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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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湖中の彼女

 オームドランドに夏が来た。クソッタレなこの町だけど良いこともある。道端に落ちている人糞だか犬の糞が早く乾いて、臭いが気にならなくなることと夏休みがあること。

 そして湖。やや緑がかった深青色の湖はクソみたいな町にしては意外と綺麗だ。僕はひとりで朝早くに、湖に面した草地からパンツ一丁で飛び込むんだ。

 おっとゴーグルを忘れてたよ。つければ水中でも目が開く(当たり前のことだよね)探検としゃれこむのさ。

 水底は岩と水草。それに空き瓶に空き缶。タイヤ。鍋。魚も少々。こうして並べるとまあ、汚いこと汚いこと。でも日の光が差し込むところなんかは綺麗なんだ。

 そして何より気に入っているのは静かなこと。耳の奥の糞塗れの脳みそにこびり付いた父さんと母さんの怒鳴り合う声も地上に置き去りさ。

 ここが好き。だから僕は夏休みの間は毎日ここに来るつもりでいた。匂いがつくから母さんは良い顔しないけど、湖から上がったら近くの公園の水飲み場の蛇口を指でちょちょいといじって、シャワーみたく浴びればそれでいい。日向を歩いて帰るうちに乾くのさ。それも夏の良いところだね。


 ある日、遊びに遊んだ僕は、学校の連中と鉢合わせしないうちに、そろそろ上がろうかと水中で顔を上げた。

 その時だった。妙な物が視界に入ったんだ。初めはクラゲかと思った。水中でふわっと靡くそれがそう見えたんだ。でもよくよく目を凝らすと足裏が見えた。

 

 人だ。


 靡いているのはスカート。まるでベッドの上で寝ているかのように湖の水面と底の丁度、中間の位置にいた。

 瞬きの度に、恐怖心が増していく。ぶるっと体が震え、そしてこう思った。

 

 幽霊だ。


 そうだ。確か何年か前にこの湖で死体が見つかったって話がある。僕はそれをすっかり忘れていた、いや気にもしていなかった。だってその死体の成分はとっくに湖と混じり合って薄まっているはずだ。でも、腐ってブクブクに膨らんだ死体を想像したら気分が悪くなってきた。

 息が続かなくなり、僕は慌てて水面に顔を出した。

 見渡すと、まだ辺りに人はいない。助けを求めても無駄だろう。つまり、幽霊からしたら襲う絶好のチャンス……と嘘でしょ。僕って映画の序盤に出てくる名もなき犠牲者第一号? 哀れで無垢で馬鹿な子供? もう一度潜ったらそこに目を見開いた幽霊が……って、そうならないように、このまま陸まで泳いで逃げよう。そっとね。向こうだってまだこっちに気づいていないかもしれない。と、それも犠牲者くんの考えじゃない? ほら、サメに襲われる映画のBGMがしてきそうだよ。ほら、今に来るぞ、湖の中から手が、白い手が、白い……。

 と、思っていた僕の頭の中にフワッと浮かんだ映像は恐ろしい幽霊なんかじゃなく、先程のクラゲのように靡くロングスカート。

 白いあれはワンピース? ネグリジェ? 女の子の服はよくわからない。ただ、この町は嫌な奴が多いしクソみたいに汚いけど、あれは……そう、綺麗だと思ったんだ。

 だから僕は自分の感覚を信じ、もう一度潜ることにした。


 女の人はさっきと同じ体勢のままだった。こっちに気づいた様子はない。ふわふわとただ浮いている。

 僕は彼女に近づくことにした。別にスカートの中が気になったわけじゃない。本当さ。どんな顔をしているんだろう? って気になったんだ。

 足裏から横へ回り込むようにして近づく。

 女性。長い髪。茶髪だろうか。水中だからよくわからない。真っ黒というわけじゃなさそうだ。歳は僕よりも上。十七、十八? 目は閉じている。やっぱり死んでいるみたい。幽霊だから当然か。でも今は朝だ。出るなら夜。じゃあ朝に出る幽霊? 朝に死んだから? でもネグリジェではなさそう。ワンピース。それも余所行きな感じの。でもまるで、まだ生きて……。


 と、彼女の腕をちょんとつついた時だった。触れることができたかはわからない。彼女が目を見開き僕を見て、そして煙のように姿を消したのだ。

 驚き、口の中の空気を全部吐き出してしまった僕は急いで水面に向かった。


「最悪……鼻の奥まで水が入った……」


 僕は息を整えた後、また水中に潜ったけど彼女はもう現れなかった。



 翌日、昨日と同じ時間になるように家を出た僕は湖のほとりで準備体操をした。

 今日もまたあの幽霊はいるだろうか。つっついた時のあの感触。思い出してみると実体があったような気がする。捕まえられたら……なんてね。

 僕は家から持ってきた小さな網をポイっと放り捨て湖の中に潜った。

 

