犯行現場 :約2500文字 :ホラー
犯人は現場に戻る。
ふと、少年の脳内に刑事ドラマで耳にしたその言葉が浮かんだ。
実際、彼は何度も現場に戻ってきた。
そう、彼は犯人。とはいえ、放火や殺人といった恐ろしい罪ではない。彼が犯したのは、落書きだ。
秋のある曇り空の日。家にいても退屈だった少年は、なんとなく外へ出た。自転車をゆっくりと漕ぎながら、近所の廃墟となった倉庫の横を通る。トタン外壁の大きな倉庫だ。錆びたフェンスが囲い、枯れた蔦が無造作に絡みついている。
ふと目を向けると、倉庫の壁に大きな脚立が立てかけられていた。さらに、そのすぐそばにはスプレー缶が転がっている。
――これは……。
少年の胸が高鳴った。
少年は周囲に人がいないかよく確認すると、自転車を止め、フェンスを乗り越えて廃倉庫の前に立った。
扉はグレーで、トタンの壁は雨風に晒され、くすんだ白色。所々に赤茶けた錆が浮いている。
少年は脚立を立て直し、スプレーをポケットに入れて意気揚々と登り始めた。
だが、すぐに後悔した。
――登る前に何を描くか考えておけばよかった……!
高い場所が苦手というわけではないが、落ち着ける空間ではない。
早く終わらせよう……。少年は少し考えると、スプレーを吹きつけた。
描いたのは、自分の名前。もちろん、フルネームではない。誰にもバレないようにイニシャルだけ。小学生だが、いや、小学生だからこそ、保身の知恵が働く。
脚立から降りた少年は、倉庫の壁を見上げた。
――なんか……アートっぽい!
少年は満足げに笑った。まるで自分がこの倉庫の所有者になったような気分だった。
「ふふ……さむっ」
びゅうと、と冷たい風が吹き抜ける。少年は身を縮め、辺りを見回した。誰もいない。見つからないうちに帰ろう。
少年はそう決めると、フェンスを乗り越え、自転車に跨り、鼻歌交じりで現場を後にした。
翌日、少年は廃倉庫を見に行った。縄張りをチェックするように。
「え!」
倉庫の壁を見て驚いた。昨日描いた自分のイニシャルのすぐ下に、誰かのイニシャルのようなものが描かれていたのだ。
少年は満面の笑みを浮かべた。部下ができた気になったのだ。
だが、それで終わらなかった。
まるでブームが来たかのように、あるいは割れ窓理論の如く、落書きは日に日に増えていった。
一週間も経つと、倉庫の壁はまるで組織図や家系図のようなさまに。
少年は、てっぺんに描かれた自分のイニシャルを見上げる。
――僕が“オヤジ”、つまりボスでその下はみんな、構成員ってわけだ。
そう思うと、ニヤつきが止まらなかった。
だが、その誇らしい笑顔も今日で終わった。
フェンスを乗り越え、廃倉庫の前に仁王立ちする少年。不機嫌そうに壁を睨みつける。
その視線の先にあるのは、かつて誇らしく掲げられていた自分のイニシャル。だが今、それは上から大きく×マークで塗りつぶされていた。
そして、その遥か上には新たなイニシャルが刻まれていた。
少年は、その意味を理解していた。
「挑戦状だ……」
少年は握り込めた拳を開くと、鼻から息を吐き、脚立を引きずって倉庫の壁に立てかけた。
限界まで高く、上に――もちろん、恐怖心はあった。だが、これはプライドを賭けた戦い。負けるわけにはいかない。
少年は己を奮い立たせ、脚立に足をかけた。
二段、四段、六段……。
下は見ない。見るべきは、敵の名だけ。
そして、少年はとうとう脚立の先端付近まできた。しがみついて体を固定する。そして、敵のイニシャルに向かってスプレーを吹きかけた。
くすんだ白い壁に、黒い塗料が無秩序に広がっていく。
少年はシンナーの刺激臭に顔を背けた。だが、口元は自然と笑っていた。
――ざまあみろ。
敵のイニシャルはタール溜まりのように黒々と塗りつぶされ、小さな気泡がいくつも浮かび、鈍く光っていた。
満足感に浸る少年は、さらにもう一段、脚立を登った。
倉庫の壁に手をつき、体を支える。ざらりとした感触。鼻を寄せると鉄錆の匂いがした。
少年はスプレーを握りしめ、新たにイニシャルを描いた。
「勝った……完全勝利だ」
少年は満足感と自己肯定感に酔いしれた。胸が熱くなり、鼻から大きく生暖かい息を吐いた。
だが、その興奮も長くは続かなかった。
突如、背筋を寒気が走った。
電線を叩く風の音が鋭く響く。
――高い……。
わかってはいたが、かなりの高さだ。周辺の家の屋根を悠々と越えていた。辺りを一望し、いい眺めと思ったのは一瞬だけ。すぐに恐怖が込み上げてきた。
――もう降りよう。
そう決めて、少年はそっと下を向いた。
その瞬間だった。
目が合った。
――誰……?
地上にいたのは、自分と同じくらいの年の男の子だった。
声をかける間はなかった。少年の思考が停止した。脳だけがあの曇り空に投げ出されたかのように、頭の中が空白になったのだ。
脚立が揺れた。
視界が大きく傾いた。
そして、世界がゆっくりと回転し始めた。
少年の脳が慌てたように空から体へ帰ってきた。
しかし、思い浮かんだ言葉は――
どうして。
蹴った。
その二つのみであった。
それ以上を考えるには時間が足りなかった。地上はもう目の前に――。
意識が暗闇から現実に戻ったとき、少年はすでにコンクリートの地面に倒れていた。世界が横たわっている。
少年はいくつかの疑問を抱いた。
まず、体が一切動かないこと。脚立が倒れたとき、大きな音がしたはずなのに、何も聞こえなかったこと。今も何も聞こえないこと。風の音も、転がる落ち葉の音も、自分の呼吸音さえも。水たまりなんてなかったはずなのに、頭が、髪の毛が、服が濡れていること。痛みがないこと。寒気が強まっていくこと……。
そして、最大の疑問が目の前に現れた。
少年のすぐそばに、あの男の子しゃがみ込んだ。
無表情のまま、少年をじっと見つめている。そして、ゆっくりと人差し指を伸ばした。
少年の顔のすぐ横を、なぞる。何かを書いている。
それは、イニシャルだった。
少年はぼんやりと、ひび割れたコンクリートに染みこむその文字を見つめた。
その色が赤黒いことから、少年は疑問の一つを解決した。
男の子の指は止まらなかった。少年の周囲に小さく、黒く。無数のイニシャルを刻んでいく。それは、まるで餌に群がる蟻のようだった。
やがて少年はまた一つの疑問を解決した。
――こいつが描いたんだ。
毎日落書きを増やして、優越感を持たせた。そして、×マークをつけた。僕を怒らせ、危険な高さまで登らせて……それで……。
流れ出る血が、イニシャルを塗りつぶしていく。
その中、少年はまた一つ疑問を抱いた。
僕が死んだあと、こいつはこの犯行現場に戻るのだろうか……。




