ここがオームドランド!
僕はこの日、自分の部屋に鍵を取り付けた。
と言っても頭の部分をハンマーで曲げた釘を二つ打ちつけ、それを引っ掛け合わせただけのものだ。
内側からしか掛けることができないから外出している間、部屋の秘密を守ってくれるわけじゃない。それにその気になれば力でどうとでもなる代物だった。
それでもいくらか安心できた。突然、父さんに部屋に入って来られるのは心臓に悪い。……まあ、ルークよりはマシだろうけど。親友のことを思うと胸が痛む。
ルークの父親はこの町の大人の中で一番のクソ野郎だ。いや、一番かどうか、決めるのは難しい。大人の基準を異性とセックスした者とするならば、候補者はごまんといる。バーの横の駐車場でたむろしている連中なんかそうだ。
双子のウィリー兄弟。
イカれ野郎のジョグス。
飲酒と暴走運転がセットだと思い込んでいる馬鹿のバーティ。
他にも大勢いるけど割愛。思い浮かべるだけで胸糞悪くなるし、挙げきれない。
だってそうだろ? 雑貨店の店長のドリーは客の金を多くせしめようとするし、バーガーショップの店長は鼻糞を混ぜる。飲んだくれはゴロゴロいるし、その多くは半ケツ出して道端に痰を吐いた後、勢いでゲロを吐く。そのゲロを取り合ってネズミとカラスが争う町、それがこのオームドランドさ。
で、ルークの家はそのゲロとゲロの間にある壁が崩れたボロい家だ。親友の家をそんな風に言っちゃいけないかと思うだろうけどこの町の家はどこもそんなもんだから本人も気にしちゃいない。
ルークの部屋は二階だ。それは多分、高いところが好きな年頃の僕たちからすれば良いことだけど、父親に呼ばれるときは別だ。
彼は前に一度だけ僕に話した。雨の夜。全身濡れてたけど、彼が泣いていることはすぐにわかった。まあ、指摘しなかったけど。勿論これからも。
『俺は親父の部屋に行くのが嫌だ。
アイツに呼ばれ、部屋から出て、階段を下りて正面のドアのその向こう。
そこに行くまでにいくつもの顔が俺を見るんだ。
絵さ。祖父が描いたんだかなんだかわからないけど、知らない人物の絵。
家中の壁に飾ってもまだ余りあるからクローゼットの中にしまっているくらいだ。
で、階段を一段下りるごとにそいつらはその目で言うんだ。
「よう、今度は何した?」
「可哀想にねぇ」
「できが悪いのがいけないんだ」
ニヤニヤニヤニヤ笑ってやがるのさ。
下りたら俺はドアをノックしようと手を伸ばす。
するとそのドアの向こうから聞こえるんだ。
ビシッ、バシッってな。
そこで俺は自分が思った以上に拳を握り締めていることに気づくんだ。
背筋はピンと伸びて、足はボンドで固められたみたいに動かない。
でもノックしなきゃいけない。
夕飯は食い終わり、とっくに日は落ちているけどまだ精々、七時か八時くらいだ。
「入れ」アイツはいつもそれしか言わない。
部屋の真ん中に置いた椅子を指さし俺に座るように促す。
でも背もたれに背をつけるんじゃない。
逆の座り方さ。背もたれにしがみつくようにな。
だって今から背中を鞭で打つんだから。
あの音は腕に巻いたベルトの音。
それが事が全部終わった後でも耳から離れないのさ。あいつの息遣いも何もかも』
僕は道端のゲロを避けるように、その話には触れないようにしている。多分、ルークも話したことを、弱いところを見せたところを後悔している気がする。彼は僕をいじめっ子から守ってくれるヒーローだったから。
でもヒーローだって弱いところはあるさ。いつかそう言ってあげたいけど中々タイミングがないもんだ。
ピンチはおかまいなしに次から次へとやってくる。それがヒーローと巻き込まれる一般人の宿命。
「さっさとやりに行け」
「いけ」
そう言ってウィリー兄弟は僕らの肩を小突いた。万引きだってさ。雑誌と肉を挟んだパンを少々。
前に話した通り、雑貨店の店長、クソ野郎のドリーに何しようが良心は痛まないけど強要されるっていうのは良い気がしない。
ルークも同じ考えだ。でも歳も背丈も向こうが上。馬鹿げてるよね。こっちは来年どこのミドルスクールに通うか悩んでいるというのにコイツらは悩む脳みそもなさそうだ。それが幸せなのかもね。
子供の方が悩みが多いのはこの町の特色かもしれない。町長に提案してみようか。こう宣伝しなよって。
『子供が歪む町! オームドランドへようこそ! クソ親クソ大人大歓迎!』
「何をボケッとしてんだ?」
「してんだぁ?」
我に返り、目の前の悩み種、いや唐変木と再び直面。行くしかないか。金を払ってレシートは握りつぶそう。まあコイツらはレシートそのものを知らないかもしれないけど。
さあ、行こうルーク。殴られないうちに。どうせ行くことになるなら、こうしているだけ時間が損だ。ルーク……ルーク?
