騒音の理由
「あなた、おかえりなさい、ねえ、また今日もなのよ。
帰り、気がつかなかった? 何か聞こえたでしょ?」
「さぁーなぁー、隣と言っても帰り道のほうじゃないからなぁ」
「ちょっと足伸ばすだけじゃない。様子見に行ってって言ったのに……」
「仕事で疲れてるからなぁ……」
勘弁してくれよ。夫がそのボヤきを耳にし、美紀は押し黙った。
会話はそこで終わったが脳内で言葉が付け足されていく。
『帰ってきて早々やめてくれよ』『毎日毎日さぁ』
『お前がここに家を建てると決めたんだろ?』
念願のマイホーム……に住み始めたばかりだというのに
美紀は後悔の念に苛まれていた。
現地見学し、ここに家を建てると決めた時には気がつかなかったのだ。
まさかその隣がいわゆる騒音おばさんの家だとは……。
たまたま静かだったのか、それとも工事の最中に引っ越してきたのか
……わかったところで何の慰めにもならない。
家が完成し引っ越しを終えた時、初めて気がついたのだ。
そのリビングの壁の向こう、キッチンの換気扇の奥から聞こえるくぐもった音に。
さらに近隣住民への挨拶回り、その記憶をよく掘り起こせば彼ら
『え、ここに住むの? まあいいけど、そこ、隣、うるさいよ?』
という顔をしていたような気もする。
問題の家の家主とは会えなかった。
居留守を使われたのかそれとも音で聞こえなかったのか。
夫と二人、苦笑いしてすごすご家に戻った。
【青田家】問題の二階建て一軒家。中年の女性の一人暮らし。
日中、家の中で大音量でラジオか何かをずっと流しており
専業主婦の美紀には強いストレスとなっている。
大音量と言っても、こちらもまたテレビなどを点ければ気にはならない程度で
しかし、静かに本を読もうなどすれば、途端、蚊の羽音の如く、気になる不快音。
それゆえに対処が悩ましいのだ。警察を呼ぶには少々理由として弱い。
さすがに夜は静かだがそれゆえ、旦那に相談しても本気で取り合ってくれない。
いや、たまに夜もうるさい。歌声のようなものが聴こえたことがある。
しかし、旦那は仕事の疲れからか、美紀が揺り起こそうとしても無駄で
耳栓をすれば? と寝言のように漏らすだけ。
こっちには何の落ち度もないのに耳栓をするなんて……と美紀は顔を顰める。
しかし、この場所に家を建てることを強く推したのは自分だ。
余りしつこく文句を言えば、旦那からそう反撃にあう。
美紀はそれを理解していた。ゆえにため息が途切れない毎日が続いた。
「……あっ」
ある日、近所のスーパーに買い物に来ていた美紀はそう声を漏らし
慌てて棚の陰に隠れた。
「青田さん、青田……」
美紀の目が憎悪でギラッと光るその先、青田さんが
100円均一コーナーで物色していた。
美紀は隠れたまま様子を窺う。
思えば朝のゴミ出しの際、たまたま顔を合わせることぐらいで
会話もなにもなかった。前述の通り、引っ越しの挨拶の際は会えなかった。
歳は自分より一回り、いや二回りくらい上だろうかわからない。
光の加減だろうか髪と肌に艶があるように見える。
何なら自分は最近、ストレスで老けた気がするのに。と、美紀は自嘲気味に笑う。
近隣住民に会った際、さり気なく青田さんについての
情報収集と騒音について話した事から
ある程度は青田さんについて知っているつもりだったが
「子供のおもちゃ……? いないでしょ。何見てんのよ……」
と、お風呂に浮かべて遊ぶ子供のおもちゃを手に取り見つめる青田さんを見て
そう悪態をつく美紀。彼女の一挙一動が嫌い。自覚はないが騒音とは人の心を歪める。
美紀は以前から何度も注意しに行こうとしていた。
青田さんの家は窓とカーテン、時には雨戸も閉まっているが古い一軒家だ。
その気密性、防音性はたかが知れる。
とは言え、窓が閉まっている以上、配慮はしているとも言える。
文句を言えばこちらがクレーマー扱いされるのでは。
いや、そもそも頭のおかしな人で、文句を言った途端
余計に音を大きくされる可能性もある。
こうして観察すると、まあ普通の人に見えるが
苦情を言う、つまり敵だと認定された途端、豹変するタイプかもしれない。
マイホームを購入、美紀がそれをきっけに辞めた職場にもそういうタイプがいて
人間関係に神経をすり減らしたものだ。
その時のトラウマもあり、一歩を踏み出せず、結局隠れたままやり過ごすに終わった。
しかし、音からは隠れられない。
毎日のこの微妙な騒音。ストレスは溜まるばかり。
――これ、この先一生続くの……?
