世界の亀裂
……この世界は何かがおかしい。俺がそう思うようになったのはある日、空の亀裂を目にしてからだ。
でも、その時はそこまで気にしなかった。何せそれどころじゃなかったからな。食べ物を盗んでいるところを見つかり、捕まっていたんだ。ああ、命の危機さ。
でもそのあと、俺は難を逃れた。……いや、終わりの始まりさ。俺はこともあろうか縄を解いてくれた人を殺してしまったのだ。
そして……嗚呼、何て残酷な事を。とても考えられない。報いを受けて当然だ。今はそう思う。
でも馬鹿な俺は最期の時、遠ざかる海面と日の光を見上げ、そこで初めて激しく後悔したのだ。
だが……気づくと俺はまた食い物を盗んでいた。
そう、繰り返している。死んだはずの俺が、気がつくとまたあの瞬間に戻っていたんだ。
でもどうにもならない。俺はすでに罠にかかったあと。
爺に縛り上げられ、婆に引き渡された。俺が生き残るには婆の同情を引き、拘束を解かせるしかない。
ああ、上手く行った。でも、そのまま逃げればいいものを俺の体はなぜか勝手に動いちまう。染みついているんだ。いや、運命づけられていると言った方がいい。きっと気づかないでいたけど、これまでも何度もそうしてきたんだ。
あの亀裂だ。あの亀裂が俺に気づかせたんだ。それが不幸な事かどうかは、ああ分かりたくもない。
やめろ、やめるんだ! 俺の心の叫びは声にならない。手に、脳に婆の骨を折る感覚が伝わる。
砕いて、切って、引き千切って、煮込んで。止まらない自分の蛮行にひどく吐き気がした。はははははは! そう笑っているのは鍋をかき混ぜている俺か。それともこの俺なのか。ああ、俺は気が触れちまったらしい。頭が痛い。幻聴まで聞こえてきた。
『ひどい、たぬきさん』
『おばあさん、かわいそう』
『だいじょうぶ、このあとたぬきさんもひどいめにあうから』
『くすくすくす、はやくひどいめにあってほしい』
その声たちのお望み通り、俺はウサギに嵌められ海に沈んだ。
そしてまた繰り返す。婆を殺し、その鍋を爺に食わせ、俺はウサギに火傷を負わされ唐辛子入りの味噌を背中に塗り込まれる。
そして最期は泥船と共に沈む。俺が吐いた後悔の言葉を積み上げながら、その重みで深く、暗い底に沈むんだ。
もうやめてくれ、やめてくれ。
祈っても世界の亀裂は日に日に増していく。空だけじゃない。床も。壁も。もしかしたらこの俺自身も。
ああ、そうだ。いっそ壊してくれ……。
もう聞きたくない。あの無邪気な声たちも。
『たぬきさん、しんだ』
『うさぎさん、えらい』
『たぬき、じごうじとくってやつだ』
『たぬきのやつざまあみろ』
『……たぬきさん、かわいそう。きっとはんせいしているよ?』
『そうかなぁ』
『そうだよきっと』
『ゆるしてあげようか』
『うんうん、そうだね。じゃあ、この紙芝居ももうボロボロだし、直してそれからみんなでお話を付け足しちゃおうか!』
……ああ、世界の亀裂が修復されていく。
婆は軽い怪我だけで死なずに済んだ。背中は焼かれたし、唐辛子入りの味噌も塗り込まれたが、最終的にはウサギに手を差し伸べられ、溺れずに済んだ。
土下座して謝ったら爺も許してくれた。
桃太郎だ浦島太郎だ何だか知らない奴らまで加わりどんちゃん騒ぎ。ははは。なんだか世界が滅茶苦茶だ。
でも、俺はこっちの世界のほうが好みだ。
これがきっと、めでたしめでたしってやつなんだ。




