彼がガスマスクをつけた理由
「起立! 礼! 着席!」
とある小学校。朝の教室のホームルームにて係の生徒の快活な号令の後、担任の先生は下げた頭を上げた瞬間、我が目を疑った。
「えっと……その席はミノルくんね。ね、ねぇ、その格好はどうしたのかな?」
クラスの生徒の目が一斉に注がれた先。一人の男子生徒。彼の名はミノル。そしてその顔には……。
「ガスマスク」
彼はただ一言そう答えた。
「うん、そ、そうだよね。でもミノルくん? どうして教室でガスマスクを着けているのかな?」
「……外して欲しいの?」
「ええ、もちろん! そうしてくれる? ええと今日も室内計はバッチリ、と。少し寒いから窓は開けなくてもいいかな。よし、それじゃあ、今日の予定は――」
「先生が理由を当てられたら外してあげるよ」
「えっ」
「おーいー」
「いいからそれ外せよー」
「なんでつけてるのー?」
「変ー」
「きもーい」
いつもと違うその空気に、ざわつき始めた生徒たちを先生が宥める。
「み、みんな落ち着いて! いいじゃない! ゲホッ、ちょっとしたゲームだよね? そうだなぁ……あー、実は風邪気味でみんなにうつしたくないからとか? ミノルくん優しいもんね」
ミノルは黙って首を横に振った。
「うーん、それじゃあ……あ! 前髪切り過ぎちゃったとか! これでしょ?」
「違う」
「えー? それじゃあね、そうだ! 実は鼻血が出ててティッシュを詰め込んでいるのが恥ずかしいから? ……これも違う? うーん」
「……先生にはわかんないよ」
「えー? でも教室が臭いってわけでもないし、そうねアレルギー……うーん顔を怪我しているとかかなぁ」
ミノルがピクリと動き、そしてまた首を横に振った。
「いいからさっさと言えよー」
「きもいんだよなーそれ」
「ねー」
「いつもうざい」
「しぃ、みんなやめて。ゲホッゲホ、ううん、それじゃあね……」
「もういいよ」
「え?」
「先生みたいな鈍感な人にはわからないよ……」
「鈍感……そう、そうだよね! ごめん! 降参! 理由を教えてくれる?」
「……教室の空気が悪いからさ」
「え、でも今は普通……」
「鈍感だよ。この空気。ああ、みんなは平気だもんね。どう? ぼく一人を犠牲にして作り上げた、いい空気はさぁ」
「は!? 何言ってんだよミノル!」
「おれらがいつゲホッ、お前を犠牲に」
「ゲホッゴホッ」
「みんな、落ち着いて! まさかミノルくん、もしかして苛められて――」
「自覚がないのがさぁ! 一番、質が悪いと思わない!? それに気づきもしないでニコニコしている先生もさぁ!」
「お、おれらがなにをしたってい――」
「したさ! 大勢で囲んで耳元で声をだして大声比べだって? ああ、判定装置役なら他にもしたかなぁ! パンチの強さ判定に、キックの強さ! 突き飛ばし選手権もしたよね! 覚えてない? 一番飛距離を出したのは君さ! タイチくん!」
「ゲホッゴホッオ!」
「ふふふ、その返事じゃどっちかわからないね。どれだけぼくが傷つけられてきたか。女子もそうさ! 自由にお絵かきだってさ! ノートに収まらず教科書や体にも! ずいぶんやってくれたもんだね! あだ名付けもひどかったなぁ!」
「うっ、ゴホ! ゴホゴホ!」
「もう、やめ、ゲホッ!」
「苦しいゴホッ!」
「やりたくないのに無理に連れ出したボール遊びの片付けはいつもぼくさ。面倒事はいつもぼく。何か言う度に大声で笑い、からかい……」
「ゲホッア、ガホッ。ミ、ミノルくん、もう、そこまでにして……先生もみんなも反省してるから……」
「嫌だねぇ! ……でも、みんなに罪悪感みたいのがあってよかったよ。まあ、主に先生だろうけどね。空気の悪さを感じ取り、悪化させたのは……。もうこのガスマスクは外すよ。……ああ、良い空気だ。静かで……優しくて……悲しい……」
空気を感じ取る、読むということ。それは、この人間社会において重要な能力である。かつて、空気を読み間違えたものが嘲笑、迫害されることが多々あった。
そしてそういった者はじわじわと淘汰され、やがて空気に対して敏感な者だけが残った。
新たな世代。彼らは空気の悪さを感じると著しく体調が悪くなり、咳き込むようになったのだ。
この事件は空気を悪くしないよう、一人孤独に耐えてきた少年が起こした初のテロ事件である。
そしてそれは世の中に大きな影響を齎すのであった。