春も夏も秋も冬も。朝、時には夜も少し。窓を開ければさらに顕著に。
ムラがあり、窓を閉めていても無視できない存在感を表す時も。
春が運ぶお日様の匂い、秋の夜風を肌で感じようとすれば撫でる音。
心臓のリズムを狂わすあの音。脳をグチャグチャにかき回すような音。
無理だ。無理無理無理……。
そして騒音がより酷いある日。美紀はついに決心し、立ち上がった。
――ひとこと言ってやる。
こうして、家に近づくとその音で肌がビリビリ震えるほどだ。
生活音や常識からは大きく外れている。
警察と夫をこの場に呼び、聞かせてやりたいくらいだ。
自分が今までどれほど苦痛を味わって来たかを一緒に。
しかし、これから堂々と文句を言ってやると思うと
何なら言い逃れできないよう、もっと音を上げてくれて構わないとも
思えてくるから不思議だ。
美紀は笑い、青田家のインターホンに手を伸ばした。
これで悪い方向に転じるのなら……もう、戦争だ、とそう思いながら。
しかし……。
「あら、どうしたの?」
ボタンに指が触れた瞬間、背後から声がし、美紀は振り向いた。
「あ、あなたは……」
そこにいたのは青田家の隣の家の奥さん、真下さんだった。
つまりは美紀と同じく騒音の被害者。
少し息が荒い。それにサンダルだ。もしかしたら窓から見ていたのかもしれない。
険しい顔でこの青田家を睨む美紀を目にし、とうとう文句を言いに行くのだと判断
自分も加勢にと思い慌てて出てきたのでは。
そう考えた美紀は困ったような笑みを浮かべ
「ちょっと、さすがにうるさすぎますよね……」と家を指さした。
同意と頼もしい味方を得られると思った。
それだけにその意外な反応に美紀は驚いた。
「ええ、青田さんねぇ……。でもまあ、その、あなたは新参者なわけだし……
ちょっと我慢してもいいんじゃないかしら?」
「……はい?」
これはどういうことだろうか? 私の身を案じてくれている?
青田さんは実はこの町の権力者と繋がりが? それとも暴力団と?
いや、やっぱりシンプルに頭のおかしい人間なのだろう。
そうに決まっている。この音。音音音音音。
当然だ。まともな神経してたらこんな騒音出せるはずがない。
そうだそうだ。ああ、音音音音音音音。うるさいうるさいうるさい……。
「……ありがとうございます。でも大丈夫。もう、やってやりますから」
「え、え? いや、あのね……」
「あはっ! だいじょーぶだいじょーぶ! 任せてくださいよぉ!」
ケラケラ笑い、勢いづいた美紀はインターホンを押した。
……だが反応がない。中がうるさすぎて聞こえないのかもしれない。
美紀は何度かボタンを押し、貧乏ゆすりしながら待ったが出てこない。
やがて痺れを切らした美紀はさらにドアをノックし、取っ手を引っ張った。
「ああ、そんな、ちょっと駄目よ!」
「放してください! 私がびしっと文句を言ってやりますから!
ねぇ! ほら! いるんでしょ! 開けなさいよ!
こっちはストレスでおかしくなりそうなのよ! やってやるわよ! あああぁぁぁう!」
咆え、激しくドアをノックする美紀。
真下さんに羽交い絞めにされると今度はドアに蹴りを入れた。
すると……
「あの……何か?」
「何かじゃぁないわよぉ……」
美紀は髪を振り乱し、獰猛な犬のように歯を食いしばった。
前髪が目にかかり、相手の姿が良く見えない。
だが、目を見開くと美紀の中で確かな殺意が芽生えた。
青田さんは耳にヘッドホンをしていたのだ。
この大音量を流しておきながら
自分はヘッドホンで別の音楽か何かを聴いていた?
……殺す。殺す殺す殺す。絞め殺す。
「青田さぁぁん……あっ! この!」
美紀のその形相に委縮したのか、ドアが少し閉じられた。
それを見た美紀は中に逃げられると思ったのか
真下さんの腕を振り解き、ドアに飛び掛かった。
「な、何ですか、あなた!」
「逃がさないわよぉあおたぁ……何ですかですってぇぇこの音、音! 音!
