歪な夢を
鮮やかな青空の下。風が平原を撫でるのを女は広いつばの白い帽子を手で押さえ、助手席から眺めている。
その隣。サングラスをかけた男は腕を片方、外に出し、ご機嫌な様子。
「風が気持ちいいわね、ディーン」
「そうだろう、アリーシャ。僕の言ったとおりオープンカーにして正解だったね」
「ふふっ」
「なんだい?」
「あなたったらそればっかり」
「でもホントだろう?」
「ええ、勿論。あなたが正しいわ。でもどこへ行くの? まだ教えてもらってないわ」
「ああ、そうだね。そろそろ教えてもいいかな。ガイドブックに載っていたんだけど、今日はある村でお祭りがあるみたいなんだよ」
「村? いいのかしら、余所者が行っても……」と、アリーシャは帽子を両手でギュッと抑え、視線を下げる。
「平気さ! 村といってもまるで童話のように穏やかで、お祭りもそう、ビール祭りみたいなものさ。はははっ、怪しい儀式的なものではないよ」
「なら安心ね。でも……」
「あー、弟くんかい? 仕方ないじゃないか。君、前もって行き先を聞いていたら彼に伝えていただろう?
だから内緒にしてたんだ。たまには夫婦二人の時間が欲しくてね」
「うーん、そうだけど、どうもあの事故以来、あの子心配性になったみたいで……」
「ま、それも仕方ないさ。まさに奇跡の生還ってやつだからね、おおっと」
道路が一部荒れていたのだろう、車が揺れたのを契機にアリーシャの中で、あの日の光景がフラッシュバックした。
傍から見れば顔にかかった日差しに顔を歪めたように思う程度の変化だが、ディーンは目ざとくそれに気づいた。
「大丈夫かい?」
「……ええ、平気」
あの日から何度も夢に出てきた。
自分たちだけがどうして生き延びたのか。
神様のお陰。だとしたらなんのために?
アリーシャは何度も自問自答した。だが、未だ結論は出ていない。
「アリーシャ? 着いたよ」
ディーンの声にハッとしてアリーシャは思考の海から顔を上げた。
「素敵な村ね」
本心から出た言葉だった。皆、汚れ一つない、ゆったりとした白い服を着ていて、子供なんか特に天使のようだった。
一歩間違えれば怪しい新興宗教団体のように見えるところだが、絶妙なバランスで純粋無垢なイメージが勝っていた。
「さあ! 行こう!」
アリーシャはディーンに手を引っ張られ、村の中に入った。
踊り出したくなるような愉快な音楽。村の住民は全員裸足だった。それに倣い、ディーンとアリーシャも裸足になる。
地面は綺麗に刈り揃えられた芝生。怪我や汚れる心配はない。紙コップに入ったビールを振舞われ、チキンのいい香りが鼻をくすぐった。
いくらかと訊ねるといずれも無料だと笑顔と共に言われた。自然とアリーシャも笑顔になり、やがて音楽に身を委ねる。
「あっ!」
酔って良い気分になっていたアリーシャが紙コップを落とした。
やっちゃったな、といった顔をするアリーシャ。と、その目の前に紙コップを持った手が。
「どうぞ」
「あら、ありがとう」
女性。綺麗な顔。ディーンの好みの。
アリーシャがそう思ってディーンのほうを向くと、思ったとおり、ディーンがその女に熱いまなざしを送っていた。
アリーシャはディーンの頬を軽く叩いた。するとディーンは「あれが制服の魔力かぁ。君のおかげで正気に戻ったよ」とヘラヘラしながらアリーシャの頬にキスをする。それでアリーシャは温かく、陽だまりの中にいるような気分に……。
と、アリーシャはハッと我に返った。
あれ? どうしてそんなことを考えたのだろう?
