ノーベル賞ください
「あの、ノーベル賞ください」
店内に戦慄が走る。店の自動ドアを通るなり、真っすぐにカウンターへ向かった男は、店員の女のお決まりの挨拶を遮り、そこそこ大きな声でそう言ったのだ。
「は、はい?」
戸惑う女店員。それも当然の反応だ。なぜならここはチェーンのハンバーガーショップ。ノーベル賞など、いやそもそも欲しいと言ってもらえるものではないだろうと店内にいた客は心の中でそう呟いた。
と、同時に面白がった。ドッキリ番組に人気があるように、人が戸惑う様子というのは面白いものだ。先程はギョッとしたが恐らく、自分に被害はないだろうとそう判断したのだ。
どうあしらうのかと注目が集まる中、女店員に代わり、男の店員が言った。
「お客様。ノーベル賞をお求めですか?」
「はい!」
「でしたらノルウェーの森の中へ行かれてはいかがでしょう」
男店員はニヤニヤしながらそう言った。
「いえ、ここで貰えると聞いたのです!」
彼の純粋無垢な言い方に、クスクスと店内の所々で笑い声がした。
男店員はジョークがいまいち決まらなかったのをばつが悪く思い、一瞬、顔を歪めたがまたニヤリと笑った。
「なるほど、そうでしたか。でしたらハンバーガーを店内にて百個、お召し上がりください。そうしたらノーベル賞を差し上げますよ」
「はい! じゃあハンバーガーを百個ください!」
店内は笑う者と眉を顰める者の半々だった。
頭のおかしな者をからかうというのは、特に店の者がそうするのは余りいい気がしない。少なくとも表立って笑うのは自分が意地の悪い人間だと思われる。眉を顰めた者の心理はこんなところだ。
が、面白がる者が大半であった。
豪快に笑う中年男性はいいぞと囃し立てる。
高校生グループはニヤつき、嘲笑う。
会社員の男はチラリと見ただけでクールにパソコンのキーを叩く。
始め、怪訝な顔をしていた女の二人組も場の空気に流され、フフッと笑う。
あの人、本気かなぁ? と靴を脱ぎ、席の上で立ち上がり、よく顔を見ようとする男の子、そしてその真似をしようとする妹を母親が諌める。
彼はそれらも店員のニヤつきも何も意に介すことなく百個分の代金を払うと、とりあえずハンバーガーを十個トレーの上に乗せ、席に座った。
そして食べ始めた。女店員は彼に目を向けた後、男店員を小突き、どういうつもりなのかと訊ねた。
男店員は「上手くあしらう為さ。店内で駄々をこね、騒がれたりでもしたら困るだろう。なあに、すぐに音を上げるだろうよ。せっせと作る必要もない。頃合いを見て残りは返金してやろう」としたり顔で言った。
まあ、確かに……と女店員は納得、彼を見つめる。
そして目を見開いた。彼が座る席のテーブルには丸まったハンバーガーの包み紙、それが三つ。
まさかこの短時間で三個も? それに今食べているのももう……。
店内がざわつき始めた。他の客も気づいたのだ。あの男、なかなかやるぞと。
男店員はそれでも余裕綽々。なに、ただ全速力で飛ばしているだけさ。すぐにバテるだろうよ。
しかし、男店員のその考えとは裏腹に五個目、六個目と気持ちがいいくらいに口の中に消えていく。
男店員は組んでいた手を下ろし、追加のハンバーガーを作りにかかる。
ちょうど次の十個が用意できた時、彼がカウンターまでやって来た。
そして追加のハンバーガー十個をトレーの上に乗せると席に戻り、また食べ始めた。
背丈も顔も何もかも普通の男。しかし、見事な食いっぷり。店内にいた客は手を止め彼を見つめ、またスマートフォンのカメラを向けた。
十五個目、十六、十七……二十個目。
彼は食べ終わるとまたカウンターへ。そして追加の十個を受け取り席に戻る。
先程よりもペースが速かった。ゆえにハンバーガーの作りがやや雑になってしまっていたが、彼は気にせず黙々と食べ進める。
二十四個目……二十六……二十八……。
もはや店内で食事する者は彼だけになった。無論、閉店時間。他の客が全員帰った、というわけではない。手を止め、見守っているのだ。
新たに入店した客もその異様な雰囲気に訳を誰と無しに訊ね、そして経緯を知るとおお……と感嘆の声を漏らし、彼を見つめる。
三十個目を完食。立ち上がろうとする彼だったが、次の十個は女店員が運んできた。
その顔は緊張と光栄。感情が入り混じっている。
三十二……三十六……三十八……そして四十個目。
次の追加分は二十個だった。それを運んだ女店員は何かお飲みになりますかと訊ねたが、彼は首を横に振った。
それに対し、おおっーと、どよめく客たち。
負けじと十個注文した目立ちたがり屋の客も出たが、六個目で青い顔をし、静止。そしてそれも誰も見ていなかった。
四十八……五十四……六十個目。
あっという間だった。そして追加のハンバーガー、どんと四十個。
運んできたのはあの男店員だった。
その表情は「どうだこの山は。食えるものなら食って見ろ」と言ったところ。
彼はハンバーガーを両手に持ち、淡々と食べ進める。
六十四……六十八……七十二……八十……。
あの男、本当に人間か?
