?」
ちょっとしたタレントになった気分に彼は顔を綻ばせた。思えば、朝起きてから学校に着くまでの間に人と会話することは滅多にない。彼の両親は共働きで、朝も忙しないのだ。
座席に腰を下ろすと朝日が背中に当たり、それがそっと抱き着かれているようで温かった。
「うふふふ、ホント素直な子でよかったわぁ」
「え? ど、どうも……」
「あ、ごめんなさいね、最近の子はなれなれしく思っちゃうわよね……」
「あ、はい、あ、いや、そんなことは……」
「わたしね、夫と子供に先立たれちゃってね。だからね……」
「俺も妻に離婚されちゃってなぁ」
「私も親と不仲で……」
不幸自慢大会、と言うほどでもないが皆、身の上話を始めた。彼はそれに対し、素直に頷いたり、痛ましい顔をして見せた。
この車両にそんなに不幸な目に遭った人が乗り合わせるなんて。……いや、違う。みんなそうなんだ。自分がただ知らないだけで、いつもの時間帯に乗っていた車両の人たちも歩いている人もみんなみんな何かを抱えて生きているんだ。
「あなたも何かあったら話してくれていいのよ? あ、でもわたし、もう次降りる駅だわ。ふふふっ、また明日ね」
「あ、僕は明日はこの車両には――」
「おう、おはよう」
「おはようございます! 上野さん!」
「ふふふ、今日も元気ねぇ、おはよう」
「はい、おはようございます! 早下さん!」
「おーう、おはよう」
「おはよ」
「おはようさん」
「おはよー!」
「みなさん、おはようございます!」
と、元気よく挨拶する彼。翌日も、そのまた次の日も彼は毎朝早起きし、この車両に乗るようになった。
ふと、自分でもすっかり馴染んでしまったなと照れ笑いを浮かべる。だが彼は朝が、この時間帯が一日の中で何よりも楽しみに思っていた。そして素直にそれを伝えると全員が顔を綻ばせ、涙ぐみもした。
最近太ったなぁとお悩みのサラリーマンの上野さん。
最年長のお婆さん、早下さん。
会社員で綺麗なお姉さんの中田さん。
大学生のお兄さん、右京くん。
女子校の生徒、阿左美さん。
中学生の月元くん。
これがこの車両の中心メンバー。常連の中でも毎朝必ずいる人たち。そして他のみんなの名前も全部覚え、すっかりと、そう、まるで家族のような……と、電車が到着しドアに目を向けた彼はおや? と思った。
知らない男。スーツを着た会社員。それ自体はよくある出で立ちであるが、ドア付近にいたメンバーを押しのけるように乗ってきたのだ。
男は不機嫌そうに顔をしかめ、咳払いに寝不足だろうか、大きな欠伸をした。
「おはよう」
「……」
「おはようねぇ、おにいさん」
「は? 俺?」
「おはようっ」
「はぁ?」
「おいおい、君。あいさつしたら返さないと! 常識だよ? ほら、おはよう」
「は、はぁ? いや、そんなルールないでしょ。あんたのこと知らないし」
「まあまあ、ほら、おはよー」
「だから誰なんだよ」
「おはようっていうだけだよ? ほら、おはよう」
「キモ……何なんだよこの車両……」
「おはよう!」
「うるせぇよ! 話しかけんな!」
「挨拶には挨拶だよ君! これ、人として最低限のマナーね! ほらおはよう!」
「だから押し付けんなって!」
「お前さん、年上に向かってその態度はないだろう。無理矢理乗って来たのに我々は温かく迎えているんだぞ。ほら、おはよう」
「無理矢理って、あ、やっぱり入り口でブロックしてやがったな。入ってみたら空いてて妙だと思ったんだ、マジであんたらなんなんだよ」
「ちょっと! その言い草は何よ!」
「まあまあ、ほらおはようおはよう」
「だからなんなんだよ……そういや、降りる人にも何か言ってたな」
「ええ、そうよぉ、降りる人には『いってらっしゃい』みんなでね、元気良く送り出すのよぉ。それがルールなの」
「そうそう! 肩や背中を叩いて元気チャージチャージ! はっはっはっ!」
「さ、あなたもいいからほらぁ。ただ挨拶するだけよ? 恥ずかしがらないでほら、仰いなさい。おはよう」
「だからキモいって! 誰かまともなのはいねーのかよ」
「あ、あの!」
「お、ん? なんだ?」
「おはようございます!」
「いや、お前もかよ!」
「いや、僕も最初は驚いたんですけど、ほら、挨拶って人と人を繋ぐ架け橋というか、ははは、すごいですよね。ほんのちょっと声を出すだけでその人の心のドアをノックするような、僕、両親が共働――」
「いや、知らねえよ! 見ず知らずの高校生が何を急に語り出してんだ!」
「でも、挨拶は大事ですよね、あの、ほんのちょっぴり勇気を出――」
「だから、知らねえ奴に話しかけられても気味が悪いってんだよ! 距離感どうなってんだよ!」
「でも挨拶しなかったらいつまでも知らない人のままじゃないですか。それに挨拶がこの車両のルールで――」
「いいから干渉してくんなっての! 勝手に作ったルールを強要してくんじゃねえよ!」
「でも、あ、早下さん……」
「任せて……。ねえ、上野さん、これはもう、ね……」
「そうだな早下さん……。中田さん、また頼むね」
「はーい」
「あ? なんだよ……うお、お、おい!」
「はい、あんた痴漢ね。次の駅で降りて」
「いや、おい! は!?」
「言い逃れは無理よ。だってあなたの手に私のスカートの中の下着の繊維がついているでしょうから」
「いや、だから今、お前が無理矢理触らせたんだろうが!」
「そう? でも目撃者だっているわよ。ねぇ?」
中田さんがそう言うと、青年以外のこの車両にいる全員が頷いた。
「君も見たよね? 彼が中田さんに痴漢するところ。不届き者は排除しないとねぇ」
青年はただ黙って頷いた。肩に置かれた上野さんの手は厚く、熱くギラギラとした太陽の日差しのようであった。
「それはそうと、さっきの君のスピーチ、すごく良かったよ。君の高校にね、確か知り合いの先生がいてね。君のこと、良いように伝えておくよ。ふふふ、もしかしたら来年は生徒会長なんてこともあるかもね」
「あら、素敵ねぇ」
「おお、ほんとだな!」
「素直だしピッタリだ!」
「挨拶と笑顔いっぱいの学校になりそう!」
「立候補しなよ! みんな応援するよ!」
「それ、いいなっと、こいつ、ほら、手伝って!」
「暴れるな! 痴漢野郎!」
「ふふふ、朝から重労働だぁ」
「はなせ、はなせえ! あ、あう、あ、あぁ!」
抵抗し、泣き喚く男。取り押さえに加わった彼はそれに冷ややかな目を向ける。
この空間に相応しくない。
これが秩序なんだ。
彼は周囲を見渡した。メンバーたちと目が合い、ニコッと微笑み合い、彼は思う。この一体感が心地いい。『おはよう』は魔法の言葉なんだ、と……。




