愛煙家たちよ
タバコ一箱の価格がついに十万円になった。これは言わば懲役三百年と同じ意味である。外に出るな。牢屋の中で死ね。つまりタバコを買うな、吸うなということ。
何もいきなりこれほど高額になったわけではない。馬鹿な政治家が馬鹿なりに知恵を絞った結果、タバコの税率を上げた分だけ支持率が上がると気づき、それからジワジワと真綿で首を締めるように値段が上がっていったのだ。
そんな政治家を選んだ国民も馬鹿であり、ここは馬鹿の国だが、嫌気が差しタバコが安い国に移住しようにも、今の世の中どこも同じようなもの。
それに値上がる前にタバコを買い溜めしてきたから金がない。しかし、あれだ。買い溜めする度に『どうせまた上がるなら前の時にもっと買っておけばよかった』と思う私もまた立派な馬鹿者なのだろう。
そしてこんな世の中になったのは今では逮捕されるような悪行。我々、愛煙家たちが路上喫煙、ポイ捨てなどをしてきたそのツケが回って来たからである。……と、奴ら嫌煙家、つまり馬鹿で阿保な異常者どもは自分たちを正当化し喫煙者を犯罪者と同じイントネーションで呼び、白い目で見る唾を飛ばすなどとやりたい放題。
嫌煙家が先頭に立って行動。普通人、いや、国民の大半がその流れに流され嫌煙家と化した今となっては愛煙家は迫害の対象でしかないのである。
自宅でこっそり吸おうにも、もし隙間から外に匂いが漏れ出たのなら、すぐに火災報知機のように喚き叫び、窓に向かって投石。こちらが何事かとホワンと香りと煙を漂わせながら顔を出せば『ほら見ろ! 吸ってやがるぞ!』『殺せ! そんなに煙が好きなら火を放て!』といった事態になりかねない。
大げさだと思うことなかれ。愛煙家であり、私の友人の中林くんは『吸わない! ただのコレクターなんだ!』という言い訳も虚しく、自宅マンションの部屋から廊下へ引きずり出され、階下に突き落とされた。ちなみにそれに関わったマンション住民はいずれも不起訴である。
新聞に載っていた写真は白のTシャツに白のズボンで、まるで路上に捨てられたタバコのようで惨めで哀れだと書かれていたが
私は穢れ無き殉職者のように思う。
しかし、思うだけに留まってはならない事件である。何せ我々の生死にかかわる。そう我々。もう数少ない愛煙家たちはお互い、助け合うべきなのである。仲間のピンチにはすぐさま駆け付け、そうでないときも定期的に集会を開き情報交換。直接会うのが大事だ。電話は盗聴される可能性がある。そしてなによりもそう、重大であり楽しみなのは
「大森さん。これと交換でどうだい?」
「ああ、いいとも」
タバコの交換である。我々愛煙家六名はそれぞれの自宅を点と線で結び各々集まりやすい、ちょうどいい位置にある貸倉庫を借りた。
ここが我々のオアシス。秘密のシュガークラブ。手狭であり窓もないが近くに民家はなく、他の倉庫と駐車場で人気がない。
幼き頃の秘密基地作りを連想し、楽しい気分になる。さらに、この空間を各々が吐き出した煙で満たすとまるでそこはそう、まさに天国のようである。
酸素ボンベが必要なのは煩わしいが念には念だ。知られれば民意によって抹殺される。まったくもって異常だ。
奴らに、国民に反感をもたれるようになったのも前述の通り、日頃の行いの積み重ねによるもの。だが、決定的なのは、とある愛煙家による放火だろう。
家を三軒燃やし、その炎でタバコを吸っているあの写真は一見、ピューリッツァー賞ものの惚れ惚れするような美しさであるが私はあれが嫌煙家による自作自演に思えてならない。そうでないとしてもタバコの値上げ、愛煙家に対する差別の撤廃を訴えての彼の行動は、逆効果であった。
思えば、あの事件から急速に愛煙家に対する迫害が強まった気がする。世論とは、人の感情とは煙のように流されやすいものだ。
おかげで長年の相棒、私のライターはここでしかポケットから顔を出すことができない。それどころか持ち歩くのも危険だ。見つかれば放火未遂で即逮捕。厳しいようだが、火をつける理由なんてタバコを抜けば、そうあるものじゃない。
さて、物騒な話はここまでにして、タバコの交換の話に戻ろう。いくら買い溜めしたとは言っても、日に十数本も吸えば数は減る。
私が自宅でタバコを吸うときのスタイルはシャワーからお湯を出して湯気で風呂場をいっぱいにしてから、空の浴槽に入り、オマケに蓋を閉めてその中で行うというもの。もちろん、換気扇は塞ぐ。そうすることで外に漏れ出る心配はなくなる。
しかし、閉塞感。ストレスが溜まる。故に本数が増える。つまりタバコが減る。