ディーンのほうを向いても彼は村の住人と談笑している。
それに制服? 彼女はみんなと同じ服を。
あれ? 前に、何か似たようなことが……。
アリーシャはまた紙コップを落とした。
ビールが芝生を濡らしたが砂漠のようにすぐに干上がるのをアリーシャは目にした。
足で恐る恐る触れてみるも、まるで何もなかったかのようにただ草の先が足裏をくすぐった。
「……ディーン。ディーン!」
アリーシャがディーンを呼ぶ。手の震えは声にも出ていた。
ディーンがヘラヘラとした笑みを浮かべながら駆け寄る。赤ら顔。手足はふにゃふにゃ。すっかり酔いが回ったらしい。
「どうしたんだーい? はははは」
「何か……何か変なのよ」
「おいおい、連中が悪魔崇拝者にでも見えたのかい? へへへへ」
「そんなんじゃ、でも何か変なの。何か……そう、デジャヴのようなものが」
口に出してみると疑念が脳内でどんどん形を成していった。アリーシャは目を見開き、周囲と照らし合わせる。
「そうよ、あそこ。あの男の人。見覚えがあるわ」アリーシャはできるだけ声を抑えながら指さした。
「あの太った男かい? 別にその辺にいそうな顔じゃないか」
「いいえ、確か、以前怒鳴り声をあげていたわ。そして……奥さんに窘められていたの。
奥さんはすみませんって顔で周りの席の人に――」
席? なんでそう思ったのだろう。
「その奥さんはその隣にいる人かい? 随分と年寄りじゃないか。あれじゃ妻と言うより母親だろう」
「違うわ。あの人は……もう何回も――」
「どうしたんだい? ははははっ! まさかあの婆さんが政府のエージェントだと?」
「違う、違うわ」
アリーシャはいよいよ足の指から髪の毛の先まで震えだした。顔は青ざめ、両腕で肩を抱き、真冬の海に突き落とされたような有様だった。
「大丈夫かい? あっちで休ませて貰おう。ほら」ディーンはそういうと村の奥へと視線をやった。
「違うわディーン。私、帰りたいの!」
思った以上に大きな声が出たことにアリーシャ自身も驚いた。
そして向けられる村の住人たちの視線。
アリーシャは針のように刺さるその視線の中、ディーンの手を引き、歩いた。
いつの間にか音楽が止んだ。
踊る者はいない。
ただアリーシャを見つめている。
その中、二人に歩み寄る者が。
「どうされましたかな?」
「あなたは……?」
「この村の村長をやっております。どうにも体調が優れないようですね」
「そうなんですよ! いやぁ、素晴らしいお祭りなんですがね、妻が先ほどからちょっと様子が変でああ、以前事故に遭ってそれが原因で少々不安症気味でしてね、まあ大したことはないんですが」
「いやいやそれは大変だ! でも大丈夫。お客様の安全は――」
「当機の機長である私が保証します」
なぜかアリーシャの口をついた言葉。
瞬間、アリーシャはあの日の光景がフラッシュバックした。
窓の外で燃えるエンジン。
揺れる機内。
機体に穴が開き、そして……。
アリーシャの言葉に村長が固まった。
気づいたことに気づかれた。
アリーシャはそう確信した。
アリーシャはディーンの手を握ると踵を返し、ほとんど走るように、いや逃げるように村の出口に向かった。
「おいおい、アリーシャ! どうしたんだい!」
「この村の人はみんなあの飛行機に乗っていた人たちなのよ!」
あの飛行機事故の。私たちだけが助かった――
そう言葉を続けようとしたアリーシャの喉が詰まった。
私たち?
アリーシャの足が止まった。いや、止まるしかなかったのだ。
ディーンと繋いだ手。それがまるで手の形をした木の枝を握っているようにこれ以上動かないのだ。
アリーシャは振り返ることをためらった。ディーンの姿を模した得体の知れない者がそこにいると思えてならなかったからだ。
その者がアリーシャに語りかけた。優しく、慈愛に満ちた声で。
「アリーシャ……君はもう死んでいるんだ」
「え……?」
アリーシャはゆっくり振り返った。
ディーンとその後ろには横並びになった村人たち。彼らもまた穏やかな顔をしている。
「君だけじゃない。僕らはみんな死んだんだ」
「嘘、でも……」
アリーシャの脳裏にあの事故の後の日々の記憶が甦る。
旅客機。山に墜落。死者は乗員含む208名。ネットやテレビのニュース、新聞で嫌でも目にした。
「私たちは……」
アリーシャの言葉が途切れた。俯き、今度甦ったのはあの事故の直後の記憶。
遠く、闇夜に上がる黒煙と炎のオレンジ色の光を目にしながら山道を足を引きずりながら歩いた。
全ては死んだ後のこと?
救助隊にタオルをかけられたのは?
病院に駆けつけた弟の顔、全て私の妄想?
そして、そして……。
「あなたは確かに病院にもいなかった……いつの間にか私の傍に。そう、フラッと幽霊みたいに現れて……私は……」
アリーシャは顔を上げた。遅かった。無数の手がアリーシャの体を掴み悲鳴さえも覆った。
死ぬ……いや、元々死んでいる……え?
