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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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怒り、天を衝く       :約2500文字

 夕方なのになんという暑さだ……。おのれ残暑め。

 おれはやり場のない苛立ちを抱えながら、帰路についていた。シャッターだらけの商店街。活気のなさが、むしろ湿気を際立たせている。

 ふと、ショーウィンドウが目についた。映り込んだ自分の顔を見て、思わずぎょっとする。

 憎しみがそのまま張りついたような表情だった。こんな顔で歩いていたら、不審がられるかもしれない。真顔に戻そうとするが、しかし、まとわりつく蒸し暑さにまたすぐに顔が歪む。

 駄目だ、どこかで涼もう。確かこの先に喫茶店が――。


「だ・か・らっ! なあーにしてくれてんだよ!」


 突然、怒鳴り声が響いた。中年の男だ。喫茶店の隣にある電気屋の店員を怒鳴りつけている。

 珍しいな。いや、店員にキレる人はいるかもしれないが、ここまで顔を真っ赤にして怒鳴り散らす人間は初めて見た。

 他の通行人も足を止め、心配そうに、あるいは物珍しげに様子を窺っている。

 電気屋の店員のエプロンには、可愛らしいフォントで店名が書かれていたが、今はそれが妙に痛々しく見えた。

 手には柄杓を持っている。打ち水の際に、誤って男の服に水をかけたのかもしれない。男が着ているグレーのポロシャツが湿っている。汗のようにも見えるが、まあどうでもいい。関わらないほうがいいだろう。こんな暑いときに、わざわざ火に飛び込む気はしない。

 ……ん? なんだ? 

 どうしたのだろうか。男が急に黙った。


「……もういい」


 さっきまでの剣幕が嘘のように、すんと表情を落ち着かせ、頭を掻きながらそのまま立ち去った。怒鳴られていた店員も首をかしげていた。

 なんだったんだ。気になるが、わざわざ男を追いかけて問い詰めるほどのことでもない。

 通行人たちも疑問を残しつつ、再び歩き出した。おれもそれに倣った。


「ああああぁぁぁぁううううぅぅぅ!」


 ……おいおい、なんだ? 

 今度は子供が叫び出した。母親に向かって抗議するように、地団駄を踏んでいる。

 しかし、妙だ。この親子はさっきの野次馬の中にいた。この短時間で、母親が子供の逆鱗に触れるようなことをしたとは思えない。やはりそうだ。母親自身も困惑した表情でおろおろしている。

 いったい何が……と思っていたら、まただ。子供の顔が、先ほどの男と同じように、すんと落ち着いた。

 さっきまでの怒りが嘘のように消え、まるで「自分はどうしてあんなに怒っていたのだろう」というように、首をかしげている。

 周囲の通行人も戸惑いながら再び歩いていった。

 だが……理由がわかったかもしれない。

 あいつだ。あの虫。

 たぶんそうだ。子供が急に落ち着く直前、背中から小さな虫のようなものが飛び跳ね、去っていったのだ。

 もしかすると、さっきの男もあれに取りつかれていたのではないか?

 バッタのように、ぴょんぴょん飛び跳ねている。

 おれは虫のあとを追った。


 虫の行く手には、二人組の主婦がいた。楽しげに嬌声を響かせながら、立ち話中だ。

 お……? 虫が引っついたぞ。

 お、おお……やはり、みるみるうちに主婦の顔が赤くなり……。


「う、うおおおおおおああああああ!」


 怒り出した。

 一瞬、何かと思ったが、ああ、怒り出したぞ。怒鳴り散らし、罵詈雑言の嵐。まるで犬、鬼、武士、殿。ご乱心、ご乱心。

 相当鬱憤が溜まっていたのか? この場に留まることすら恐ろしいが、おれの仮説が正しければ、この虫を摘まみ取れば……。


「……あら? あらあら?」


 思ったとおり、怒りはふっと消えた。

 やはり、こいつが原因だったのか。枯れた笹の葉のような色をした体。バッタによく似ているが、頭部が三角形。新種の虫かもしれない。

 虫はバタバタと足を動かしている。逃げようとしているのだが、怒っているようにも見える。

 どうやら、この虫は取りついた人間の怒りの感情を引き出すらしい。


「なんなのよ! もう一回言ってみなさいよ!」

「う、うるさいわね!」


 結局、主婦たちは喧嘩を始めた。

 おれはそっとその場を離れ、別の獲物を探し始めた。

 気になったのだ。もともと怒っている人間に付けたら、どうなるのか?

 お、いいぞ。商店街の入り口のほうから怒鳴り声がする。

 おれは引き返し、声のするほうへと向かった。

 いた。コンビニの前。老人が若い店員に怒鳴り散らしている。理由などどうでもいい。たぶん、クレーマーだろう。しめしめ……さあ、虫をつけた。どうなる……?


 お?


 これは、どういうことだ? 老人の顔から怒りがすっと消えてしまった。

 なぜだ? 仮説が間違っていたのか?

 虫は老人の背中にぴたりと張りつき、動こうとしない。死んだわけでもなさそうだが……いや、待て。

 背中が……割れた?


「うお!」


 おれは思わず仰け反った。割れた背中の中から、羽の生えた虫が勢いよく飛び出したのだ。

 なるほど、成虫になったというわけか。おそらく、あの虫は人間の怒りを養分にしていたのだろう。十分に溜まり、羽化したのだ。

 眺めていると、虫がおれの肩にとまった。

 どうした? お礼でも言っているのか? かわいいなこの虫けらが「汚ねえだろ糞でもつけやがったら殺すぞああああああああ!」

 ……と、おお、ははは、すごい。怒りがみるみる湧いてきた。全身を熱い苛立ちが駆け巡ったのだ。

 虫はおれの体から離れると、再び宙を舞い、おれの周りを一回り旋回したあと、飛び去った。

 その茜色の体は、赤とんぼに似ていた。

 どこか秋を想起させ、おれの心をほんの少しだけ涼しげにしたのだった。


 それに、声を出したのもよかった。たまには怒りを吐き出すのも必要なことなのかもしれない。

 これならもう、喫茶店に寄らなくていいな……ん、なんだ? 

 ふと、喫茶店のほうに目を向けると、電気屋の前に人だかりができていた。

 また誰か怒っているのか? 

 そう思い、近づいたがどうも違うみたいだ。みんな、テレビを見ている。

 ニュース速報?

 おれは背伸びして画面を覗き込んだ。

 映っていたのは――あの虫だった。それも、大群。まるで蝗害のように、一斉に空を覆いつくしながら進行している。

 怖気が走った次の瞬間、画面に地図が映し出された。

 虫たちの進路――その先にあるのは休火山だった。

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