罅割れた卵
オームドランドは泥と油臭い、何とも華やかさに欠ける地だ。
ここの子供は、ベルトもせず垂れ下がったズボンを右手で上げるような町の大人連中にはなりたくないと思って育つが、成長し、天井のシミがよく見えるようになるにつれ、自分の未来というものが見えてくる。
その時、子供らは私のように町を出ることを現実的に考え勉学に励むか、それとも車を乗り回し、飲み干した瓶ビールを電柱や知らない家の郵便受けに投げつけるか、そのどちらかに分かれる。
私の兄のバーティは後者だった。私たち家族がこの町に引っ越してきて、そう時間が経たないうちにバーティは見事に順応してみせた。
とは言え、私は驚きはしなかった。体が大きく、脳が小さいバーティはすぐに不良連中の王になると思っていたのだ。
人を殴ることを得意とし、暴力について一切の抵抗を持たないことは私がその身をもって知っている。
無論、不良グループには元々の王、つまり、リーダーがいた。
ジョグズという名前の痩せ型で金髪の男だ。奴は違法ドラッグ漬けのお坊ちゃんのような見た目だが、この町にドラッグはあっても金持ちはいない。古びたマスタングが彼の相棒だ。バーティと出会うまではだが。
二頭のライオン。出会ったその日に殺し合いでも始めるんじゃないかと周りは思ったが、意外にも馬が合ったらしく、バーティはジョグズのマスタングの助手席はバーティとビールの特等席となった。
ジョグズは頭の切れる奴で(比較的に、の話だが)バーティとタイプが違ったのが、うまい具合にハマったようだ。
二人にとってはいい出会いだったが他の者、特に大人しい、善良な人間にとってはそうはいかない。
夜中、車を乗り回し、世に対する主張と言うよりは、動物的な叫び声を上げる彼らに戦々恐々としていた。
注意する大人もいたにはいたが、ジョグズのもう一つの相棒。折り畳みのナイフが彼らを黙らせた。歯向かう者はいない。ただ向けるどころか口に突っ込まれれば誰だって大人しくなる。
それにジョグズは目をつけた者の家の前の道路を毎晩、コースに指定するような粘っこい奴だから、まさに触らぬ神に祟りなしと言ったところ。(ビーンズさんの家の窓が割れずに全て揃っている日はない)
無敵。バーティという猛獣を手なずけてからというもの、その地位は揺るぎなかった。
そう、二人の王と言ったが、私が思うに我が兄バーティは上手い事、利用されていたのだと思う。
それもジョグズがあの夜に死ぬまではだが。
ある夜。ジョグズたち不良連中の行きつけのダイナーの真向かいにある、食料雑貨店の駐車場に一台の車が止まった。
赤いオープンカー。私の同級生のティナとその従姉が乗って来たものだ。赤はジョグズの好きな色だ。そのダイナーを気に入っている理由も革のソファーが赤色だからというのもある。
ジョグズのような連中を、硬いクソを捻り出すように褒めるとしたら、ただ一つ。行動が速いことだ。尤もそれが世のため人のためにならないことの方が多いわけだが。はて、この時はどちらだろうか。
彼女たちはそこから少し離れたハンバーガーショップに行くためにそこに車を停めた。
小さな店だ。駐車場は二台分あるが、何故か一台分、いつも埋まっている。
彼女たちは並んで歩き出した。
それを窓から見届け、ダイナーを出たジョグズは手に持つ酒瓶を股間に重ね合わせ、ぶらぶらと揺らしながら歩いた。
顔はニヤつき、犬のようだ。バーティも同様。
そして連中は車に乗り込むとガチャガチャといじり、キーがないのに魔法のようにエンジンを掛けた。
