路地、それは産道のようで
電気椅子のある部屋まで続く廊下ってのは、こんな感じだろうな。
ブルースは愛車のハンドルをぎゅっと握り締めながらそう思った。
点々とある外灯。その光が頼りないのは仕方ない。この町は金がない。弱々しい上に点滅しているが切れてないだけマシだ。
【Missing】
電柱にある貼り紙の上部に大きく書かれた文字。そして中央には子供の写真。まるで展覧会だ。
同じ子が一人としていない。それでもこの町にはまだまだガキはいるんだから不思議なもんだ。悪ガキばかりだがな。
ブルースは、ため息をついて夜道を走り抜ける。
『はい、ブルース』『やあ、ブルース』『君もこうなるんだよ』『誘拐されて無残に殺されるのさ』『楽しいよ。ほら後ろをご覧』『ああそうだ、そこの脇道から来るよ』
子供の写真。いくつもの目と目が合い、囁く声。不安、恐れ、陰鬱な気持ちが引き起こした幻聴にも満たないただの妄想。こんな夜は酒を呷って眠るに限る。
そう考えたブルースが倉庫とドリーの雑貨屋の間の路地の前に差し掛かった時だった。
「いや! やめて!」
声がした。ブルースは思わず愛車を止め、息を殺す。
少年少女のそれじゃないことが救いだった。もしそうだったらいよいよ医者に診てもらおうかと思うところだった。無論、頭の。
「うるせぇ! 騒ぐな!」
「いやぁ!」
闇の中から聴こえてきたのは荒っぽい男の声と擦り切れた女の悲鳴。
ブルースの頭の中に瞬時にその二人の姿が浮かんだ。
男は白い丸首のシャツにライーダースジャケット。髪は短めのリーゼントでジーンズの後ろポケットからは、くしゃくしゃのタバコが顔を出している。
女は金髪のロングで少々傷んでいる。ヒョウ柄のタイトで短いワンピース、胸元がパックリ開いている。それからこいつも上にレザージャケットを着ている。いわゆるビッチファッション。それも付き合う男に合わせたもの。
――つまりただの痴話喧嘩さ。まあ、勝手な想像だが。
「お願い! もう殴らないで! いやぁ! ヘンリー! いやぁ!」
「うるせぇんだよ!」
ヘンリーよりはもっと品と知性のない名前だと思っていたがどうでもいい。女が名前を呼んだということは顔見知り。予想は概ね当たっていたということだ。
影から月明かりの下に出すようにブルースの脳内に女の顔が浮かび上がる。
涙でアイシャドウが垂れ、唇は切れている。頬が赤い。ヘンリーの顔も赤い。頭に血がのぼっているんだ。もしかしたら酒を飲んでいるかもしれない。じゃなきゃ女を殴りはしないだろう。
何にせよ自分が首を突っ込むことじゃない。こういうカップルは大抵この後のセックスで解決するんだ。
『ごめんな。愛してるぜ』『私も愛しているわ』
で、また何日か後に女は殴られる。それでもまた言うんだ愛してるって。馬鹿げた話だ。理解不能。
ブルースはガムを吐き捨てるように笑い、ぐっと足に力を入れる。関わるな。放っておくんだ。脳内でそう声がする。
「いやぁ! やめて! 痛いわ! おねがいよぉおねがぁい……」
「うるせぇ! 殺すぞ!」
殺すとは穏やかじゃない話だ。と、ブルースはフッと息を吐く。
だが、平均的飲んだくれは殺す気がなくても殺すぞと口走るもんだ。
……それにしてもあの女。その叫びや懇願が余計に男を苛立たせていることに気づかないものか。離れた場所にいるこっちもイライラするんだから至近距離だと相当なものだろう。
まあ、まず気づくべきはそんな男と付き合う自分の愚かさだろうが。女というのはなんで馬鹿で態度のデカい男を強い雄だと勘違いし、惹かれるのだろうか。そのデカいガタイのてっぺんの脳みそには、これっぽっちも栄養が行っていないというのに。
まあ、きっとお似合いさ。殴られる女と殴る男。需要と供給を満たしているんだろうよ。勝手にやってくれ。
「お願い! おなかはやめて! 赤ちゃんがいるの!」
「俺の子みたいに言うなクソ女が!」
おおっと、今夜一番のニュースだ。
『ジェーンドゥ、妊娠発覚! おなかの子はヘンリーの拳でグチャグチャ!』
吐き気がするよまったく、なにもかも。
しかし、想像通りの二人とはな。どっちにも同情できないな。彼氏以外の男と寝る女とそんな女と付き合い、赤ん坊のいる腹を殴ろうとする男。
「いやぁ! お願い!」
「いいからこっち向け! 蹴り入れてやるよ!」
関わるべきじゃない。そもそも仮に銃で男の頭を撃ち、女を助けたところで感謝どころか
『この人、本当は良い人なのよ、何するのよ! ちょっと頭に血がのぼっていただけ! 本気で赤ちゃんのいるおなかを殴るはずないじゃない!』
なんて口走りそうだ。そして俺は銃なんて持っていない。
「いや! それだけはやめて!」
「誰の子だよ! ヒッグスか!? レイモンドか!? 双子のウィリー兄弟の片割れか!? はっ! それなら生まれてもどっちが父親かわかりゃしないな!」
関わるだけ損だ。そもそも俺に何ができるわけでもない。
まあ、ヘンリーのパンチングボールになって、頭を冷やしてもらうぐらいには役に立てそうなもんだが翌朝、冷え切った俺の全身がそこで見つかるだろうよ。運が悪けりゃネズミに指を何本か食われてるかもしれないがな。ここオームドランドはネズミまで卑しく貪欲で油断ならないんだ。……いや、ネズミが卑しいのは普通か?