「……断る」
二人がパヒャッなんて噴き出し、笑いだした。
そして下卑た顔で言った。
「お前のお隣のお坊ちゃんは知ってるのか? お前がてめえの親父のナ――」
コイツらは暴力を振るうことに何の抵抗もない。でもまさか自分が振るわれるとは思っていなかった様だ。
ルークはまず、ウィリー弟の玉を蹴り上げた。おぅ……と呻き声を上げ股間を押さえて前かがみに。すかさずルークが渾身の右ストレートを顔面にお見舞いした……かはわからない。
見えなかった。僕がウィリー兄に殴られたからだ。奴がルークを殴ろうとしたのをかばった結果だ。
で、その後どうしたか?
後悔はしていない。
二人、ボコボコにされても全然へっちゃらだ。不潔な路地裏から曇った空を見上げ、この町は晴れていたことがあったか? なんて僕はぼんやりと思った。
「悪いな……」
「別にいいさ。突然の雨に降られたようなもんだ」
今日が無事でも明日は殴られていたかもしれない。アイツらの機嫌次第だ。
それでも申し訳なさそうにするルーク。それをいいことに僕は彼に何か歌ってと、ねだった。
ルークは嫌そうにしたが、聞きたいから仕方がない。彼の歌声は最高だ。声変わりはまだで、水のように透明で煌びやかなんだ。
それがコンプレックスだとルークは言うけど、でも歌うのは嫌いじゃないはずだ。
昔、一度だけ、ルークが聖歌隊の中で歌うのを見た。その時から僕は彼の歌声に惚れているのさ。
ルークが歌いだすと風が吹き、それがその辺に転がっているゴミの臭いをこっちに引き寄せたはずなのに、不思議と花の香りがした。
まあ、血で鼻が詰まっているから錯覚だろうけど、いいんだ。なんであれ。このクソみたいな町でここは唯一綺麗な場所だ。
歌い終えたルークに拍手を送り、肩を殴られた後、僕は彼にまた部屋で一緒に勉強しようと誘った。受験勉強。この町の外のミドルスクールに合格できる学力を身に着けるための勉強会。
もう何度か行っているのに、ルークは勉強と聞いて嫌そうな顔する。
でも、成績がそんなに悪くないことは知っている。地頭も良いし、学ぶことは嫌いじゃないんだろう。ただこの町がそれを、賢くなることを許さないだけだ。
ルークはだからこそ反抗する。町にも大人にも。
結局、まあやるかと僕らは立ち上がった。
家に帰るとルークを廊下に待たせ、先に部屋まで向かう。念のため、部屋のチェックだ。途端、心臓を強く突かれたように体が揺れ、目眩がした。
閉めたはずのドアが開けっ放しになっていた。
クローゼットも。
廊下に戻り、ルークに歩み寄る僕はどんな顔をしていただろう。多分、ルークがクソ親父に呼ばれた時と同じ顔だろう。
「ちょっと来い」
家の奥からした父さんのその声に僕よりもルークがビクリと反応した。彼の頭の中に今どんな記憶が蘇っているのか想像すると吐き気が込み上げてきた。
もう一度同じことを言われないようにと足早に向かう。
リビングルームのドアを開けると、父さんが椅子に座り、リビングテーブルに肘をついていた。
「これはなんだ?」
父さんはルークが僕のあとに続き、リビングルームに入るのを目にすると顔を顰め、そして歯を食いしばった。
テーブルの上には僕の雑誌があった。
僕が集めた。隠しておきたかったもの。
見られたくなかった。誰にも。ルークにも。
父さんは怒鳴り散らした。取り憑かれたように僕を、僕らを罵った。ゲイだのホモだの不浄、不潔、異常。どの言葉にもクソを添えるのを忘れずに。よくもまあ、あんなに単語を知っていたと思うくらいに。
僕は妙なことに、一歩引いたところから怒鳴られている自分を見ているような感覚がしていた。
散々、唾と汚い言葉を吐き散らすと父さんは息を切らし、顔を真っ赤にしながら僕らを見つめた。
何も言わずにいると父さんはルークに帰りなさいと静かな声で言い、ルークは出て行った。
僕も自分の部屋に入り、そしてドアを閉めると泣いた。
釘はやっぱり秘密を守っちゃくれなかった。
秘密を守るのは人だ。
そして守り切れなかったのは僕だ。
ルークとは翌日会った。川で釣りをしたり自転車でアクロバットに挑んだり変わらず遊んだ。それから勉強もした。クソな町と親から離れるために。
代わり映えのない毎日だけど少しずつ進んでいる気がしていた。
ウィリー兄弟にはまたボコられ、ボコられ一回、僕らが勝ち、炭酸飲料で乾杯。
で、翌週なかったかのように、またボコられルークは親父に鞭で打たれ、僕は懲りずに町のゴミ箱から雑誌を集める。
ああ、痛快な話はないんだ。何もね。これはそんな話じゃない。
