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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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おれのオアシス

 昼休憩。会社のビルの屋上にて、おれは柵を背もたれにし朝にコンビニで買った惣菜パンをムシャムシャ食べていた。

 ここはおれのお気に入りの場所だ。と、いうのも人が来ない。今日のように天気がいい日にここで食べる飯は最高だと思うのだが、みんな、いつも近くにある洒落た店や安い店で飯を食う。

 なに、別におれが嫌われていて避けられているというわけではない。その洒落た店に限らず飯に誘われることもないが、それが嫌われているからというわけではない。

 うん、断じてない。孤高の男なのだおれは。それに学生じゃないんだ。一人で飯を食うことが何だ。まあ、学生時代も……と、記憶の蓋を少し開けたところで気分が悪くなってきた。

 もういらん。食いかけの惣菜パンをノールックで後ろにポイッ。いつもの習慣だ。しかし、バレることはない。

 なぜならこのビルと隣のマンションはピッタリとつきそうなほど密接して建てられていて隙間がほとんどないのだ。

 下はエアコンの室外機や何やらごちゃついており、一番下まで落ちた紙屑だのなんだのが風で転がり外に出る心配もない。そもそも風もその隙間の中までは入りこまないだろう。

 よって、おれは今みたく気兼ねなくゴミを捨てることができるのだ。都会の真ん中にこうしたおれだけの専用の空間があるというのは実に心地がいい。

 

「う、うぅ、あぁーあ」


 ……空を見上げ、欠伸をすると眠くなってきた。さすがにこの屋上にビーチチェアを持ち込むのは無理だろうが、パイプ椅子をいくつか持ってきてその上で横になり昼寝というのも……いや、それも難しいか。いくら人が来ないと言ってもここは会社だ。そのうちバッタリ鉢合わせということもあり得る。

 まあ、この屋上に続く階段は物や何やら積まれていて、人が寄り付く気配がない。もしかしたら扉が開くことすら知らない社員も多いかもしれないが。

 うん、きっとそうだ。おれしか知らない秘密の場所。と、なるとやはり色々と手を加えてもいいかもしれない。広さは十分だ。隣のマンションはこのビルよりも背が低い。多少はっちゃけても気づかれることはないだろう。服を脱ぎ、日光浴なんていうのもいいかもしれない。


「よっと」


 ……そうだな、やはり置くなら真ん中かな。それからあそこには……あ


「あああああああ!?」





 ……あ、あ、ここは……今は……おれ、ああ、気を失っていたようだ。体中が痛い……。おれは何を……どうして……そうだ。柵に腰かけ、屋上に何をどう置くか両手でカメラのフレームのように画角を決めていた。そして……体が後ろに傾き……じゃあ、ここは……嘘だろう……


 顔を上に向けようとすると頬が擦れて痛かった。目を剥き、かろうじて見えた空はまだ明るい。三十分、一時間、それくらい気絶していたのだろうか。

 何にせよ、この状態はマズい。体の節々が痛む。骨が折れているかもしれない。ゾッとするが確認することもできない。身動きが全く取れないのだ。恐らくは窓に張り付いたヤモリのような姿勢。

 これが夢でないのなら間違いない。ここはあの隙間の中。おれは都会のクレバスに落下してしまったのだ。


 理解した途端に恐怖、そして吐き気が込み上げてきた。抑えることができずそのまま嘔吐。

 びちゃびちゃと肩から胸、その下へとゲロが流れ込むが胸のあたりに未消化の固形物が留まり、悪臭が鼻をついた。

 何度も嗚咽したのち、おれは息を荒げながら叫んだ。


「誰か、助けて、くれー」


 吐いたばかりのせいか喉が痛く声はしわがれていた。それでも何度か叫んだが、また吐き気が込み上げ一時中断した。

 そしてこの吐き気は頭を打った際のものではないかと思うと背筋が凍り、くしゃみが出た。

 隙間の中は日の光が届かずヒンヤリしていた。その上、ゲロで濡れたためか寒気を感じたのだ。と、そのせいだろうか今度は腹がゴロゴロと鳴り始めた。


「だ、誰か、うっ」


 おれが声を出すたびに尻の穴も声を出す。

 ――プピッ、プピ、プピピ?

