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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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再会            :約2000文字 :ホラー

 蜊礼┌螟ァ諷亥、ァ謔イ謨題協謨鷹屮蠎、ァ髴頑─逋ス陦隕ウ荳夜浹……


 意味の取れない、ただの音の羅列。そうとしか思えないのは、これが念仏だからか。始まってからしばらく経っても耳に馴染まない。

 それとも、自分の精神が思った以上に参っているせいか。

 男はふうと息を吐き、隣で手を合わせて必死に祈る妻に気づかれないよう、静かに後ずさった。

 ポケットの中からタバコの箱を取り出し、一本を指に挟む。後ろに置かれた燭台の蝋燭に近づけると、ふっと火が移った。


 ……カオスだな。


 自嘲気味に笑いながら、吐き出した煙をぼんやりと見つめる。細い煙がゆらゆらと揺れ、燭台の淡い灯りに溶けていく。


 息子が死んだのは、ちょうど一年前の今日だった。

 おれは当時よりは立ち直ったが、妻はそうではなかった。生活は荒れ、精神科医を頼るも効果はなく、すがるようにたどり着いたのが、あの老婆。

 霊媒師らしい。当然、胡散臭い。少し古びた一軒家。庭には積み石や風車、地蔵があり、廊下にも仏像がいくつも置かれていた。この部屋は木のフローリングで、燭台が部屋の前後に二つずつ。経机が一つ。老婆はその前で念仏のようなものを唱えている。そのすべてがどうも作られたもの、わざとらしく感じてしまう。

 いや、むしろその作り込みはありがたいと思うべきところか。妻に『息子が会いにきた』と思い込ませることができれば、少しはマシになるかもしれない。……あくまで今よりは、だが。


 三度目の煙を吐き出すと、白く揺らめく靄が周囲を薄く覆う。

 匂いでバレないだろうか――。ふと、男は不安になった。妻がぐるんと首を回し、睨みつけてくるのではないか、と。

 軽く手で仰ぎ、煙を散らそうとすると、燭台の火が揺れた。男は慌てて手を止め、再びタバコを口にくわえる。


 ……まあ、バレやしないか。おれのことなんて気にしていない。妻が祈りに集中しているのは、その背中越しにも伝わってきた。きっと、息子のことを考えているのだろう。


 ――おれはどうだ? 


 息子との思い出……。一緒に料理を作ったことがあったな。なんだったか。ああ、確かあれは……いや、十分だ。もう何度も思い返したじゃないか……。

 葬式は故人のためではなく、生きている者のためにある、と聞いたことがある。別れを告げ、区切りをつけるために。だが、妻はそれができなかった。葬式のことを思い出すと鼓膜とわき腹が痛む。取り乱し、泣き叫ぶ妻の声。抑えようとしたら、肘打ちをくらった。

 今回のこれが区切りになるといいのだが。


 ――もしも、本当に息子が現れたら?


 ……いやいや、馬鹿な考えだ。


 男は喉奥で乾いた笑いを押し殺し、タバコの煙と一緒に小さく吐き出した。その瞬間だった。


 ――ん?


 蝋燭の火が一斉に揺れた。

 風か? いや、この部屋には窓がなかったはずだ。


「……来ました」


 突然、老婆の念仏が途絶えた。刺すような声に、男は思わず背筋を伸ばした。

 老婆は頭を下げ、部屋の隅を指さしていた。


 男の視線がそちらへ向かう。

 蝋燭の灯りが届かないその場所――壁のはずなのに、その奥に無限に広がっているような深い闇が陣取っている。

 妻が顔を上げ、ゆっくりと立ち上がった。

 その目は闇の奥を見通そうと必死に見開かれ、呼吸さえ忘れたかのようだった。


 ――まさか。

 ――ありえない。

 ――だが……。


 希望がまるで毒のように体に染みわたり、男を震えさせた。

 ゆっくりと妻に近づく。

 足音を立てることも、呼吸の音さえも躊躇った。

 何かへの配慮。蝋燭の火のように、繊細な何かを吹き消してしまわぬように。夢から醒めないように。


 何かが、いる。


 その確信は、歩みを進めるごとに濃くなっていく。

 妻はじっと動かない。だが、何かを感じているのだろう。口角がわずかに上がっていた。


 ――音がした。


 闇の奥から、何かが床に落ちた音。


 今の音……前にも聞いたことがある。これは……。


 記憶の奥から、先ほど思い返した息子との思い出の続きが蘇った。

 料理だ。キッチンでハンバーグを作っている。

 笑顔とはしゃぐ声。それが「あっ!」という小さな悲鳴ののち、途絶えた。息子が手に持っていた肉を床に落としたのだ。そして、「ママには内緒にしてね」と小さく笑う……。


「い、いやあああああぁぁぁぁぁぁああぁぁぁ!」


 絶叫が響き、男は我に返った。

 声の主が妻だと気づくのに、わずかな時間を要した。人の声とは思えない、まるで体を引き裂かれている真っ只中の獣のような悲痛な叫びであったのだ。

 妻は床にうずくまり、体を丸めた。叫びが弱まると、今度は別の音が際立った。


 ――ピチャ。


 ……ああ、失念していた。


 ――ベチャ。


 何も、幽霊が五体満足とは限らないじゃないか。


 ――ズズズ……。


 息子はトラックに轢かれて死んだ。


 ――ズリュ。


 男は目を閉じた。それを見ずに済むように。

 だが瞼の奥の暗闇は、この部屋の闇と地続きのように思えてならなかった。

 そこに息子の顔を浮かべようとする。


 音はもう足元まで迫っていた。

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