ウィリー兄弟に勝った話を詳しくしても良いけど一回だけの勝利に縋るのも、年寄りみたいだろ? ウィリー兄弟相手に限らず、僕らはこれから何度も勝ち、何度も負けるんだから。
大事に棚に飾って磨くのはまだ早い。
それでも欲しいっていうならそうだな……。
僕がある時、ルークの親父に会った話をしようか。
あの時の僕はどうかしてた。お気に入りの雑誌が父さんに見つかったあと、命令され、自分の手で庭で燃やした日のことだったからね。
目に染みこんだ煙がいつまでも痛くて、僕は涙しながら町をぶらついていた。
そんな時だ。ルークの親父の背中を見つけたのは。
薄汚れた五分丈の白いTシャツ。サスペンダー付きの黒いズボン、そのサスペンダーの片側はしておらず、ぶらんぶらん揺れている。道路のように真ん中にだけ毛が無い禿げ頭。そして尻の谷の端が見えていた。
うん、このクソ町の平均的なクソ大人だ。よく後ろ姿だけでそれだと気づいた自分に驚きだ。歩き方がルークと似ていたからかもしれないなんてこれもルークに言えないな。
そう、言えない。そのあとにしたことも。
あの瞬間の僕は多分、人よりも動物に近かったと思う。縄張りや、雌を取り合う動物と。
僕は道に転がるボロい傘を拾うと、ルークの親父目掛けて突進した。
ぶち当たった瞬間に、もっとうまいやり方があったかもって背筋が凍った。なにせ相手はクソ大人のクソデブだからね。僕の力じゃ不意打ちでも倒せない、そう思った。
でも持っていた傘が上手い事、ルークの親父の股の間から入り、奴は足を取られ顔から転んだんだ。
ルークの親父が立ち上がろうとする。ここも運が良かった。あいつはまず尻を突き上げたんだ。
ズボンがスルスルっと下がり、悪夢のトンネルが顔を出そうとしていた。
僕は目を背けることなく、むしろがばっとズボンを下ろしてやった。
そして持っていた傘の先っぽを……はははっ。どう? ちょっと痛快だろう? 痛すぎ?
そのまま叫び声を上げる口まで傘が貫通して豚の丸焼きみたいになったっていうのはやりすぎかな? 嘘嘘。
でもあいつが叫び声を上げたのは本当。すごいもんだったよ。何だ何だと、通行人や店、家の人が僕らに目を向けていることがわかった。でも遠目だ。その全容は分かっちゃいないだろう。
だから僕はあいつにまず「叫ぶな!」と言って尻を蹴ってやった。んで、こう言った。
「もしこのことを誰かに話してほしくなかったら、ルークと仲悪くするな。
いいか? 仲良くする必要はない。でも仲悪くするな。意味わかるか? 構うなってことだ」
僕があいつの尻の穴に傘をさらにグリンとねじ込むと、あいつは叫びながら頷いた。攻められることに弱い奴ほど人を攻めるんだ。僕はその時そう思った。
まあ、ウィリー兄弟は別だけど。例外はある……うん、たくさん。
その後、実際にあいつがルークに構わなくなったかは知らない。ただあのクソデブ親父がルークにこのことを話し、鬱憤を晴らすんじゃないかと僕は夜、ベッドの中で怯えたけど翌日のルークの様子は変わらなかったから多分、大丈夫だったんだろう。
そして時は流れ、僕らは同じミドルスクールに進んだ。
レベルはさほど高いところじゃないし、嫌な奴もいるだろうけどクソ町の外だ。つまり楽園さ。
まあ、お互い寮のある学校に入れてくれるほど金に余裕がある家じゃないから帰る場所はあの町だけど、それが現実。
でも放課後に後ろから殴られる心配はしなくて済むのは助かる。それにここの清らかな匂いを纏って帰れば余所者、お客様扱い。そう、聖者の墓土を身に塗すようにこれが意外とあのクソ悪魔共を除けるのに効果がある……気がする。
と、言葉遣いも変えなきゃね。うん、それが大事。第一歩だ。『クソ』は禁止。クソ禁句だ。今のはクソセーフ。クソ最後だからね。行儀よくしてれば、ここでいい思い出がクソいっぱいできるさ。
そうそう。入学初日、ルークと二人で学校の中を探検していると体育館で休憩中のチア部の子がこっちを向いた。
その顔が何だか眩しくて僕は目を逸らした後、また振り返ったけど彼女はこっちを向いてはいなかった。どうやら演技の一環だったらしい。
僕とルークは目が合うとハッと顔を見合わせ笑った。お互いが彼女が自分に微笑んだと思ったんだ。ひとしきり笑ったあと、また歩いた。
それからルークは合唱部に入った。
僕はボードゲーム部に。
今じゃ別々のグループに属し、遊ぶことはなくなったけど、多分、きっとそんなもんだ。
僕の秘密は保たれたまま。
ルークの秘密も。
それはきっとまたいつか二人で笑い合う日が来るってことだって僕は信じているんだ。