ハイタッチ。奇声と共にそのエンジン音を夜の町に轟かせた。この夜の運転手はバーティ。
アクセルを踏み込み車を飛ばし、助手席のジョグズが空き瓶を電柱に投げつける。
後ろの席に座る連中は主に弾薬補給。回し飲み要員だ。酒と奇声で喉を震わせる。
野良猫、野良犬、アライグマも人も震え上がり、夜を切りつけるような車のヘッドライトから遠ざかる。
逃げることが出来ない電柱は、ただ震えるだけ。
そう、震えた。それは喜びもあったのかもしれない。震え、傾いた。
バーティは法定速度の意味を知らない馬鹿だ。もしかするとブレーキも知らなかったのかもしれない。
車は電柱に激突した。何日か前の夜、空き瓶を投げつけ、その破片がまだ根元に散らばっていた電柱だ。
さて、ここまでの話を振り返り、ジョグズが行儀のいい男とは誰も思ってはいないだろう。
それは正しい。トイレでどういうクソの仕方をするかは私も知らないが、大人しく座るのもシートベルトが嫌いなのも町中の人間が知っている。
ジョグズはオープンカーなのに、わざわざ車のフロントガラスを頭で突き破り、川に投げた丸石のように地面を跳ねた。その何回目の跳躍でかは知らないが、車から崩れるように出たバーティたちが駆け寄った時にはジョグズはすでに事切れていた。
未成年の自損事故。おまけに死んだのは厄介者だ。
無論、盗難車ではあるが大した罪にならずバーティは家に戻って来た。
保護観察付きだが落ち込んでいるのはそのせいじゃない。バーティにとってジョグズは紛れもない相棒だったのだ。
【気にするなよ相棒。俺はそばにいる】
だが、すぐにまた元気を取り戻した。
鶏が三歩歩けば、というやつだ。またバカ騒ぎ。と、その前に不良連中が大人しくしている間の町の様子を語ろう。
私は夜明けというものの真の意味を知り、平穏というものを初めて味わい胸が震えた。
私だけじゃない。小学校の同級生たちの顔にもそう書かれていた。
ついでだ。私の小学校生活についてもお聞き願おうか。
バーティの弟ということもあり、不良連中に憧れているチンパンジー共からは一目置かれていた。が、それも転校して間もないころだけだ。すぐに私の手が人を殴るために使うことよりも、本のページをめくるためにあるということに気づいてからは連中は私に対する興味を失った。
しかし結果、普通の友人が数人できたから良かったと言えよう。
ティナもそのうちの一人……と思いたい。話をしたのは数回のみ。そのうちの何回かは『おはよう』だ。あの時まではだが。
五階建ての校舎のその上階の窓には鉄格子が取り付けられており、登校し見上げるたびに私は自分の未来を暗示されているような気がしてならなかった。
ただ、これは脱走防止のためでも暴徒対策でもない。
その昔、ジョグズがこの小学校に通っていたころ、レミーという生徒がいたそうだ。
痩せっぽっちでヨレヨレの服。ジョグズたちに目をつけられるのも無理はない。
その日、レミーは朝起きることができず朝食を食べ損ね、登校したものの昼食も食べ損ねた。
飛び降りたのだ。
原因はその飛び降りる十数分前、トイレで囲まれボールにされたこと。
そうボールだ。突き飛ばされ、引っぱたかれ蹴られ、蹴られ。
だが、ジョグズはその輪にはいなかった。いつもの取り巻きの連中も。
囲んでいたのはごく普通の生徒だ。遊びだとジョグズにそそのかされ、煽るだけ煽り、ジョグズはその場を後にした。
中にはレミーより年下や、体の小さい子、女の子もいたらしい。
誰もいなくなったトイレから出たレミーは何を考えたのだろうか。きっと誰も彼もが恐ろしい怪物に見えたに違いない。