 あれは気のせい……そう思うのが大人ってもんだろう。それで糞が落ちていた場所みたいに近づくことをやめて過ごすんだ。でも、僕は子供でよかった。また会えたんだから。昨日と同じ、足裏とご対面。

 僕は一度、水面へ顔を出し、大きく息を吸い込んでまた彼女に近づいた。

 恐怖心より好奇心。昨日と同じだ。やっぱり幽霊なのかな。でも昨日、僕が腕をつっついた時のあの顔。凄く驚いているようだった。それに消える瞬間。まるでベッドから起き上がるようにしてそれで……。

 

 僕は昨日と同じ、また彼女をつっついた。すると彼女はカッと目を見開き、僕を見た。

 まるで信じられないといった顔。そして彼女は僕を指さした。


「あなたは誰?」


 口の動きからしてそう言っているようだった。彼女はその後、苦しそうな顔をし、また起き上がるように姿を消した。

 僕も息が苦しくなったので水面に上がる。

 呼吸を整え、また潜ると彼女はそこにいた。でもさっきと違い、手に何か紙を持っているようだった。

 どうやら僕の読唇術は中々のものらしい。答え合わせだ。


【あなたは誰?】


 紙にはそう書かれていた。

 

 君こそ誰?





「あんた、それどうすんの?」


「あーっと……自由研究! いってきまーす!」


 臭くして帰ってきたら承知しないよ! と母さんの吠え声を背に浴びて僕は家を飛び出し湖に向かう。

 あの後、何度かしたやり取りから考えた結果、これが一番スムーズに行きそうだとそう思った。おもちゃ屋で売ってた、お風呂で使える文字練習ボード。水の中で書けるペンとホワイトボードだ。


【おはよう】

【おはよう、でもこっちは夜よ】

【時差があるのかな】

【もしくは時代が違うのかも】

【あるいは世界かもね。図書館の地図帳で君の住んでいる町の名前探したけど見つからなかったよ。

一台だけあるパソコンは爺さんが占領してて、おまけにこの町の大人同様デカいくせに脳足らずのポンコツ】

【あはは、こっちも似たような感じ。オームドランドなんて名前の町なかったよ】

【じゃあそっちは良い世界だ】

【どうして?】

【このクソみたいな町がない分、世界が綺麗だ】

【あははは、どこもクソよ】

【ふふふ、そうだね】


 どちらかが苦しくなったタイミングで二人とも息継ぎするようにしている。

 僕は男だし、毎回、彼女よりも後に息継ぎするように心がけているけど、彼女もなかなかやる。お互い言い出さないけど今じゃ、ちょっとした勝負になっている。

 僕は密かに彼女がホースか何かで息継ぎしなくてすむ方法を思いつかないでいてくれることを祈っている。だって、こっちも対抗しようも湖の中にまで伸びるホースは早々見つかりそうにない。浴槽と湖じゃ分が悪いんだ。

 そう、なぜか彼女の家の浴槽とこの湖は繋がっている。それも彼女が浴槽の中に完全に身を沈めている時のみ。この不可思議な現象。母さんに言った通り、研究したい……ってわけじゃない。

 ただ居心地が良かった。クソみたいな外の世界から隔離された静かで暗い空間。そこで文字通り別世界の人との交流。僕はこの時間が好きだ。


【湖っていいね。泳ぐの気持ちよさそう】

【そっちの世界にはまさか湖がないの?】

【あははは、そんなことないよ。でも確かに泳げるような湖は近くにないかな。プールや海がある。でもどこも人ばかり】

【都会なんだね。ここには湖しかないや。それに昼頃には人が増え始める。

学校の奴らと顔を合わせたくないからいつも早めに来て、それまでには帰るんだ】

【それでも今は一人でしょ? いいなぁ】


 僕からは彼女はこの湖にいるように見えるけど、彼女からは潜水艇の窓のように浴槽の側面一部分だけこの湖が見えて後は浴槽そのままらしい。だから僕を見た時は驚いたそうだ。

 どうしてそんなことになったのか原因はやっぱりわからないけど彼女と僕。潜ったタイミングが別でも待ちぼうけを食うことなく、繋がるみたいだ。時間と空間のねじれ。それか僕の妄想……だとしたら僕のクソ脳みそはクソ大したもんだ。