「お願い……お願いします……助けて」
「うるせぇ!」
ようやく女の口からまともな被害者らしい声が出た。うるせぇ小型犬みたいなキンキン耳に響く不快な声じゃなく。
だが、それでもヘンリーは機嫌を直さないままだ。バチンと肌が叩かれる音と短い悲鳴が続く。何度も何度も。
「やめて……やめて……」
「いいから、さっさと――うっ!」
気づけばブルースはUターンし、あの路地の反対側に来ていた。
聞こえて来た声の具合からして、こちらからの方が遠い。つまり堂々と真正面から相対することなく済みそうだった。
そして幸運な事に壁際にゴミと一緒にバールが落ちているのを見つけた。
尤も驚くべきことではない。治安の悪い町だ。こいつも一仕事し終えた後かもしれない。
ブルースはバールを両手に握ると、路地が孕む闇の中に入っていった。
今夜の月は頼りなく、視界は著しく悪いが、それでも闇の中で動くものは見えた。
規則的にそれは地面で丸くなっているもう一つの物体に当たっている。
それがヘンリーの足と丸くなった女の体だということが分かると、ブルースはヘンリーの軸足に向かってバールを振った。
「っなんだ!? なにしやがったクソ女!」
吠えるヘンリー。殴られた足を抱えて片足で立っている。
ブルースはすかさずもう片方の足にバールを振るう。
するとヘンリーは積み木のように地面に崩れ落ちた。
ブルースはわめくヘンリーの頬にバールを乗せ、言った。
「いいか? 今夜はやめておくんだ。お前は真っすぐこの路地から出て振り返らずに走るんだ」
「な、なん、誰だ! 何なんだ!」
「静かな夜が好きな男だよ。お前の声も、女の声も今夜はこれ以上聞きたくないんだ。
まだわからないようなら、こいつを喉に突っ込んでやってもいいんだぞ」
ヘンリーはぐっと黙ると足を引きずり、立ち上がった。
この瞬間、ブルースにとって最も危険であることは本人にもわかっていたことだがブルースは賭けた。ヘンリーが反撃に出てこないことに。そして勝った。
ヘンリーはそのまま壁伝いに裏路地から出ると姿を消した。
ブルースはフッと息を漏らした。事が無事に片付いたという安堵の息ではあったが、もう一つ意味があった。
外灯の下に出たヘンリーの姿はタフガイどころか、どちらかと言うと陰気な青年だったのだ。
「あ、あの……」
「お前は反対側から出るんだ。いいな?」
そう言った後、ブルースは少し後悔した。愛車がそこに置きっぱなしだ。見られるかもしれない。
しかし、その心配は無用だった。女は外灯の下に出ると闇の中のブルースを少しの間見つめただけで、そのままどこかへ消えた。
女はグレーのパーカーにジーンズ。茶髪だった。男と同じく大人しい雰囲気の、一見普通の子。
闇は人の姿を覆い隠し、必要以上に大きくする様だ。
――お陰で助かったがな。
ブルースはフッとそう笑い、路地から出ると横倒しになった愛車を起こし再び跨った。
――俺は大人だ。それも男だ。
ブルースはもう、電柱に貼られた行方不明の子供たちに共感し、恐怖心を抱きはしなかった。
背丈は低いまま変わりはしなかったが、ブルースの影は先程よりも大きく伸びていた。




