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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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クソみてぇな話

 しぶとい残暑。しかし秋の入り口でもある今の時期。鉄道会社は冷房は寒いと判断したのだろう。

 だが、人身事故による遅れにより、車内の混雑率は体感200%。ムンムンムワムワ息苦しい。

 そして……俺の便意も限界を迎えつつあった。しかし、電車の進みは牛歩の如く。前の電車との兼ね合いか何か知らないが、動いては止まり動いては止まり、その振動の度に俺の腹を刺激する。

 ひっひっひっひと産気づいた妊婦を連想しつつ短い呼吸を繰り返し、いっそ叫び出したい、色々出したいという衝動を必死に堪える。

 入り口ドアに背をつけているから景色で気を紛らわすこともできない。目の前にあるのはワイシャツと厚い胸板。それに頬を擦らせ、つま先を伸ばせば肩の先、向かい側のドアの一辺から僅かに穏やかな夕焼け空が見えた。

 しかし慰めにはならず、ひたすらに懇願する。誰に? 神に? 車掌? 誰でもいい。早く、早く駅についてくれ。

 早く俺に糞をさせてくれ。

 トイレトイレトイレトイレトイレトイレトイレ……。

 こうやって考えるのは逆効果か? ああそうだ。目を閉じて何か別の事を思い浮かべるんだ。何でもいい、ほーら……一糞、二糞、三糞、四糞。ははは、頭の中まで糞だらけだ。


『ドアが開きます』


 は? え!? 到着!? いつの間に!


 ドアが開くと同時に、俺は身を翻し、羽ばたくように駅のホームに着地した。

 そして、そのまま走る。錆びた案内板を横目にトイレに一直線。その勢い、矢のごとし。湧き上がる疑問も置き去りにし、男子便所の中に駆け込んだ。

 ぬかるんだ床に足を取られそうになりながらも、二つあるうちの手前の個室の中へ。


 ――和式!


 だから、なんだというんだ。まさか文句でも? はははっ、あるはずがないじゃないですか。

 ベルトを外し、ズボンとパンツを一気に下ろし、準備完了と同時に放った。屁も糞も尿も暗い穴の中に。溜め込んだものを出し、その空いた隙間に幸福が流れ込む感覚。

 と、同時に糞がしたいという一念に押さえつけられていた、あらゆる感覚が蘇ってきた。

 

 臭い。


 いや、便所だから当たり前なのだがそれにしても臭い。しかもぬかるみ? 便所の床が?

 そう、便所だ。俺はここをトイレと呼ばずに便所と呼ぶ。その理由はひび割れた壁、薄暗い屋内。トイレと呼ぶには上品さを欠く。

 そしてあの錆びた看板。その奥にあった風景。まるでド田舎。有り得ない。しかし自分の目で見たものを否定するには根拠がない。

 だが次の駅に到着するにはタイミングが早すぎたこと。まさか……ここは異界……いやいや、馬鹿な。そんなことあるはずが――


「……れ」


 なんだ? 今の音。


「……くれ」


 ……声? 人の? どこから……いや、響くような今の声は、だが、まさか……下?


「もっとくれええええ!」


「あ、ああああああ!」


 手だ! 便器の穴から手が! そして、このぬかるみはやはり糞だ! 糞だらけの床だ! なんなんだここは! 汚すぎるぞ! クソ汚ねぇ便所だ!

 悲鳴を上げようと息を吸い込むたびに吐き気がし、えずく。俺はズボンを上げ、クソ便所から飛び出した。空は相変わらず、クソ穏やかな夕焼けだがその下は違う。

 木々、草、畑、やはりおかしい。毎日毎日、クソほど乗った電車だ。こんなクソ田舎は通らないはず。


 俺はしばらくそのまま駅のホームで電車を待った。なるべく呼吸しないように。便所の糞の臭いがここまで漂ってきていたからだ。

 しかし、待てども待てども電車のほうは来やしない。

 やはり異界に迷い込んだのだろうか。いや、それかどこかのド田舎に偶然、瞬間移動した? わからない。何にせよどうすれば帰れる? 何か手掛かりを。時刻表か何か。それに出すものを出した分、喉が乾いた。

 そう考えた俺は駅のホームから出て、周囲を探索することにした。

 だが、すぐに後悔が込み上げてきた。それに吐き気も。


 糞、糞、糞、糞、糞、糞、糞。


 これは誰かを罵っているわけでも、自分の境遇を嘆いているわけでもない。

 糞がそこらじゅうにあるのだ! 犬畜生の類じゃない。吾輩は人糞である! そう主張するように道の端、真ん中、至る所で、どっしりと塒を巻いて構えていやがるのだ!


