酒の席の話
「あ! あんた……」
「おお、あなたは昨日の」
肩で息をしながら居酒屋に入って来たその男は一瞬、安堵の笑みを浮かべたが、すぐにまた顔を引き締めた。
まるで親とはぐれた子供がその親を見つけた時のような喜び、次に叱られることを恐れた顔。
それは当たらずとも遠からず。彼は二人用のテーブル席に座り、酒を嗜むこの男を探していたのだ。
彼は席に座ると神妙な面持ちで言った。
「昨日、俺とここで飲んだ人だよな? ほら、相席になってさ」
「ええ、そうですね。覚えていますよ」
「そ、そうか……いや、そういう俺はあまりよく覚えていないんだ。ははは、確かあの時は三軒目だったかな……」
「そうでしたか。成程顔色が悪いわけですね。二日酔い、おや頭痛ですか?」
「ああ、まあ……それもそうなんだが……その、俺が何の話をしていたか、あんた覚えているか? どうも断片的な記憶しかなくてな」
「ええ、ええ。奥様との馴れ初めの話をしていましたよ」
「お、おお。そうか、そうだよな……それでその、どんな内容だったかな」
「何度も口説いてようやく結婚までこぎつけたイイ女だと仰っていました」
「うんうん、だよな。うん。その通りだ。よそでもそんな話をしていた気がする。ふー、どうも記憶がごちゃ混ぜでね。それで、他には?」
「あいつがいなければ俺なんて生きていけないよ、や、愛しているなど」
「ははははっ! 気恥ずかしいな! まあ、そうだ。そんな話をしたんだった、ふぅ」
「……ただ、それは結婚当初の話で最近は喧嘩が絶えないと声を潜めて言っておられました」
「……他には?」
「どうやって殺すか考えている時間だけが安らぎだ。あんな家に居たくない、と」
「ほ、ほう……まあ、酔っていたからな。多少の愚痴は仕方ない。でも結局、俺は妻を愛して――」
「とうとうやってやったと」
「……何を?」
「あのクソ女をとうとう殺してやった。そのうち失踪届を出すつもりだ。
あの女は結婚した後も男と縁が切れず遊び歩いていたんだ。
被害妄想なんかじゃないぞ、証拠もある。
ははは、その中にはガラの悪い奴もいてな。俺が殺したと疑われはしない。むしろ同情されるだろう」
「……じょ、冗談! 冗談! 妄想の、う、憂さ晴らしさ! 妻なら家にいるしな、うん」
「今は押し入れの中に隠してある。どこに埋めればいいか悩んでいるんだ……と大丈夫ですか? 随分顔色が悪い」
「あんたに話したのはただの冗談さ……し、信じてくれるよな?」
「さあ……真に迫ってましたからねぇ……」
「……あぁぁ、終わりだぁ」
「ええ。その後、あなたは寝てしまいましたから」
「そういう意味じゃない。俺の人生が終わったんだ……。言うんだろ? 警察に」
「……終わりがあれば始まりがありますよ。
と、いう訳で新生活に新しい家はどうですか?
ええ私、不動産業者でして。ローンも組めますよ。
さあさあ、これなんてどうです? 庭付きの一戸建てなんてお勧めですよ。
いやー、衝撃的なお話でね。内容は覚えていたんですけど顔は記憶していなかったんですよ。私も酔っていましたからねぇ……」