その時アリーシャの脳裏にあの事故の発生時の映像が飛び込んできた。
飛行機の横腹が抉れ飛び、アリーシャは座席ごと外に放り出された。
遠ざかる飛行機を目にしたのを最後に、強い衝撃で意識を失った。
救助された後に知った。座席が上手い具合に木に引っかかりながら落ちたから助かったと。
私は生きている……。手で口を覆われ、その言葉は喉より先に出ることはなかった。
GPSを頼りに弟がアリーシャのもとに辿り着いた時にはアリーシャは風に揺られていた。
白いワンピースの裾がなびき、縄がギシリと音を立てた。針を振り切ったような弟の叫び声が、あの事故の森の中に轟いた。
死者は209名。そして今、ここにまた一人……。
「つまんないわ!」
「え?」
机に齧りつくようにして文章を書いていた俺が顔を上げると目の前には女。
そして辺りはまるで秘密の会議室のような、やや暗い場所にいた。
ここは一体どこだ? 俺は確かに自分の部屋でこれを書いていて……いや、それよりもこの女、この顔は……。
「私、こんなお話に出たくないわ! 書き直して!」
この物言い。まさかあの物語の登場人物? そんな馬鹿な。そんなの夢。ああ、これ、夢か……。
「ちょっと聞いているの!?」
「い、いや……出たくないと言われても困るよ。一体どうして?」
「だって死ぬんでしょ!? そんなお話ばっかり! かっこつけてるの!? ハッピーエンドにしてちょうだい!」
「え、ええ……」
滅茶苦茶な物言いだ。でもどうせ夢なんだ。怒鳴られるだけ損。話を合わせてしまおう。
私は生きている……。
そう強く確信を持った時、アリーシャの体に力が宿った。死に至った者どもの力など生者に及ぶはずがない。
「アリーシャ! 僕を裏切るのか!」
ディーンの叫びが響く。途端に世界が、村の景色が崩れ、本来の姿が露になった。
「ここは……あの森? 私、誘き寄せられたの?」
「アリーシャ! 来るんだ! 俺と来いクソビッチ!」
アリーシャは叫ぶディーンに向きなおす。
「ディーン。あなたとはお別れよ」
アリーシャは暗がりの森に差し込む日の光に向かって走り出した。
実体を伴った白昼夢を置き去りにして。
その背中は、もはや何者の手も届かない、力強く、自由であった。
「うん、いいじゃない! そうよ、時代はやっぱり強い女性ね!」
「そう、お気に召したなら良かったよ……」
「ちょっと待って欲しい」
「え、君は……ディーン?」
「うん、僕の役がひどすぎやしないかい? 僕は彼女のこと愛していたっていうのに、こんな仕打ちするわけないじゃないか!」
「いや、でも……」
「それを叫び声なんか上げてまるでこっちが本性みたいだ。ヒステリックなマッチョがお好みなのかい?」
「そういうわけじゃないけど……」
「じゃあ、書き直しだな」
「ええ……じゃあまあ、最後はディーンが背中を押してくれたとかで。君は生きるんだ的なことを言って」
「結局死んでるんだな僕は。生き返らせられないかい?」
「いや、それはさすがに――」
「あのう……」
「はい? あなたは……」
「機長兼村長です。私も悪役はちょっと」
「え、い、いや、え、そう言われても」
「私も」
「俺も」
「僕も嫌」
「なんとかしてよ」
「そもそも死にたくなんかないよ」
「幽霊なんて嫌だ」
「エキストラかよ」
「かっこいいのがいい!」
「おい待てよ! 僕なんて弟なのに最後のチョイ役だぞ! おまけに後追い自殺だ! 嫌だよ!」
「そ、そんなゾロゾロと来られても……あ、やめ、やめてくれ! 掴むな! 引っ張るな! これじゃまるであの最後の場面じゃないか、ああ、あああああ!」
「もっといい役を!」「もっといい役を!」「もっといい役を!」「もっといい役を!」
「もっといい役を!」「もっといい役を!」「もっといい役を!」「もっといい役を!」
っと目が覚めた……。
妙な夢を見た。物語の登場人物が文句をつけるなんてははは、笑える。
しかしまあ納得の夢だな。この現状じゃ……。
「だからこの役は嫌なの!」
「俺はこの前やったぞ!」
「おい、いい加減にしろ! そろそろ開演だぞ!」
「おーい、もうあの顔は変えたか? 確か嫌いな奴の顔だったろ」
「ああ、ほら変えたぞ。あのせいで昨夜はイライラしたのか、夢から覚めちまったんだ」
「まだ途中だったのになぁ」
「そうそういい脚本だったのに」
「そうだっけか?」
「お前が好き放題書き足したからな」
「そんなことより今日はドラゴンを出そう!」
「駄目よ! ワンちゃんを出すんでしょ!」
「どっちも出せばいいさ。俺はとにかく車を運転したい」
「じゃあ、俺も刀だ刀! チャンバラがしてぇ!」
「またかよ」
「おい、もう眠りについたぞ! 行くぞ!」
もうそんな時間か。今夜の話の出来栄えはまあまあだ。本当はもっとブラックな、そう悪夢を見せたいんだが、やりすぎると途中で目覚めちまう。困った客だよまったく。
まあ、結局、各々が動きたいように動いて滅茶苦茶になっちまうんだがな。
脚本を書いてもその通りに行かず、整合性のある話なんか、できたためしがない。
壁にある針が下の方を指す。それが肉体が眠りにつき夢を見る準備ができた合図だ。
ガヤガヤドタバタと慌ただしく控室から飛び出し、脳に住む俺たちが今夜も主に夢を見せる。
さあ、開演だ。
どうか最後まで楽しんでおくれよ。
どんなに変な世界でも。