私はレミーが飛び降りた教室の窓から地面を見下ろし、風に乗る鳥を見て憧れを抱く。
彼らは笑う。『おい、見てみろよ。バカが籠の中から俺たちを見ているぞ』
「はぁ……」
「ため息すると幸せが逃げていくって言うけど」
私は声の方に振り向いた。
「幸せならそもそもため息なんてつかないよね」
「ティナ……」
そんなことはないと言いたかった。現に私は息を漏らしそうだった。思わず口を塞ぎ、ついでに自分の息が臭くないか確認した。
「何を見てたの?」
「君、じゃなくて、鳥をちょっと」
ティナは私の隣に来て空を眺めた。鉄格子が彼女の顔にシマウマの模様のような影を作り眩しそうに片目を細めたが、彼女はただただ美しかった。
だが、流石に黙ったまま見つめ続けるわけにはいかない。(そうしたかったが)私は口を開いた。息が彼女に届かないよう、顔を少し逸らして。
「あー、その、車、うちのバカ兄貴がごめんね」
私は『兄貴』なんて言葉を普段は使わない。ましてやバカなんて付けたことはない。本人を前にしてその度胸はない。
私は精一杯強がっているようで自分が滑稽に見えてやしないかと不安になった。
そもそも、車を盗まれた上に事故。それも人死にが出たことを思い出させてどうする。バカめ。
口にした言葉はノートに書くのとは違い、そうしたくとも消せない。しかし、ティナは微笑んでくれた。
「ろくでもない兄弟がいると大変だよね。私の兄もそうだった。とっくの昔に死んだけどね」
基本、人の家族の悪口を言うのは良くないことだということは小学生でも理解している。
だがティナはちゃんと私が兄、バーティに対し、嫌悪感を抱いていることを理解している。だから言い切った。しかしそこに車の件の怒りはない。彼女のそんなところが好きなんだと私は思った。
次いで、生まれて初めてバーティに感謝した。会話のネタになってくれたことにだ。そして私は一世一代の勝負に出た。
「……今度良かったら二人で夕飯を食べない? 奢るよ」
言った。言ったぞ! だが、口にした途端、風船のように勇気は見る見るうちに萎んでいき、「まあ、余り高いのは無理かもだけど……」と付け加えた。
「ふふっ、いいよ。私も払うから」
「そう、うん。じゃあ今度」
「うん、楽しみにしてる。あー、これがなかったらもっとよく見えたのにね。いい天気」
「そう、だね」
再び空に視線を向けた彼女の横顔を見ながら、私は鉄格子があってよかったと思った。
無かったらきっとそのまま窓の外に向かって飛び出していたかもしれない。
その時の私は空を飛べると確信があったのだ。
彼女はすごい。ただ会話するだけで私に自由を、これまでの人生が正しいと感じさせてくれたのだ。
さて、バーティの話に戻ろう。
バーティは不良仲間を引き連れていつもの店、いつもの席にドカッと腰を下ろした。
だが、やはり落ち着かない。相棒を失ったんだ。当然と言えば当然だ。
しかし、バーティが失ったのはそんな単純な話じゃない。足りない頭を補っていた、それどころか完全にバーティの頭脳として
機能していたジョグズの死によって、バーティはまたあれこれ考えなくちゃいけない羽目になった。
いつもみたく弟の私を殴る蹴るのは簡単だった。そうすれば気は晴れるし、言うことをきかせられる。
しかし、仲間はどうだ? 頭を失った怪物についてくる奴はいるのか?
バーティが不良仲間に順に目を向けるが、どこかよそよそしく元気がない。まだ喪に服していると考えるところだが、バーティは不安になった。
そしてバーティみたいな奴が不安になるとどうなるか?