夜の河原で吸う同志もいたが、見つかり、リンチに遭い死んだ。私はその河原にタバコの残りがないか探しに行ったことがあるが
おびただしい量の血の痕が石にこびり付いており、地獄の牛鬼に頭を潰される姿を想起させられたものだ。
これは若者の間で愛煙家狩りが流行っているせいである。そういったドラマに影響されてのようだが、とにかく、今の若者はタバコを吸うのはダサい。そう刷り込まれているのである。
加えて、子供、主婦や老人であっても油断はできない。直接手は出さないにしても、愛煙家を見つければ即、伝達。ネットに晒すこの時代。外で吸うのは自殺行為である。
またも物騒な話に戻ったわけだが致し方ない。血とタバコは切っても切れない関係なのだ。
それでそう、タバコ交換の話。当然、自分の好みの物から消費されるため、交換は非常に重要なのである。買い溜めの際に今では絶滅した町のタバコ屋やコンビニ(こちらもタバコの取り扱いはやめた)をはしごし、銘柄関係なく手あたり次第買ったから誰かしらの好みには合う。
だから仲間というのはタバコの次に大切な存在である。もはやこのためにあると言ってもいい。
それに情報交換も大事だ。因みにこれもここで得た情報。十万円のタバコだがひどく味が薄い。それもそのはず、そもそも法律で完全に禁止するのは権利だのなんだので憚れるだけで、ただ虫の抜け殻のように存在するだけなのである。
タバコ会社は一社を残し廃業と統合。その一社もタバコに力を入れてはいない。別の事業で業績を伸ばし、タバコは慈善事業。哀れで病気な愛煙家のためにということで、焼き討ちには遭っていない。あくまで、今のところはだが。
他に世の中が愛煙家のためにしてくれたことと言えば、新たな喫煙所の設置。ただし、それは駅前の交番の目と鼻の先の狭い小部屋。壁、屋根、ドア、全てが透明であり、その天井からは消毒液混じりのミストが常に噴射されている。
言わずもがな、通行人から向けられる冷ややかな目はタバコの火を消すどころか、指を切り落とすような鋭さである。
以前、ネットで動画配信を行っている男が愛煙家の振りをして中でタバコを吸ってみるという企画をやった。
手に持っていたのはタバコを模したお菓子(それも今では存在しないが)だったのだが喫煙所から出た途端『くせーんだよ!』と怒号と共に拳が飛び、リンチに遭った。もしもの時のために待機していたその男の友人がなんとか助け出したが、警官が来たのは、ドッキリのつもりだったと必死に弁明と謝罪し、争いが収束しかけた時だった。それも悠々と歩いてきた。
その男は入院し、後遺症もあるそうだがその動画は削除され、今も見ることはできない。まったく恐ろしい事件だ。血に飢えている。それに煙にも。
皮肉なものだ。奴らは常に鼻をひくつかせ、ありもしないタバコの香りを求めているのだ。そして当人はそれに気づいていない。
「まったくひどい世の中だなぁ」
「頑張りましょう」
「最後の砦ですな」
日が暮れた辺りが帰る頃合い。これが定番の別れの挨拶。固く握手と抱擁を交わし、互いの無事を祈るのだ。
気を引き締め、まず一人が外に出て周囲を警戒。人影がない事を確認出来たら手で合図。秘密作戦中の特殊部隊のようで少し楽しい。実際にそう口に出すと皆、ふふふと笑った。
「……だが、それももう難しい」
「ん? どういうことだい、小木さん」
「実は、この辺りに喫煙者、いや愛煙家が集まっているとネットで噂になり始めたようなんだ」
「な、本当かよ!」
「俺たちのオアシスがぁ……」
「はぁ……」
「ため息はよせよ。溜め込んだ煙がもったいない」
「ああ、本当だが正確な場所を知られたわけではないし、偽の目撃情報も流しておいたから今日のところはまだ大丈夫だ」
「しかし、このままここに集まるのは危ない、ということだな……」
「そこでなんだが……いい場所がある」
「ほう」
我々六人は次の週末に小木が提案した場所に集まった。
職場で今夜の集まり、そのワクワクが顔に出ないようにするのが大変であった。だがその価値もあったようだ。
「埠頭の貸倉庫か。考えたな」
「ああ、むしろ何で今まで思いつかなかったかな」
「そうだな。何なら倉庫に入らなくても、この潮風が煙と臭いをごまかしてくれるんじゃないか?」
「いや、でも火はごまかせない。季節外れのホタルなんて都合のいい解釈はしてくれないだろう。
それにこの倉庫は最近できたばかりでほら、照明と空気穴もある。覗いてみろよ。埠頭の先っぽだから、ほら海が見えるだろ?
