先生、職員室に帰る
「も、もう知らない! 授業しませんからね!」
小学校教諭、白野美保は教室を飛び出すと、一度も振り返ることなく廊下を歩いた。
その靴音からは荒んだ内心が窺える。
そして職員室に着き、自分の席に座ると机に突っ伏し、ため息を吐いた。跳ね返った息でミディアムヘアの髪がふわっと舞い上がる。
……またやってしまった。また! やって! しまったあああ!
白野は心の中で咆哮した。そう、これは小学生の時、一度は経験したことがあるかもしれない『授業を聞かない生徒に先生が怒って職員室に帰っちゃう』それである。
大抵、二名ほどの生徒が約十分後くらいに職員室まで来て、先生に謝り、それで矛を収め教室に戻りまた授業を再開。めでたしめでたしとなるわけだが……
白野はこれで五回目である。
そう、常習犯。約一週間前の四回目の時、謝りに来た生徒は半笑いであった。白野自身、そのことに気づいていたが指摘し、再度怒り出すわけにもいかない。職員室で怒れば次はどこに帰ればいいというのだ。家か?
理由はそれだけではない。何せ、『来るかな? 来てくれるかな?』と、不安でいっぱいだったのである。
五回目の今もその気持ちは同じ、いやもっと強い。もうひょっとして来てくれないのではという不安に支配されていた。
ならば授業放棄などしなければいいのに。そう思うだろう。正論だが白野は言うなれば味を占めていた。依存と言っても過言ではないかもしれない。
自身が新任教員であることに加え、相手は低学年生。授業中騒ぐ生徒。徐々にそれが広がっていく様は暴動、怪物。頭の中がパニックになり、声を上げ逃げかえった職員室。込み上げる安堵感。そして謝りに来た生徒のしおらしい顔。
これでいいんだ。これが正解なんだ。白野はそう学習してしまったのだ。
みんな……ごめん……来て……お願い……。
白野は目を閉じ、祈った。時計の針の音だけが耳に入る。そして……
来ない。
嫌われた。
今頃みんな笑っている。
隣のクラスの先生に呆れられる。きっと校長先生にも。考えてみれば保護者にはすでに伝わってるかも。
逃亡先生。逃げ師。逃げプロ。恥逃げ。帰宅部。きっとそんなあだ名がついている……。
白野は大きく息を吐いた後、立ち上がった。
……行こう。戻らなきゃ。嫌なことでも立ち向かわないと。大人。私は先生なんだ。そう、変わるの。勇気を出して。
でも……どうやって? どんな顔をして? 怒った顔? それともヘラヘラして? 涙ながらに?
……ここで考えていても駄目。まずは教室の状況を見ないと。そうよ、みんなも反省しているかもしれない。
でも気を付けないと。謝りに来た生徒と廊下で鉢合わせするかもしれない。そうなったら気まずい。靴音立てずに静かに、でも素早く……。
決意を固め、職員室を出た白野。当人は忍者になったつもりだったが端から見ればゴキブリのようである。
しかし、背を低くしていたおかげで他のクラスの生徒、先生に気づかれることなく教室のそばまで来ることができた。
白野はこっそりと後ろのドアの窓から中を覗く。すると驚いた。
あれは……なに……?
「よし、準備はできたな? ではこれより、会議を始める。全員起立! 礼! 着席!」
あれは……クラス委員の青山くん。机を並べて、あれじゃ本当に会議……。でも一体何を話すって言うの?
「では、我々のクラス担任、白野美保について、まず確認しようか。赤川、黒板を読み上げてくれ」
「はぁい! 白野美保! 女性! 年齢二十二! 血液型O型! 彼氏なし! 身長一五七センチ! 体重五十一キロ! 下着の色は白多め! それからスリーサイズは――」
「そこまででいい。いくつか項目を飛ばしているが、まあ、それは各々確認してくれ」
私のプロフィール!? い、いや下着の色まで!? 何なのこの子たち!
「議長! 下着の色まで公開するのはセクハラだと思います! プライバシーの侵害です!」
そう、そうよ! 緑坂さん! よく言ってくれたね! いや、問題はそれだけじゃないけど!
「しかし相手を知る上では、どんな情報が重要となるかわからない。手にしたカードは余すことなく吟味するべきだ。
そして、その結果。白い下着を身に着けるのが多いこと、つまり彼女が型にはまったタイプ、真面目な性格であることが窺える」
まぁ……それは当たってるかもしれないけど……。
「でも、真面目ならどうしてまた授業放棄したんですか!?」
うっ、痛いところを……。
「真面目故だ。想定した方に上手く進まなかったことで動揺、不安、不整脈、ストレス。彼女の脳の処理能力を大きく越え、自分を守るための退避行動だったのだろう。決して責められやしないさ」
「確かに」
「真面目であることと矛盾しない」
「誰でもどうにかなることはあるさ」
ま、まあそうだけど……君たちが言う?