動物と同じさ。攻撃的になるんだ。
バーティは笑い声のした方に目を向けた。
そこに座っているのはバーティと同年代くらいの連中。高校生、それも学校で目立たないグループだ。
訪れた平穏な日々に酔いしれている彼らはバーティの視線に気づかず、話に花を咲かせている。
バーティが立ち上がり、テーブルに近づいたところで、ようやくハッと夢からさめたような顔をした。
バーティがポケットに手を突っ込み、取り出したのは折り畳みナイフだった。ジョグズの形見。血に飢えている。
それを赤い革のソファーに突き立てるとバーティはググッと連中に身を寄せた。
【やれよバーティ。思いついたらほら行動だ】
息を呑んだ。地味連中も不良仲間も、ダイナーにいる他の客も。
バーティは地味連中の頬をペチペチと軽く叩いた。
何を考えているのかわからない。それが不気味に感じたのだろう、引きつり、抵抗できずにいる。
バーティ自身も何を考えているかわからないのかもしれない。
何か言いたいが思いつかないのか、それとも何も考えていないのか。
次にバーティはグラスの水に指をつけ、地味連中の顔にパッパッと飛ばした。地味連中は顔を背けるが抵抗も、やめてくれよと、声を上げようとはしない。下を向き、媚びへつらうような笑みを浮かべるだけだった。
それがバーティの機嫌を良くした。ただ同時に嗜虐心も煽ることになった。
地味連中の一人が水滴がついた眼鏡を外した。
バーティはそれに目をつけた。
「おい、お前。眼鏡を外したらなかなかいい男じゃないか?」
バーティがその男の頬を片手で挟み、男はキュッと唇を突き出した。
色黒の肌。モジャモジャの長髪。見開いた眼には恐怖の色が濃く浮かんでいる。
その瞳に映るバーティの顔から笑みが消えた。
「そう思うだろ!」
バーティが振り返り、不良仲間たちにそう言った。
不良仲間たちは『ああ』や『うん』と取れるような微妙な反応をした。まだ、バーティが何をしたいか理解が及んでいないのだ。そしてやはりそれはバーティ自身もそうかもしれない。
バーティがソファーからナイフを引き抜いた。
小さな穴が開いた。店の照明の光が届かない。暗い穴だ。
ほんのわずかに空気を吸い込んでいるような、風の流れをバーティは感じたのかもしれない。
バーティは顔を近づけその穴を見つめ、そして男のほうに向きなおった。
ああ、そうか、そうすればいいんだな。
そう呟いた。 まるでその穴から声を聞いたように。
いや、ただの声じゃない。指令だ。
バーティは男の顔を切り裂いた。
一回、二回目は素早く、自分の身に何が起きているのか分からなかったようで、三回目でようやく男が悲鳴を上げた。
手足をバタつかせ、グラスが零れ、メニュー表のスタンドが倒れた。
「おい!」
流石に店主が怒鳴った。
バーティは男を放し、体ごとナイフを店主に向けた。
太っちょの店主は唇とその上にある白茶の髭を震わせ、引きつった顔をした。
それがお気に召したのか、バーティはニヤッと笑い店を出た。不良仲間たちが後に続き、少しした後、車が走り去る音と振動がダイナーを震わせた。
【バーティ。お前がしたことは正しい。俺が言うんだ間違いない。そうだろう?】
ある日、私はバーティの部屋でノートを見つけた。
勿論、人のノートの盗み見なんてまるでネズミ。上品な行いじゃない。だが、もとはと言えば、そう、バーティの部屋に勝手に入ることになったのもバーティが私の物を勝手に持ち出すからだ。頻繁に。
だから大事なものはいつも隠すように……と、ますますネズミみたいだ。
それはさて置き、そのノートがバーティの日記だと分かった瞬間、私は驚愕した。
重ね重ね言うがバーティの手は人を殴るためにある。ペンを握ったことなんて、その手の指の数以下ではないだろうか。
だから解読は困難だった。今すぐ、紙に利き手と逆の手で何か書いてみてほしい。それを水に漬けて滲ませた後、よく揉みこめば『バーティ・テキスト』の完成だ。
唯一、日付だけは労せず読めた。数字は偉大な発明だ。
それによると、どうやらこれはジョグズの死後に書き始めたようだ。相当なショックを受け、せめてノートにでも内心を吐露したかったのだろう。誰かの勧めかもしれないが、バーティを心理カウンセラーに連れて行ったという話を両親から聞いたことはない。
もしかしたら自分で思いついたのかもしれない。
あるいは、それも脳内のジョグズの指示か。
バーティの日記。その内容は心の嘆き。詩的な部分は皆無だが興味を惹いた。
全文を述べるのは難しい。所々、解読不能なほど汚かったり、文法、文字が滅茶苦茶。支離滅裂だったりしている。