 嗚咽交じりに俺は糞ある道を進んだ、進むしかなかった。どこかの民家か店で電話を、あるいは電車が次にいつ来るか知りたかったのだ。

 しかし、こんなクソみてえな場所で暮らしている者がまともなはずがない、という思考に至るのが遅すぎた。

 背後からした子供の声に俺は振り返り、声をかけようと口を開いた。

 瞬間、何かが頬を掠めた。

 そして、その何かとはすぐにわかった。二人の少年のその手にあるのは茶色い塊。

 

 糞だ! 糞を投げて来たのだ!

 しかし、それだけではない。あの少年たち、パンツ一丁なことに加え、体中に糞を塗りたくっていたのだ。

 それが未開の地の蛮族のように雄叫びを上げ、俺に向かって走ってくる。

 

 俺は踵を返し、走り出した。糞を踏みつけ息を荒げ、肺に送り込む空気もまた糞まみれ。

 助けを求めて目をクソおっぴろげながら人を探した。そもそもまともな人などいるとは限らぬのに。

 クソガキたちは奇声染みた笑い声をあげながら俺に糞を投げてくる。その内の何個かは俺の前方に落ち、そして何個は尻と背、そして後頭部に命中した。

 迎え撃ち、殴りつけてやろうかとも思ったが、糞まみれのクソガキになんて触れたいはずもない。

 結局、泥仕合、いや糞試合、糞まみれになるのは目に見えている。糞は最強の鎧だ。


 走り、走り、横腹がクソ痛くなった時、前方に人影が見えた。

 クソ背の高い、いや、違う。そいつは道の脇の岩の上に乗っているのだ。そしてそれもまた少年であった。

 俺はその少年の前で足を止めると、胡坐をかく少年の下にあるのは岩ではなく、それもまた糞なのだと知った。まるで鏡餅のようにクソ積み重ねられ、これまでで一番の臭いを放っていた。

 俺は嗚咽し、込み上げる吐き気に体をくの字に曲げた。


「おおっと、吐くのはやめときな。出すのは下からだ」


 クソ威厳に溢れた声だった。

 だから従った訳ではないが、吐き気をどうにか押し込み、俺は顔を上げた。

 糞の上に鎮座するその姿はまさに蠅の王、いや糞の王。気づけば俺を追いかけてきていた二人の少年も立ち止まっていた。

 糞の上の少年はどこかへいくようにと二人の少年に手で合図すると、少年たちは背を向け走り出していった。


「迷い込んじまったんだな」


「え、あ、はい、多分……」


「帰りたいか?」


「は、はい!」


 こんな糞だらけの世界から帰してもらえるのなら、足を舐めて良いとさえ思った。

 だが、すぐに考えを改めた。糞の王もまた糞まみれなのだ。しかし、不思議なことに威厳があった。ワックスのように糞を塗り、後ろに流した髪は色気すら感じられたのだ。


「まあ、そうだろうな。けえんな。お前さんにはここはまだ早い」


 糞の王はそう言って俺から目を逸らした。いや、糞の王は自分が手にしている数本の縄の先に目を向けたのだ。

 俺が目で追うと、その縄の先には雑草の奥、四つん這いになり、糞を垂れ流す者たちがいた。

 大人の男のようだが、まるで泥遊びする豚のように裸であり、糞まみれ。何とも醜悪極まりない惨めな姿。しかしその顔は


「こいつら幸せそうだろ? ここじゃ、いつでもどこでも糞ができるんだ」


「そ、そんなの……」


「品がないって? 品ってのはなんだろうな? 人前で糞をした人間を軽蔑することか? それとも哀れむことか? 嘲笑うことか?