実は両親がフードファイターらしい。
いや、巨人の子だってよ。
実はサイボーグなんだ。体内で高速で処理してるんだよ。
いや、胃袋が異次元と繋がっているんだ。
店内で客たちが口々に言い合う。
そして九十個目……手が止まった。準じて店内の話し声も。
さすがに限界か。店内の誰もがそう思った。
地面に膝をついたランナー。
止まったオルゴール。
倒れたヒーロー。
機能停止した巨大ロボ。
彼のその姿から連想したものは各々違うが、今、店内にいる者の心は一つになった。
「がんばれー!」
その思いを最初に声に出したのは一人の男の子。
それを皮切りにその子の母親、妹、二人組の女性客、高校生たち、会社員の男、中年男性、張り合って十個注文した男、店内にいる全員が、彼を応援し始めた。
一際大きな声を出したのは女店員。その目には涙が浮かんでいる。そして
「そうだ! お前ならやれる! やれるぞ!」
男店員が叫んだ。
偶然か否か、その瞬間、彼の咀嚼が再び始まった。
歓声が巻き起こる店内。
九十二……九十四……九十六……再び彼の手が止まると誰かが「彼に飲み物を!」と叫べばまた誰かが「いや、胃の中が却って膨れるかもしれない! 彼はあえて飲んでいないんだ!」とそれを制す。
そう、必要か不要か、限界かそうではないか、わかるのは戦っている本人、主役のみ。関わりたくてもできない。ただの群衆役に徹するしかないのだ。
だから声を出す。声援を歌を、立ち上がり拳を突き上げる。その騒ぎに何事かと集まった通行人も訳を知り、熱は伝播。声援を送り始め、渦のように。
九十七……九十八……九十九……最後の一個。
しかし、彼が俯く。その顔は青白い。
あとたった一つじゃないか。
そう思うのは当然だ。しかし、そんなの何だってそうだ。あと一歩で。そんな風に負けてきた人間がどれだけいる? 自分にも経験があるだろう。
頼む頑張ってくれ。敵を討ってくれ……。
群衆は自然と涙で頬を濡らしていた。
そして、再びの起動。
彼がその百個目のハンバーガーの包装紙を剥ぎ取り、そして……
「百個……」
群衆の呟き声が重なる。
そして巻き上がる歓声で肌が店内の窓がビリビリ震えた。
「うおおおおおおおおお! おめでとう!」
「やったな!」
「あんたすげーよ!」
「言わせてくれ! ありがとう! ありがとう!」
「あ、母さん? うん俺。ああ、元気でやってるよ。それよりさ、今、すごいもん見ちまったよ……」
「うぐっ、ひぐっあ、ありがとなぁ」
「ふぅ、まあ、俺は最初からやると思ってたよ」
皆が彼の周りに集まり、称えた。
ありがとう、ありがとう。拍手と感謝の言葉を贈る群衆。その囲いをモーゼが海を割るようにして男店員が彼に近づく。
両手で持つのはトレー。
その上には金色に輝くメダルが。
男店員は途中抜け出し、急いで近くの百円ショップで金メダルを買ってきていたのだ。そう、信じていたのだ。彼が百個完食するのを。
安っぽいメダルだがそれを指摘する野暮なものはいない。静まり返り、ただその瞬間を見届けようとする。
男店員はトレーを彼の席の机の上に置くと金メダルを持ち上げ、紐を広げる。
そして金メダルは尤も相応しい場所に、彼の首にかけられたのだった。
割れんばかりの拍手が起きた。
この世の悲鳴や苦痛。その全てを掻き消すような明るく、温かな拍手であった。
そう、彼は平和をもたらした。
これこそノーベル平和賞だ!
と、場の空気、熱に浮かされた群衆は酔いしれた。ゆえに彼の呟き、主張が拍手によって掻き消されていることに気づかなかった。
「ノーベル賞ください……ください……。ノーベル賞を……僕のノーベル賞どこ……?」
彼は称えられる中、店を出るとそのまま歩き続けた。
そして時折、通行人に訊ねる。
ノーベル賞はどこで貰えるのでしょうか、と。
無視され、嘲笑われ、あしらわれ、歩き、歩き。
やがて、意地の悪いのが指を差す。あそこで貰えるよ、と。
彼は赴く。そしてその場所でまた平和をもたらすのかもしれない。