この海の方に向かって煙が吐き出されるから見られる心配はない。念のためほら、魚と七輪も用意した。それに人数分の釣竿もな。万が一見つかっても、これでごまかせるだろう」
「はははっ! 小木、随分用意がいいな!」
私は小木の肩をバンバン叩いた。小木が『痛いからやめろよ』と体をよじったその瞬間、私は僅かに違和感を抱いたが
「おい! 早く吸おうぜ!」
「ん、ああ!」
煙に勝るものはなし。我々は中に入り、タバコに火をつけた。
始まるは、まさに演芸大会。火をつけたまま完全に口に入れる。作った煙の輪っかの数、大きさの競い合い。一息でどれだけ吸えるか。手首を叩いた反動で飛び上がったタバコを口にくわえる。また足首でも。
我々は大いに笑い、夢を語り合った。一人、愛煙家の政治家を知っている。彼に直訴しよう。まだまだ同志はいるはず、集まり力をつけるんだ。海外だっているぞ。国際交流の時代だ!
ガスボンベを必要としない、タバコとの逢瀬。煙に塗れ、自然と流した涙は目に染みたからではない。喜び、そして解放。
私たちは愛煙家であり、大人であり、常識人であり、子供でもあった。弾ける笑顔が火よりも眩しかった。
が、その中で浮かない顔が一つ。一度妙だと思えばその胸のざわつきは悪性の腫瘍の如く広がり続けるものだ。心臓は収縮と膨張を繰り返し、痛みと不穏な音を奏でた。
――ガンガンガン!
倉庫の扉を叩く音。これは新たな仲間のサプライズ登場……などとは子供であっても思わないだろう。そんなものは楽観主義者の首吊り自慰行為。目立ちたがり屋の高所自撮り。馬鹿バカ莫迦。馬鹿と煙は高いところが好きと言うが、ここでの馬鹿は小木一人。しかし、その小木に嵌められたのなら我々も立派な馬鹿者か。
「は、はい!」
小木は扉に近づき、そう返事をした。
「全員いるか!?」
「は、はい!」
扉の向こうから故、くぐもった声。しかし、軍人か警察関係者のような圧を感じた。
「よし、そのまま待て!」
「は、はい! あ、あの僕は出していただけるんですよね? あの、今出してもらわないと僕、あの、もしもし? もしもーし!」
小木の肩を叩いたときの痛がりよう。あれは本気だった、怪我をしていたのだ。恐らく捕まり、尋問を受けていたのだろう。例の愛煙家狩りの連中か、もしくは警察、それはないか。いや、ありえないことではない。世論の傾きは沈没する船の如く。我々、愛煙家たちの嫌われようは酷い。政府はタバコの税収を得ることよりも、愛煙家をやり玉にあげ、民衆のガス抜きをしているのではないだろうか。
私はそう思案するばかりであったが他のメンバーは直接聞く方が早いと小木に掴みかかった。
小木は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら「捕まえた後は皆のタバコをくれるって!」「他にもたくさんくれるって!」そう叫んだ。
愚かで哀れで見苦しい男だ。だが、これが、この姿こそが奴らの目に映る愛煙家……喫煙者の姿なのかもしれない。喫煙者。その呼び方に元々、何とも思わなかったはずなのに奴らに反発し、愛煙家と自称し、己を、タバコを崇高なものとし棺桶のようなバスタブの中で隠れ吸う自分を慰め挙句、信じていた友に裏切られ、騙され、この先にあるのはなんだ?