おとぉぉぉぉおぉぉ! うるさ――」
そこで美紀は言葉に詰まった。ラジオか何かの声の中に
まるで聖歌隊の少女のような歌声が混じっていることに気づいたのだ。
憑きものが落ち、穏やかな顔、トロンとした目になる美紀。
しかし、唇を噛み、青田さんをキッと睨む。
再び歯を剥き出し顔を紅潮させ、凄まじい形相。掴みかかろうと手を伸ばした。
その時、青田さんが口を開いた。
「この音……ですよね。わかりました。どうぞ、お入りください」
「いいの? 青田さん……」
「ええ、真下さん。いつかは話さなければと思っていましたから」
「はぁなぁしぃ……?」
「さっきから怖いわよアナタ……。ほら、一緒に中に入るわよ。
青田さん、あれある? ああそれそれ、ほらつけて、さ、早く。聴かないように」
「おとぉ……おとおとおとぉ……オトォォヴォオオオオオ!」
「何なのホント……」
美紀は渡されたヘッドホンと耳栓をつけ
真下さんと共に青田さんの後に続いて家の中を進んだ。
どういうつもりなのだろうか? この二人の関係は?
そう訊ねようとしたが行き先が家の地下室であったことに息を呑み
そしてそこで目の当たりにしたもので疑問は上書きされた。
美紀が絞るように出したのはただ一言
「子供……?」
案内された部屋には大きな水槽と冷蔵庫が置かれていた。
その中には子供。しかし、よく見るとその下半身はまるで魚のような鱗と尾びれだった。
「に、人魚……?」
そう呟く美紀の前にメモ帳が差し出された。
筆談だと美紀は察した。紙にはこう書かれていた。
【この子は見ての通り、人魚です。浜辺で偶然見つけ、ここで育てているんです】
【何のために?】
美紀がそう書くと青田さんは冷蔵庫を指さした。
美紀が近づき、冷蔵庫を開けるとそこには輸血パックが入っていた。
【人魚の肉には不老不死の効果があると言われているのはご存じですか?
ですが、あくまで伝説の話。どこまでが本当かはわからない。
それにどの程度食べればいいのか。
また、定期的に食べなければならないのかわからないことばかり。
それにこの子はまだ子供。効力が弱いかもしれない。
だから、育てながら研究しているんです。
そして、その過程で一つ、確かなことが分かったんです】
【それはなに?】
【その血には肌を若返らせる効果があると】
そう書いた青田さんは手を頬に当てた。確かに瑞々しい。それにまさか……
【真下さんも?】
【はい。この家の周りの家の奥様方全員にこの血を定期的にお渡ししています。
ご迷惑をおかけしているわけですから。何せこの騒音……。でも仕方ないんです。
人魚の歌声には催眠効果があるらしくて油断すると操られかねないんです】
【口を塞ぐとか】
【駄目なんです。ストレスがたまるのか弱ってしまうんです。
死なれでもしたら……夜は眠っているんですが
それでも時々目を覚まして歌うので……本当にごめんなさい】
美紀は全てを理解した。騒音の理由、真下さんが引き留めたのも
この秘密を守るため。
美紀が水槽に近づき、見下ろすと人魚の子供は首を傾げながら可愛らしく笑った。
「なぁ……確かにお前の言う通り、隣、うるさくないか……?」
「んー? そうかしらねぇ……」
「そうかしらって……なんか、ご機嫌だな」
「そうかしらねぇ、ふふっ」
「いや、うん、まあ……あ、俺ちょっと行ってこようかな。ビシッとさ」
「ブウゥゥヴァアアアアジイイイイオオオオォォォォ!」
「うおっ! なに!?」
「デスメタルよ。最近、ハマってるの」
「そ、そうなんだ、全然知らなかったよ……」
「あまりガタガタ言ってると一晩中歌ってやるわよヴォヴォオヴォヴォヴォォォォォォォ!」
「わかった、わかったよ、悪魔崇拝者かよその動き……」
夜、リビングにて美紀はグラスの中身をグッと飲み干すと
余すことなく染み渡らせるように口をモゴモゴと動かし、そして脳を震わせた。
もう騒音に不快感はなかった。舌を鳴らし、音を添えた。