今日は新聞を使った授業で開始時に絶対、丸めて人を叩いたり投げたりしないでねって注意していたのに青山くんだって大騒ぎしてたじゃない……。
「それで、だ。彼女の逃亡、その一回目から振り返るとしよう。エスケーパー美保! その記念すべき第一回目は算数の授業の時――」
あだ名……やっぱりついてた……。いや、ま、まあ今それはいいとして……はぁ……。
「――と、それで順に振り返ったわけだが、実に見事な逃げっぷりだったな。拍手はそこまでにして重要なのは我々の対応である。一回目の担当は……」
「はい! 私、中原と小里です! ね!」
「はい!」
「うむ、二人とも女子。いいチョイスだ。主に騒いでいるのは我々男子だからな。それで、先生はどうだった?」
「はい! 職員室に入った私たちを目にした瞬間、ホッとしたような顔をしてました! ね!」
「うん!」
「うむ。彼女も初回は不安だったのだろう。それで、二回目の様子はどうだった?」
「はい、やはり来たわねって感じでした! ね!」
「ふふん、って顔してました!」
「ほう。では三回目はどうだ?」
「前回よりおそくなーい? って顔してました! ね!」
「すっかり味占めてやがりました!」
そ、そんな顔して……たかも……。
「なるほど、ありがとう。それで、君たちは三回目まで担当したということだが」
「はい! なんか押し付けられた感じでした!」
「慣れたもんだろって空気でした!」
そうだったの……? 進んで呼びに来てくれてると思ってた……。
「なるほど、因みに四回目は君たちじゃないね? 責めるわけじゃないが何故だ? 先生も慣れた相手の方が安心するだろう」
「面倒臭いからです! ね!」
「はい! あのしたり顔に嫌気がさしました!」
え、ええ……ごめーん……。
「よし、ありがとう。着席してくれ。それで四回目担当は……」
「はい! 自分、大城と前田です!」
「よろしくお願いしまっす!」
「ふむ、二人とも男子だね。子供といえども、これでは小心者の彼女に威圧感を与えてしまわないか? 何故、君たち二人が行くことになった?」
「はい! 女子が嫌がったからです! な!」
「うんざりしてたみたいです!」
「まあ、ほとんど我々男子が原因だからな。そもそも男子が行くのが筋なのかもしれない。それで、様子はどうだった? そういえばあの時、中々戻ってこなかったが」
「はい! 実はおれたち、教室出た後、寄り道して焦らしてやったんです! な!」
「はい! 職員室のドアの窓から覗いたらメチャクチャ不安そうにしてました! はははっ!」
「なるほど、お手本のようなクソガキっぷりだな」
あ、あの子たち……半笑いしてたのもそういうことだったのね……。
「よし、わかった。座ってくれ。ここまで出た情報から今、先生は不安がっていることが予想される。
そして……我々が今、どうしているか気になって仕方ないはず。それでたとえば……後ろのドアの窓から覗いていたりな! 行け! 捕らえろ!」
「え、あ、あああっ! やめて! 放して!」
「教卓の上に乗せろ! ロープを手足に結び、四方から引っ張るんだ!」
「い、いや! やめて! お願い! やめて!」
「もっと引っ張れ!」
「議長! 今日は薄いピンクです!」
「ひゃはははは! 漏らしてやがるぜ! 水に浮かべた桜みてーだ!」
「首にも縄かけるか!」
「何する気! もうやめなさい! 怒るわよ! お、お願い! やめて!」
怪物。怪物だ。この子たちはみんな、みんな……。
「……先生。おれたちを怪物にしたのは先生なんだ。先生が向き合わずに逃げたからこうなっちゃったんだよ。
なあ、教室に戻った時、いつも先生はただ授業を再開しますとしか言わなかったよな?
おれたちを叱ろうとも心に訴えるようなことも言わなかった。その結果がこれさ。おれたちはもう……止まれないんだよ」
「そ、そんな、い、いやああああぁぁぁ!」
「――せい、先生? ねえ、先生?」
「え、あ、あ、青山くん……それに中原さん……あ、夢……?」
「先生、寝てたの?」
「あ、え、いや、あ、その……ごめん」
「ふふっ、先生が謝っちゃうんだ」
「もう、青山くん、いいからほら先生、行こう?」
「え、うん。そうだね。みんなにも謝らないと」
「謝る?」
「うん、まあ、教室で話すね」
「ふーん、まあいいけどね。でも」
「しっ、さ、早く行こ!」
二人に手を握られ教室へ向かう私って、ふふふっ。これじゃ、先生なのか何のか……え、あれ?
「先生! 誕生日おめでとーう! フゥゥゥー!」
「み、みんなこれ……」
「今日が先生の誕生日でしょ? だからわざと騒いで出て行かせて、それでサプライズしようと思ったの!」
「そ、そうなんだ……」
「あ……やっぱりダメだった?」
「ううん、嬉しい! ありがとうみんな!」
誕生日を知っていたなんて、子供の情報網は侮れないなぁ。杜撰だけど計画を立てるし、それに意外と人のことをよく見てるし……でも。
【ヒスちゃん、お誕生日おめでとー!】
白野は黒板に書かれたその文字を前に喜ぶべきか悲しむべきか、それとも怒るべきか頭を悩ませたのだった。