我々は喫煙者。厄介者嫌われ者サボり魔マナー違反者中毒者空気汚し肺汚し面汚し臭い汚い服に匂いがつく医療費圧迫肺癌ガンガンガンガン、壁を叩き出して出してと泣き叫ぶ煙充満タバコ一箱十万札処分殺処分。
「だ、出せ! あ、お、おい、今の揺れは何だ! 小木! 答えろ!」
「俺は知らない! 知らない! 殴らないでくれ!」
「待て、そうかわかったぞ! これはコンテナだ!」
「ああ、浮き輪のような物がついてるぞ! 船で引っ張っているんだ!」
「まさか、まとめて国外追放か!? ふざけるな! こんなこと許されていいはずがないだろう!」
嵐が過ぎ、天に浮かぶは霞のような雲。
今夜は新しい秘密基地、新しい船出、盛大に宴を開こうということで全員、蓄えていたタバコを持ってきた。だから、しばらくはもつはずだ、まさか本当に船出となるとはと笑い、タバコを吸いながらお互いを慰め合った。
亀の背中に乗った浦島の手でゆらりゆれる玉手箱。
白い煙漏れる、空気穴から時折外を覗くが見えるのは海と前方で我々を引っ張る船だけ。
そして、その船もやがて姿を消した。切り離され、漂流しているようだ。
都会から消えた蛍はどこへ行く。
あの世か? あの世だな。違いない。
我々は生きながらに釘打たれた棺桶の中でタバコを吸い続けた。語り、笑い合い、時に無言で味わい、その間、私の頭に思い浮かぶのは離れた故郷でも別れた妻でもない。あのボロい家のバスタブ。タバコを吸った日々。そして仲間のことだけだった。
それからまた幾日か過ぎ、いよいよ最後の時が訪れる。残りの本数があと六本になったのだ。一人一本ずつ。もう全員、小木のことは許した。いや、人の心の内は分からない。全員ではないかもしれないが、少なくとも私は許した。タバコも吸わず泣きながら何時間も謝り続けたからだ。それにやはり水気は煙の邪魔だ。
我々はタバコの火をリレーのバトンのように繋ぎ、最後の一本を味わう。静寂の中、各々何を思うのか。
「……愛している」
吐いた煙の後に続き、ふいに私の口から出た呟き。私自身少し驚いた。果たして、今のは誰に向けてのものだったのか。タバコかそれとも。
周りに聞こえてはいなかっただろうかと気にした私は自分の顔が赤くなるのを感じた。つまりはそういうことなのだろう。
それから少しすると誰が言い出したわけでもなく、全員が横になり眠った。
愛している。
私ではない、誰かがいつかそう呟いた。私は自分がした呟きを揶揄されたのかと思い、肩を殴ってやろうかと考えたが起き上がることが面倒だった。それに響きが良かった。愛してる。愛。そう、これは愛。やはり我々は愛煙家なのだ。
心地良い浮遊感。いい夢が見れるという確信。これまでで一番の満たされた気持ちで私は眠りについた。
眠って……眠って……そして世界が揺れた。
「……今のは何だ?」
「どこかに流れ着いたのか……?」
「海底ではなさそうだな」
「外が明るいな。浜? 島のようだ」
「お、扉が開くぞ、出よう!」
むくりと起き上がった我々六人。コンテナから出た先、そこにあったのは……。
笑顔と愛。タバコを口に咥えた人々だった。
砂浜では美女が水着の胸と尻にタバコを挟み、砂に埋まり顔だけ出す男が、まさに至上と言わんばかりの笑みを浮かべ、タバコを六本同時に吸っている。見渡す限り笑顔と煙、タバコ、葉巻、パイプ、キセル、シーシャ。
島の奥から天へと伸びるあの巨大な白い煙の下は集会場だろうか、それとも活火山だろうか。ここは地図にない生まれたばかりの島なのだろうか。
ベビーヘビースモーカーアイランド。ここはまさしく――
「ようこそ喫煙者の島に! 新たな仲間に祝福を! ここは我々の楽園さ!」
白いシャツ、ズボン、帽子をかぶった男が両手を広げ、これ以上はないだろうと思うような笑顔で我々にそう言った。
その後ろから美女がわーっと我々に駆け寄り、我々の首にタバコで作った首飾りをかけた。
歓喜の雄叫びを上げる小木、桜田、水野、大坂、井淵。その顔にまるで白黒映画に色が付けられるように精彩が戻った。泣き出し、嗚咽。嬉しくて漏らしもした。
笑い、笑い、タバコを舐め、しゃぶり、口に咥え、吐いた煙を追いかける。見開いた目が言う。いいのか? こんなことあっていいのか? いいんだよな?
ああ、わかってるよ。ここが夢なんじゃないかってことは。
本当はまだコンテナの中なんじゃないかって。
あるいは死後の世界か。
愛煙家の天国なのか。
どちらだろうな。気になるか?
でもな、みんな。いいから言わせておくれよ。
愛してるぜ。