 無能な味方とはこのことだ。お前なんか糞の役にも立たない。いや、嘘だ。糞の役には立つ。そもそもお前は糞の味方だった。


「誰、あうっ、誰か、あ、あ、うぅぅ」


 ……おれは泣いた。年甲斐もなく泣いた。確かに、人付き合いは良いとは言えない男だが仕事はできる方だ。あの人カッコいいよね、なんて女子社員の話を立ち聞きしたこともある。なのに、だ。迫りくるものを止める手立てがなく、ただ泣くことしかできなかった。

 屁の歓喜の咆哮。気合と誇りの守備も虚しく、パンツというゴールネットを揺らす。

 豪快に垂れ流される下痢便。

 おまけに放射される尿。ツツツツーッと足首に到達。靴下そして下に広がる闇に飲まれていく。ああ、今気づいた。どうやら靴が片方ないようだ。だが、どうでもいい。冷たい、寒い。


 泣いて泣いて、涙が途切れると頭の中がぼーっとして徐々に心が前向きに、そして冷静になってきた。もう出し切った。失うものなんてない、と。

 上に目を向けると距離は二十メートルもないことがわかった。体をずり上げて行けば登れるかもしれない。

 とは言え、とっかかりも何もない。できることは腹をへこませるか膨らませるか程度だ。

 それでも手を動かそうとするうちにコツがつかめてきた。やはり、おれはできる男だ。膝と足裏をぴったりと壁にくっつけ、蹴るように力を入れる。


 ――ズリ、ズリズリ


 よし、少しだが動いた。光明。芋虫、ナメクジそれ以下、蛹の蠢きほどの進みだが、これなら行けるかもしれない……。

 そう思ったのだが、いや、思った通り終わりの見えない作業に音を上げたくなるも声は出ない。

 しばらく経った。しかし距離はまだまだある。

 汗で脇の下辺りが不快だがゲロを吐き、糞と尿を漏らしておいて汗がいまさら何だと、ちょっと笑える気分になった。

 しかし、実際笑おうとしても喉はカカカカカと乾いた音しか鳴らない。上からも口からも水分を垂れ流し、脱水症を起こしているのかもしれない。頭もひどく痛かった。


 ――ガチャ


 今の音は……ドアか? 屋上のドアが開いた音なのか!?

 絶望の中、突然の希望の光に戸惑いつつもおれは頬を擦り、上を向いた。

 足音が聞こえる。間違いない。人だ。タバコを吸いにでも来たのかもしれない。

 高橋か? 太田か? 磯部か? 前にマンションの住民から臭いと苦情が来たから、やめるようにと全社員に通告があったはずだがははははっ、悪い奴め。愛しているぞ。

 心に余裕が生まれた分、糞を漏らしたことが急に恥ずかしくなったが四の五の言ってられない。

 しかし、問題。やはり声が出ない。なので壁を叩くが振りかぶれない分、大きな音が出せない。ペチペチペチと赤子並みだ。

 無理にでも声を出そうとしたが砂を飲まされたように喉が痛む。せめて泣いていなければマシだったかもしれない。しかし、今さらそんなことを嘆いている暇もない。このままでは奴に行かれてしまう。

 更に頬を磨り、目を向くと缶があることに気づいた。壁と壁に斜めに挟まり、飲み口はわずかにこちらを向いている。缶コーヒーのようだ。おれが捨てたものだろうか、多分そうだろう。いや、今日は飲んでいないはずだ。いつのものだ? まあいい。

 あれを掴み、上手く喉を僅かでも潤せれば、声を出せる。

 そう考えたおれは体を蠢かし、登った。

 慣れたものだ。あと少し、もう少しだ……。

 と、なんだ? 今の感触、上から何かが頭の上に……。ここはビルの隙間だ。一体何が、と考えるより先にタバコの臭いがおれを包んだ。

 タバコだタバコ。あの野郎、ポイ捨てしやがった! と、怒りが込み上げてきたが、考えてみれば、おれだってそうする。どうでもいい。今は缶コーヒーだ。早くしないと奴が行ってしまう。

 目一杯伸ばした指先が缶の尻に触れるとフッと吐息と笑みが漏れた。

 その時だった。おれの目の前に火が現れた。

 動物的本能か、おれは恐れおののき、バタバタと無秩序に動いてしまった。そのせいで、さらにズリリと体が下がり、おまけに斜めから立て向きになった缶はそのままスッと落下していった。


