苦悩のバス
その青年はゆらりゆらゆらバスに揺られていた。
乗客は彼含めて四人。物静かで平和な空間。
お爺さんに、会社員風の男性。それと……。
青年はその女性と目が合うと、慌てて窓の外に目を向けた。
――綺麗な人だったな。
窓から差し込む穏やかな日の光が眠気を誘う。
青年は目を閉じ、瞼の裏の女性の残像を連れて
夢の世界へ足を踏み入れ……ようとしたところで次のバス停に着いた。
一、二、三、四、五人。
青年は乗ってくる人たちを無意識に目で追い、数える。
彼らは各々、席に座った。大人しそうな人たち。特にこれといった特徴もない。
青年は興味を無くし、再び窓の外に目を向ける。小鳥が二羽、外を飛んでいる。
夫婦だろうか。それとも兄弟?
青年は、仲良さげに飛ぶ小鳥をしばらく観察する。
小鳥たちがバスから離れた後も窓の向こうの野原に目を向けたまま、しばしそのまま。
……バスが発車しない。運転手は何を?
そう思った青年が運転席に目を向けた時だった。
『お降りの方、お早めにお願いします』
車内放送だ。でも、降りる客?
青年は辺りを見回したが誰も席を立とうとはしていなかった。
寝ているのか顔を伏せている人が何人かいる。彼らの中のどれかだろうか。
『お降りの方! 早く!』
バスの運転手の怒り混じりの催促に青年含め、乗客はビクリと体を震わせた。
何もそんなに怒らなくても……。
青年は自分が怒鳴られた気分になり、頭を掻いた。すると
「嫌だ、嫌だ……」
青年の後ろの席からの声。ちらと見るとお爺さんがブルブル震えているではないか。
一体どうしたのだろうか。何かの発作?
心配した青年が声をかけようとしたその時だった。
『早く降りろ! おい! 降りろよ!』
もはや完全な怒号。バスの窓がビリビリと震えた。
一体、どういうわけなのだろうか。
そんなに誰か降ろしたいのなら、居心地も悪いし自分が……。
と青年が腰を浮かせたとき、バタバタと席から
三人の男女が立ち上がり、バスを降りて行った。
あのお爺さんもそこに含まれていた。降り際、青年と目が合う。
その表情はまるで……と、青年が思った時ドアが閉まった。
再び走り出したバスだったがその車内は先程と打って変わって
重苦しい空気に包まれていた。
息苦しさに青年がため息をいくつかついている間に次のバス停に到着。
今度は六人乗って来た。各々席着いたが……
――やっぱりまたか。
青年が思った通り、バスは発車しない。
そしてバスの運転手より、例の車内放送が流れる。
降りる乗客は……。
青年はまた車内を見渡すが見受けられない。
スピーカーから流れるノイズが針で刺されるように痛い。
『……おい、八人だ。八人降りろ』
バスの運転手の冷酷さを匂わせる物言い。
しかし、青年は思わず笑いそうになり、堪えた。
八人だって? 元々乗っていたのが六人。
それだと今乗ったばかりの人もここで降りることになるじゃないか!
何かのルーティーンか? 人数制限? 宗教? 単に運転手の頭がおかしいのか?
青年は理由を考えるも、そうのんびりはしていられなかった。
運転手が立ち上がり、通路に出たのだ。
右手に拳銃を持って。
「俺に撃たせるなよ。とっとと決めろ」
運転手はそう言い放った。まるで人を人と見ていないような、冷たい目をしていた。
こうなってはむしろ降りたい。そう思った青年は腰を浮かせた。
が、ふとある思いが頭によぎり、座席にまた尻をつけた。
その間、運転手に銃を向けられ、怯えながら立ち上がりバスから降りていく乗客。
その人数は七人。あと一人だ。
青年は窓の外に目を向けた。
――今、降りた人たちはどこに消えた?
外には遮蔽物などない。野原に花咲く穏やかな風景。思えばさっきもそうだった。
走り出したバスが降りた乗客を追い越していくはずが姿がなかった。
消えた? なぜ? だからみんな渋っているのか?
さっき見せたあの老人の顔。やっぱりあれは死出の旅路につくような……。
一体、何が起きて、いや何が起きるんだ?
「降りろ。お前だ」
青年は窓からバッと目を離し、振り向いた。
銃口。その先の瞳が言う。お前はごちゃごちゃ考える必要ない、と。
「……だ」
「何だ? 早く降りろ」
「いや、嫌だ!」
青年は叫んだ。死。自分の中にある根源的な感情。
死の恐怖が青年を駆り立てた。
矛盾。目の前、ものの十数センチの距離に脅威があるというのに
バスを降りることを拒絶したのだ。
「秩序なんだ……何よりも……大事なんだ……はやくはやくはやく」
そう呟く運転手。青ざめた顔、激しい貧乏ゆすり。
この男は完全にイカれていると青年は思った。
次いで、青年はその指が引き金に伸びるのを見た。
今ならまだ抵抗、奪えるかもわからない。
手が安定していないように見えるのは体の震えのせいか。
それともそれが利き手ではないからか。そう思った。
だが、青年は立ち上がらなかった。
いや、立ち上がれなかった。腰が抜けていたのだ。
「私が降ります!」
そう声を上げたのはあの女性だった。
女性は席から立ち上がり、通路に出ると、一瞬だけ青年を物悲しげな眼で見た。
そして顔を背け、バスを降りて行った。
運転手はそれを見届けると、のしのしと運転席へと戻った。
「ま、待って!」
込み上げる後悔に背を押され、膝を折りながら
席から飛び出した青年はバスのドアに向かった。
だが、ドアはあと一歩のところで閉められた。
「おり、降ります! 降ろしたいんでしょう!? なあ!」
『バス発車しまーす。お降りの方は次のバス停でどうぞー』
「ふざけるなよ! 降ろせ! 降ろせよ!
何なんだよ! クソッ! 窓からでも降――」
「無意味だ。何もかも……」
青年に再び向けられた左手の銃口。青年は手を伸ばしそれを――
【問題です。あなたはバスの運転手です。
バスに四人のっていました。
初めのバスていで五人のって、三人おりました。
次のバスていで六人のって、八人おりました。
さて、バスの運転手は右利き? それとも左利き?】