 彼女には何でも話した。話す気になれたんだ。レミーのことも。夏休み前に飛び降りた同級生。多分、友達だった子。嫌な奴らに目を付けられ、苛められていた子。

 でも、とどめを刺したのは普通の子たち。集団になれば誰でも恐ろしい怪物になれるのさ。


【君も飛び降りたいの?】


 彼女がそう訊ねた。


【まさか、そんなはずないよ。ただ争いや、やかましさと無縁でいたいだけ】


 僕は首を振り微笑んだ。


【争いと無縁じゃいられないよ。付き纏うの】

【静かに生きたいな】

【音は出るよ。生きてる限りは】


 彼女がフッと笑った。そして息継ぎ。僕も浮上する。彼女の笑顔が好きかもしれない。見上げた晴れた空。なんとなくそう思った。

文字を書いてもう一度潜る。


【君といるのが好きだな】

【何それ、告白?】


 ここで僕が早めに息継ぎ。そんなつもりで書いたわけじゃないのに心臓がバクバクいっている。何度も深呼吸した後、文字を書いてまた潜った。


【違うよ。この時間が好きってこと! 家も学校も嫌いなんだ。特に家なんか母さんと父さんは喧嘩ばかり】

【あー、わかるよ】

【でもなぜか離婚はしないし、時々仲良さそうにしてる。学校の僕をからかってくる奴らも同じ。親しげに話しかけてくる。ちぐはぐで混乱するよ】


 彼女が息継ぎ、僕もそれに合わせて浮上。


【それはね、結局みんな君のことが好きなんだよ】

【そうかなぁ】


 君も? なんてことは書けない。そもそも何でそう思ったんだろう。僕は彼女のことが好きなのかな。いやいやいやいやただの仲間さ! そう、不思議仲間。

 それに僕と彼女じゃ釣り合うかどうか……。彼女は年上だし、都会暮らしだし、良い服着てるし僕は小学生でクソの町で普段着は襟が伸びたTシャツだし……。家の浴槽は落ちない水垢。風呂場の壁だって崩れてる。


【僕は不幸者さ。君が羨ましいよ】

【そう、ありがと】


 ねえ、君は……と、誰かが水に飛び込む音がした。もう人がやってくる時間だ。

【また明日ね】

 僕はそう書いて湖から上がった。

 そうまた明日。



 その明日。彼女と出会って何日目かのいつもの朝。いつものように水に靡く彼女のスカート。

 でも今日は解けた赤いリボンを身にまとっていた。

 僕は前から疑問に思っていた。でも一度も聞きはしなかった。彼女から聞きたかったのは笑い声。聞かせたかったのはクソみたいな町の話。いつかは奇跡が起きて、二人逢えたらなんて思っていた。


 どうして服を着て浴槽に沈んだの?


 彼女の手首から煙のように血が流れ出ていた。

 湖の水面まで上がることなく彼女を包むように広がっていく。

 象られていくそれは真紅の棺桶。

 僕は叫んだ。ホワイトボードを捨て、自分の言葉を彼女に伝えたかった。

 彼女はこっちを向き、少し微笑んだ。


 死ぬ時はお気に入りの服を着ておきたいの。発見された時のことを考えてね。

 でも毎回、君と会って先送りにしちゃうから、乾かすのが大変だったよ。


 彼女は言った。そう言った。彼女の口から出た泡がそう音を立てた。

 僕の泡は何て音を立てたのだろうか。

 僕にはわからない。泡はただ水面まで上がっていく。

 

 彼女の腕を掴もうとしたら、それも泡となって、そう全て泡となって消えた。僕の泡もすべて消え、水が肺を掴んだ。

 ひょっとしたら全て幻。

 彼女は幽霊だった。この湖で、あるいはいつかどこかで死んだ幽霊。

 それとも人を食う湖。いずれにせよ誘い込まれ、まんまと罠に嵌った。

 沈む僕を手が掴む。手だ。手が、手だ。これまでこの湖に沈んで死んだ亡者たちが僕を暗い底に引きずり込んでいく……。

 手が僕の足を肩を口を頬を叩いた。痛いほどに。でもちょうどいい、僕の胸はそれ以上に痛んで、いや、痛いな。いた、痛い!


「ゴプペェ!」


「この馬鹿! いつかこうなるんじゃないかと思ったよ!」


 母さんはそう言うと僕を抱きしめた。濡れた服を着て、顔もまだ濡らしてた。

 最近の僕の様子を不審に思い、たまに後をつけていたらしい。そしてこの日、湖に潜ったまま、泡だけがボコボコと大きく浮かんできたのを見て母さんはすぐに飛び込んだ。


 僕は泣いた。大声で泣いた。ワラワラと人が集まり嘲ったけど構わず泣いた。その中にいた学校の奴らも近づいてきて、僕に大丈夫かと声をかけた。

 瞬間、僕は思っていたより自分が不幸ではないのかと、そう感じた。

 そして、彼女はどうだったのだろうかと考えた。

 その日の夕暮れは早かった。夏が終わりに差し掛かったのだと僕は思った。


 それ以来、一度を除き、彼女を見かけることはなかった。

 そう、一度だけ彼女を見た。夢の中で。

 もう服は着ていない。裸で自由に湖の中を泳ぎまわっていた。

 楽しげだった。だから多分、大丈夫。生きている。きっと彼女も救われたんだ。

 僕はそう信じているんだ。

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