それが元々なのか、それともジョグズの死の影響による心の崩壊によるものかは知らない。特に日を追うごとにそれは酷くなった。
【ジョグズがいるそばにいる。思うよりもっと近くに。
あのナイフがいつの間にか俺の荷物の中に紛れ込んでいたのもアイツの仕業だ。
部屋の前にシャツが、この前はジーンズがあった。アイツの匂いと生臭さが混じっていた】
そしてある夜。私はティナとダイナー来た。
約束の夕食という訳だ。私がこの店に行きたいと言った時、ティナは余りいい顔はしなかったが私はどうしてもここが良かった。
ダイナーの真向かいの食料雑貨店の駐車場で待ち合わせし、ティナを送り届けた従姉は車を置いて、そのまま近くのダーツとビリヤードの遊び場へ向かった。
保険が降りたのか弁償されたのかは知らないが車は元通りだった。
ただ一番驚いたのは、よくもまあ同じ車に乗る気になるなということだ。
とは言え、その赤いオープンカーは輝いて見えた。
ある種この町の、少なくとも誰かの英雄には違いない。悪党の一人を屠ったのだから。
私たちは手を振りティナの従姉を見送ると店の中に入った。
店内はいつもと大して変わらなかった。
バーティもいた。出禁にしたところで無駄だ。野生の豚に畑を荒らすなと言うようなものだ。
バーティがお気に入りの席で仲間たちと大声で馬鹿話しているのを横目に私たちは隅の席に座った。
当然、野次が飛んだ。
「へーい、今夜ヤルのか?」
まあ、下卑た連中だとは知っていたから驚きはしない。ティナは俯いていたから(時々睨んでもいた)気づきはしなかったろうが
バーティから着水寸前の小型飛行機のような印象を受けた。フラフラ揺れて機体から煙が出ている。
と、私がそう思った理由はバーティが今、タバコ、あるいは違法ドラッグをやっているからではない。内面の話だ。
注文した品が席に運ばれた丁度その時、一人の男が店にやって来た。
男は顔を、手を震わせながら店主に言った。
「金だ、金をよこせ」
浮浪者風の男は茶色い紙袋から銃を取り出し、店主それから悲鳴が上がった店内へと向けた。
見かけない顔だった。薬中の流れ者だろう。問題はバーティがソイツを見てどう思うかだった。
「……おい、座ってろ!」
【誰であれ俺たちに生意気な物言いは許さない。そうだろ? 相棒】
バーティは立ち上がった。
頭の中ではジョグズの言葉が端から端までぶつかっていただろう。
ひどく頭痛がしているようにバーティは何度か頭を叩いた。
「……かっこつけるなよガキが」
男が銃の撃鉄を下ろした。
が、もっと早くにやっておくべきだった。
バーティはすでにナイフを後ろ手に持っていたのだから。
そう、バーティは早かった。身を低くしたかと思えばあの瞬間だけはアメフトの名選手の如く、男にタックルをかまし、男はカウンター席のテーブルに背骨をぶつけ、鈍い悲鳴を上げた。
【止まるなよバーティ。お前はしたいままにすればいいんだ。それがやるべきことなんだ】
そしてバーティはプレゼントの包装紙をビリビリに破く子供のように、夢中になって男の体を切りつけた。
男が崩れるように床に倒れてもなお、バーティは手を止めはしなかった。
流れ出た男の血を踏み、バーティの靴底がキュッキュッと音を立てた。
男の悲鳴は割と早い段階で途切れた。喉を切り裂かれたからだ。溺れたような声が店内に響いた。
やがてバーティは床の血で足を滑らせ、男の胸に顔を押し付けた。そこでようやく動きを止めたのだ。
そして、おもちゃ売り場で駄々をこね、泣き疲れた子供が立ち上がるように、ゆっくりとバーティは起き上がり、私をあるいは他の誰かを見た。
「ジョグズ……ジョグズがやれって……」
震えた声。まるで本当に子供のようだった。
しかし、その顔は、血に塗れたその顔を前に私たちは何も言えなかった。
それどころかバーティが店を出て車に飛び乗り、エンジン音が遠ざかるまで店の中にいる者は身動き一つできなかった。
私は、恐らくティナも呼吸すらも忘れていた。
【赤色がいい。好きなの知ってるだろ? 赤い車だ】
バーティはティナの従姉の車を盗むと、悲鳴のようなタイヤの音を轟かせて走り去った。
そして、あの道。ジョグズが死んだあの道でバーティはハンドルの操作を誤った。
あるいは本人の望んだとおりかもしれない。
かなりのスピードが出ていたようで、車はひっくり返ったまま五十メートルをゆうに進んだらしい。
バーティの頭は荒いアスファルトに擦り付けられ、下顎まで摩り下ろされた。
きっとその事故の前、バーティはこう叫んでいたに違いない。
『ああジョグズ。俺はやったよ! やってやったんだよ!
