疎外感
――雛野くん、雛野さん、雛野、ヒナノ、ひなの……
「雛野くん?」
「あ、は、はい!」
雛野はぼんやりと眺めていた机の上の書類から顔を上げた。
瞬間、背筋が凍った。オフィス内にいる全員が雛野を見ている。
それも真顔。と、考えても見ればどうして返事をしないのだろう? とただ単に不思議がっていただけに過ぎない。ほんの数秒でまた全員、各々の業務に戻った。
新しく赴任してきた雛野の上司。名字は佐藤。その名字と同様にごく平凡な人物であり、仕事振りも普通。
最初こそは口数少なく、怖い印象だったが、親睦会後はどことなく優しい顔をするようになった気がする。雛野はそう思っていた。だが……。
「ああ、佐藤くん。ふふっ、これを」
「佐藤さんは? ああ、お昼か」
「佐藤くんはいつ戻る?」
「佐藤さーん! これお願いしまーす」
「左藤くん、これ頼めるかい?」
佐藤……。あの上司が着任してからというもの、ほとんど数ヶ月おきに職場の人が辞め、その後、新しく入って来た名字が佐藤の人たち。
これは偶然だろうか。辞める人はどの人もまるで消えるように、そしてその後連絡してもそっけない態度。
何かがあった。いや、起きている。そう思うのは変だろうか。
「雛野くん、雛野くぅん」
「あ、はい!」
名前を呼ばれるたびに、雛野はみんなから見られている気がしていた。
そう、もうこの職場で佐藤じゃないのは私だけ。
いや一人、左藤もいるけど、それはそれでイジられ、馴染んでいる。
異物。まるでそう思われているような空気感。
上司の佐藤さんは相変わらず優しいけど、事の始まりはこの人だ。まるで宇宙人の侵略。次は私の番。追い出される、いや、消されるんじゃ……。
「雛野くぅん。この写真なんだけど……」
「はい……ん?」
「実はこれ、私の息子でね。もし良かったらなんだけど今度、会ってやってくれないか?
いやぁ、ほら、私が来たばかりの時、親睦会を開いただろう?
その時の集合写真を見て、君の事を気に入ったらしくてなぁ。以前から紹介してくれと頼まれていたんだよ」
「そ、そうなんですか。まあ、構いませんけど……」
「おお、そうか! ありがとう! ありがとう!」
……つまり、これはお前も佐藤の一員になれとそういうことなのだろうか。
飛躍のし過ぎ……なのだろうか。断ればどうなるのか。私は今の名字が……いや、別に変わるのが嫌っていう訳でもないけど
いやそもそも本当に……。
と、雛野はそんな風に考えごとをしながら歩いていたせいか、帰り道、駅前で転び、鞄の中身を盛大にぶちまけてしまった。
膝をついた雛野に靴音が駆け寄る。
「あ、す、すみません……」
「大丈夫ですか? あっ」
「はい、ありが、あ。み、三田さん?」
「ああ、うん……久しぶりね雛野さん」
「無事だったんですね、良かった……」
「無事? ああ、まあ急に辞めちゃったからね。連絡もまあ、うん……まだあの職場で働いているの?」
「え、はい」
「あ、そう……まあ、貴女は気に入られてたものね」
「え?」
「……あの上司! ホント最低! ネチネチネチネチ見えないところでのパワハラにセクハラ! みんな嫌ってたわ! 見切りをつけて正解だった!」
「え、そ、そうなんですか?」
「そうよ! 貴女だけ特別扱いされてたからグルなんじゃないかと疑われてたわ。気づかなかった?」
「え、はい……」
「ま、貴女も気をつけなさい。いずれ牙を剥かれるかもしれないんだから。じゃあね」
「あ、はい……はぁ……ははは、そうよね。侵略、はははは……」
ヒールを鳴らして立ち去る、かつての先輩、三田。雛野はそのどこか晴れ晴れとした背中を眺め、転職を決意した。
夜の街。行き交う人々と聳え立つビル群。
『佐藤、佐藤をお願いします』と、どこかの選挙カーからの声が木霊していた。




