酒の力
夜中、小さな一軒家。
そこに住む男は定年退職した途端、妻に出ていかれ意気消沈……していたのは最初の内だけで、気兼ねすることなく酒が飲めていいやと近所の飲み屋で知り合った男を家に呼び、今夜も酒を酌み交わしていた。
「さ、さ、飲んで飲んで」
「おとと、これはどうもどうも。いやぁ、しかし一人暮らしと言うのも悪くはなさそうですなぁ。
私なんて尻に敷かれる毎日。家に帰ったら嫌な顔されますもん。こっちは長年働いてきたっていうのに」
「ふっはっはっはっは! まあ実際悪くはないですよ! 田舎から都会に出て一人暮らししてた頃のことを思い出しますねぇ。
それに何をするにしても顔色を窺わなくていいですからな」
「いやぁ、羨ましい! うちのなんて出ていくどころか私が追い出されそうですからな」
「ふっはっはっはっは! まあ、ここにいる間は遠慮することないですよ。ささ、飲んで飲んで」
「ええ、はははは! いやぁ、いい気分だ。
しかし、こざっぱりした部屋ですなぁ。畳が、ひいふうみい、六畳ですか。物がないと広く見えますな」
「ええ、ええ。妻の部屋だったんですがね、出て行ったのを機に思い切ってアイツがいらないと言っていた家具など捨ててやりましたよ。おかげでこうして横になれるわけですな。やっぱり畳は最高ですわ」
「ははははっ! うんうん、二階ですし夜風も入って実に清々しい気分だ。子供時代を思い出しましたよ。畳の部屋で兄弟と」
「相撲やプロレスごっこ!」
「そうそう! はははは! いやぁ、おたくもですか! 懐かしいですなぁ」
「ふふふふふ。よっこらしょっと。どうです? 一つ取ってみませんか?」
「相撲ですか? 負けませんよぉ」
「では、はっきょーい……のこった!」
「う、くくくく」
「ぬぅぅぅぅ」
「ううう、ずあっ!」
「なんの! てあ!」
「うはぁ! 参りました」
「ふははははっ、東ぃ~なんちゃら山~っと、大丈夫ですかな? 押し入れの襖が外れてしまいましたな」
「ええ、ええ。でもそのお陰で痛くはありませんよっとあれ? メガネがどこかな」
「ふふふははは! 頭の後ろですよ! ふははははっ!」
「おっとこれはお恥ずかしい、ははははは!」
「ひーっ、ひっー! あーおなか痛い。楽しい夜ですなぁ」
「ええ、ええ。良い気分です。ささ、勝者にお酒を注ぎますよっとあれお酒は?」
「部屋の隅ですわ。相撲を取るんで移動して置いたのですわ」
「ははあ、よっ、さすが一家の主、手際がいい! と、しかし動くのが面倒ですなぁ」
「わかりますわかります。今の相撲で疲れてしまいました。歳ですなぁ」
「ですなぁ。一度座ると立ち上がるのも面倒で面倒で」
「まったくです。こうして伸ばした手に酒のほうから飛び込んでくれればいいのですがな」
「はははっ、は……? 今、動きませんでしたか?」
「え、あの酒瓶がですか? いや、しかし、酔いすぎでは?」
「いえいえ、今、確かに……。ほら、ええと、念じてみてくださいよ」
「そうですか? まあ、やってみますが……お」
「また動きましたな! そら、ずりずりずりとさあ、さあ、おいでおいで。あんよがじょうず。あんよがじょうず」
「いやはや驚きですな。まさか私にこんな力が……ん?」
「ああ、ほら、念じてくださいよ。止まってしまいましたよ」
「それがもう動かんのですわ。まあ、この距離ならこうして手を伸ばせば、はい、取れましたよ」
「いやいや、今は酒より超能力ですよ。うーん、どうして使えたのか、そしてどうして使えなくなったのか」
「さあ、わかりませんなぁ。でも驚いて酔いが覚めてしまいましたよ。むむむ、駄目そうですな。まあ、飲みましょう」
「……それですよきっと」
「はい?」
「酒に酔ったら超能力が使えるんですよきっと!」
「そんなまさかぁ。どれどれ飲んでっと……はぁ!」
「お! ほら! 飲んだらまた使えたじゃないですか!」
「おお、これは飲むしかありませんな! ささ、私だけではなんです、あなたも飲みましょう!」
「ええ、飲みましょうとも! いやぁすごいものを見た。……そうだ! 私のことを浮かせてみてくださいよ」
「できますかなぁ……人ひとりですし、まあ、やってみますか! よーし、燃料補給っと」
「お願いしますよ。おお、おお? すごい! 浮いていますよ!」
「むむむむむ、かぁー!」
「お、おお! すごい! ほらこのポーズ! スカイダイビングみたいなっあああ!」
「む、すみませんな。落としてしまった」
「いたたたた。また急に使えなくなったんですか?」
「いや、その、力んだら屁が出そうになり、我慢したら……」
「ははははは!」
「ふはははははは!」
「いたた、ささ、気を取り直してもっと飲みましょう! 力を強めるのです」
「ええ、ええ。飲みましょう。それで次は何をしましょう」
「そうですねぇ……そうだ! ちょっとこの窓のそばに来てくださいよ。
ほら、へへへへっ。通行人を浮かせたらきっとびっくりして面白いですよ」
「おっほぉ! それは良い考えですなぁ。どれ、ちょうど一人来ましたしやって見せましょう。むむむむむ」
「お、はははははっ! 見てくださいあの慌てよう!」
「ふははははっ、駄目ですよ。静かにしないとバレてしまいます」
「へへへへ大丈夫ですよ! あ、逃げてしまいましたな。
お、また次が来ましたよ。女ですな。どうです? スカート捲りなんかって、もうやってますね」
「ふははははっ、どんなもんです!」
「いやあ、お見事お見事。お、次は腕組んだカップルですかな。
二人分はさすがにきついですか? どっちか片方でもそれはそれで面白そうな……。
ん? なんだ若者かと思えば熟年夫婦ですか。仲睦まじいですな。
どうせなら若い方が……って、どうされました! どこか痛むんですか!?」
「う、う、ひっぐ、う、う、うううう」
「そんなに泣いて一体どうしたんです!」
「……さび、寂しいよぉ」
「え? ああ、まさか、奥さんの件ですか……?」
「戻って来てくれぇ! ううう」
「あらら、笑い上戸かと思えば泣き上戸。まあまあ、飲もう、飲みましょう! 今夜は飲むしかない! 話ならいくらでも聞きますから!」
「う、ううう。はい!」
二人は朝まで飲み明かした。
出て行った妻への懺悔は酒の肴になりはしなかったが瓶は空になっていく。
朝になれば何も記憶に残らないだろう。その話も。超能力も。
そして強く求めるあまり、夜空を駆けるように、こちらに向かって飛んできていた自分の妻が自分が寝入ったために途中、落下したことにも男が気づくことはないのであった。