お前の望み通りにな! ああ、うるさい、静かにしてくれ!
ああ、わかってるさ! うるさいんだよ! 俺の! 俺の体だ! 俺のもんだぞ!』
夜中、時々バーティの部屋から、そんな声が聞こえていた。
バーティはジョグズの死後、その影に励まされ、そして怯えて生きてきた。
秘密の日記に書きこまれたジョグズの文字。紛れ込んだジョグズのナイフ。部屋の前に置かれたゴミと体臭が染みこんだシャツ。
【ほーら、バーティ。相棒。俺はここにいるぜ。
お前の中だ。そうだ、その顔の下さ。剥いてみろよ。
綺麗さっぱりと良い気分になるぜ?】
あの時、振り返ったバーティの顔。まるで茹で卵の殻が割れたようにジョグズの顔が所々、剥き出ていた。
光の加減、顔についた血。幻覚。理由をつければ納得できそうだが、でもティナも、バーティの仲間もあのダイナーにいた人たちは全員あれを見ていたはずだ。
だが誰も声をかけはしなかった。いや、かけられなかった。
もし、あそこで声をかけていれば、ジョグズの名を口にしていれば、バーティは自分がイカれたんじゃないとわかり、孤独と恐怖が少し和らいだかもしれないが、結局そうはならなかった。
自業自得や因果応報なんて言いやしない。だってそうしたら私に返ってきそうじゃないか。
私は数年後、町を出た。
不要な思い出は箱にしまい、崩れたレンガ、穴の開いたフェンスの向こう、廃品置き場の土の中に埋めた。
鎖に繋がれた犬が番をしている。時々顔が二つあるように見えると噂の。
だから大丈夫だ。あのナイフも日記も戻ってきはしない。罪も思い出も全部土の下。墓に見立てて突き刺した鉄パイプの下。
ジョグズの呪い……そんなものはありはしない。
だがバーティの完全な妄想でもない。
日記に書きこんだのは私だ。
現場で拾ったナイフを置いたのも私。
ゴミに出されたジョグズのシャツや遺品をバーティの部屋の前に置いたのも私。
バーティがジョグスの筆跡を知っていたら、この試みは早々に失敗に終わっていただろう。
まあ、そうはならないと踏んでいた。アイツらの間で文字なんてものを書く機会があったとは思えなかったのだ。
悪意はない。好きでもないし恨んではいたが、それでも兄弟だ。
だから五分五分。均衡のとれた天秤。
まあ、転んで欲しい方に少々指を乗せたが、ただの観察に終わる。そのつもりだった。
……時々、自分の頬に触れるとピシッて音がする。
あくまで気のせい。
ただ、もしこの下にいるのなら、それはバーティかジョグズか。どちらだろうか。
殻を剥いて確かめる気はない。
まだ。
唆すような声が聞こえないうちは。