好きな時に好きな場所で糞をするのは生き物にとって当たり前のことなんだ。

人間はそれを剥奪、自ら封じ込めた哀れな生き物なのさ」


「でも、そんなの、秩序が……」


「おいおい! 笑わせないでくれよ! 糞が出そうだぜ! そんな秩序こそ糞だ。そしてここでは糞が秩序。

イッツ・ア・クソワールド! 受け入れればこの香りも味も最高さ」


「あ、味? まさか、食って……」


「そうとも、あの二人のしたことに腹を立てないでくれ。お前に最高の糞を食わしてやりたかったのさ」


「う、うえええおおおお」


「あーあ、吐いちまったか。勿体ないな。糞に変えたほうがいいのに。

ま、仕方ないな。糞を漏らすのを忘れた人間なんてその程度だ。

綺麗な言葉遣いで本音を押し隠し、つまらねえ顔してさ。自分をクソ解放してやればいいのによ。

……さ、帰りの電車は呼んでおいた。元の世界に帰りな。ただし振り返っては駄目だぜ」


 糞の王は俺に失望したようにそう言った。

 しかし、声と目にはどこか期待を込めたような優しさ、出したてほやほやのションベンのような温度が伴っていた。

 俺はくぐもった声で礼を言うと、脇目もふらずに走った。纏わりつく糞の匂い。振り払いたくても振り払えない、この糞まみれの世界から脱出するために、ただ走った。

 

 駅のホームにたどり着くと、ちょうど電車がきた。

 ドアが開く。満員だが乗らない選択肢はない。体を押し込め中に。まるで腸の中の糞になった気分だった。


 電車が走り出し、駅から遠ざかると徐々に元の世界に帰って来たんだと実感が沸いた。

 いや、なんならずっとこの車両にいたとさえ思った。目の前のこの胸板もさっきと同じもののような気がしてならない。

 俺は夢を見ていたのだろうか? 糞がしたくてしたくて見た夢?

 しかし、俺の前に立つ男が何か臭うなとばかりに鼻をすすっている。

 あの世界の臭いが体についているのでは。もしくは、俺の尻から漏れ出た屁か。

 ……そう、また糞がしたくなってきた。さっき便所で出したのも無かったことかのように、懐かしき感覚が蘇ってきたのだ。


 腹が鳴る。プスッ、プスッと漏れ出る屁。まるで沸騰するヤカン。しかし、耐える。耐えねばならない。それが大人。社会人。


『そんなのクソだぜ』


 ふと、糞の王の言葉が頭によぎった。クソほど威厳に溢れ、優しさに満ちたあの声色で。

 

 気付くと俺はクソ厚い胸板に顔を沈めて、泣いていた。

 尻からも泣いた。

 足に伝う涙がクソ温かかった。

 俺の前に立つ男の鼻をすする音と頻度がクソ増加した。

 俺の隣に立つ女がクソ大きな悲鳴を上げた。

 俺も負けじと嗚咽を上げた。

 これは産声だ。

 クソおんぎゃあ。クソおんぎゃあ。

 ハローニュークソワールド。クソハッピーバースデー。

 体からブリュブリュボトボト出て行く糞も押し寄せる快感も俺はもう咎めようとはしなかった。

 これが人間。これが人生。クソ野郎なんて罵声は誉め言葉。

 オレはクソクソ、ミクソクソ。合わせてクソクソ、ムクソクソ。クソクソクソクソ無限クソクソ。クソクソクソクソクソクソクソ……。

 

 俺はクソ愉快な気分になりケラケラ笑う。

 車内は怒号と悲鳴がクソ入り混じって便器の中みたいだ。

 それがたまらなく心地よかった。

 糞よクソありがとう。うんこ、うんち、大便、人糞、排泄物、実、ばば、クソ、糞、ビチグソ、糞便。呼びかた違えど、みんな同じ。

 人間もそうさ。性別年代人種。ははははっ全員、糞をするじゃないか。

 

 その考えに至った瞬間、俺はまたあの声を聞いた。



『いいか、お前は糞の出る穴の近くから、この糞みたいな世界に生まれ落ちて、おぎゃあと泣いて糞を漏らし、また泣いて、しばらく涙と糞の漏らし方を忘れたと思ったら、爺になってからまた糞を漏らすんだ。

恥じることはない。人間って生き物はみんな、生まれてから死ぬまでクソッタレなのさ』

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