 落ち着け、落ち着け。何が落ちてきたんだ。タバコか? 違う、この量。火祭りだ。火が揺らめきながら落ちてくる。

 これは……書類だ。書類を千切り、燃やしているのだ。不要な書類、恐らくそう多くはないだろう。証拠隠滅と言うよりは単なる火遊び、ストレス解消。おれがゴミを捨てたのと同じように何の気なしに放り投げているのだ。この隙間は全てを飲み込んでくれるとそう、妄信して。

 火は暗闇に消え、最後にまた一つ、タバコがおれの目の前を落ちていくと靴音は離れていき、ドアが閉まる音がした。

 おれは未練がましく、缶があった場所に目を向け、ただただその残像を心に映していた。


 それからまたしばらく経つとドアが開いた音がした。

 恐らく男。ドスドスとどこか忙しない。そして、カチャカチャと音がしたかと思えば、上から液体が降り注いだ。

 仄かに香り立たたせ、流れ落ちていくその正体はすぐにわかった。小便だ。いかに不運といえど、それをおれの頭に降らせるというのはやりすぎだと天は考えたのか、小便はおれの目の前、およそ三十センチほどの距離で暗闇へと飛び込んでいく。

 が、これこそ運がなかったのかもしれない。頭からかけてくれれば、今、舌を伸ばしどうにか喉を潤すべきかなどと悩むこともない。

 そして、そうしている間に小便は終わり、また慌ただしく小便の主は屋上から去っていった。

 項垂れたおれは、ただ残香に鼻をひくつかせ、幻となった甘い、甘い小便の味を想像、それに縋ることしかできなかった。

 それからしばらく経ち、遠くで鴉の鳴き声。目を上に向けると空は夕焼け。

 状況は好転せず、しかし驚くべきことにここはおれだけが知る秘密の場所と思いきや、あのあと、また二組も客があった。

 一組目は男ひとり。ストレスからだろう、「死ね、死ねっ」「クソックソッ」と呪詛のような独り言を垂れ流し、そして戻っていった。

 二組目は、最初は女ひとりが楽し気に電話でもしているのかと思ったが、そのくすぐったそうな笑い声に男の声が被さった。それから嬌声、と二人は付き合っているのだろう。先程の小便の主も特徴的な咳払いからして、部長だったようで、おれはどこか同僚たちの秘密を覗き見ているような気分になり、少し高揚した。

 しかし、彼らは今日初めてここに訪れたわけではないだろう。あのこなれた様子からして習慣化されているはずだ。なのにもかかわらず、彼らはこれまで鉢合わせすることはなかったのが不思議だった。

 尤も来る前に警戒、いや無意識のうちに避けているのかもしれない。遠慮、配慮、秩序を守る……おれが感じていたあの自由もまた結局のところ枠組みの中に収められたものだったのかも。

 だが、こうしている今のおれはなんなのだろうか。考えると虚しさ、それに絶望を感じ、おれは目を細め、これ以上水分を減らさないよ努めた。すると、僅かに差し込む夕日の光でその先にある、食いかけの惣菜パンの残りが見えた。

 腹が鳴り、おれは鼻を鳴らした。すると風が流れ込んだのか、惣菜パンの外袋がカサッと音を立てた。

 それが何だか、自分に優しく声をかけてきたように思え、おれは泣いた。そう、泣いた。泣いた泣いた。おれは声も涙もなく泣いた。胸の内側を引っ掻かれているように痛い。

 ああ、そうだ。おれは孤独な人間だったんだ。こいつらと同じなんだ。

 ここは暗くて……静かで……おれの…………。







「ホントいい場所! また明日もここで食べよ!」

「そうね!」


「でも何で今まで来なかったんだろう?」

「さぁー? 何でだっけ? あ、そろそろだ……これ」


「私もちょっと多かったなぁ……ねえ」

「うん」


「捨てちゃおうか……せーの!」

「ふふふっ。さ、行こう行こう。ん? どうしたの?」


「んー、今何か聴こえた気がして……」

「え? どんな?」


「なんか嬉しそうな声……ま、気のせいね! 行こ!」

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