居心地
「いい夜だなぁ……」
カウンター席が五つのみの小さな居酒屋。端っこの席に座ったその男はそう言った。
独り言にしては大きかったのと、たまたま彼らの会話の合間に
ポンと出た言葉だったので他の席に座る四人はその男に目を向けた。
その視線に気づいた男は恥ずかしそうに微笑んだ。
「いやぁ、すみません。つい気分が良くなってしまって」
頬を掻く男を見て店主含む全員が笑った。
「はっはっは! わかるよ。ようやく残暑が終わり涼しくなったんだ」
「そうそう、酒飲んだ後の夜道の夜風が最高なんだ」
二人の男がそう言ったが、その男は何か言いたげに口をもごもごさせた。
「もしかしてアンタ、何か良い事でもあったのか?
話してくれよ。この店に来た記念にさ」
一人の男がその男の表情から察し、そう言った。
他の者たちもおうおう話せ話せと囃し立てた結果
男は少し長くはなりますが……と前置きし、話し始めた。
「実は私、この前、大失恋をしましてね……結婚を考え
指輪まで渡した相手なんですけど、ええ、その彼女は
元カレとちょくちょく会ってたみたいで……。
まあ、そういうわけで血の気が失せたように歩くことさえままならないほどに
落ち込んでしまい家にこもりきり。
それでもまあ、ははは、何とか生きてたんですけど
食料もなくなり、どうにもつらくなってしまって、それで外に出たんです。
それで、どこがいいかと歩いていると、良さそうなファミレスを見つけたんです。
私は席に座り、適当に注文しました。
すると店員さん、注文を終えたのに立ち去らずに私に声をかけたんです」
「女の店員だろう。へへへ、顔に出てるぞ? 美人か?」
「え、ええ、そうなんです。結構な美人でしたけど……」
「だよな、スケベそうな顔してるよアンタ」
「それってあれかい? 駅前のかい? あそこの店員は胸がおっきくてな」
「ああ、サキちゃんかな? 制服がいいよなあそこ」
「いや、あのコンビニ近くのファミレスじゃないか」
男たちがドヤドヤと話している間
その男はただ黙って彼らが話し終えるのを待った。
時折、時計に目を向ける。
それに気づいた一人の男があー、はいはいと場をとりなした。
「ああ、悪いね口挟んじゃって。さ、続きをどーぞ!」
「はい……では。その女性店員さんは私にこう言ったんで――」
「抱いて! グショグショにして!」
「そんなこと、こんな奴に言うわけねーだろーが! はははははっ!」
「いやぁ、サキちゃんだったらけっこうな軽さって話だぜ」
「こいつの女みたいにかって? ははは! ほい! 続きどうぞ!」
「……ええ、その『大丈夫ですか?』って私に言ったんです」
「つまんな!」
「満を持してそれかい!」
「普通!」
「そのトークぜろてーん!」
「いや、私は満を持したつもりは……まあその、私の顔色が優れなかったから
彼女はそう言ったんでしょうね。その優しさに私は涙を流しそうになって」
「はははっ! 別に何てことはないだろ!」
「ゲロでも吐かれたら嫌だから聞いたんじゃない?」
「……それで、私は食事を終えると店を出ました。
勿論、彼女にお礼を言うのを忘れずに」
「胸は? 去り際に胸は揉んだ?」
「はははっ痴漢野郎だ! 通報しよっと!」
「いや、まさか、そんなことは……その、みなさん大分お飲みになっているんですね」
「おうよー。それで続きは?」
「そうそう、腹を満たした後は? 風俗か?」
「真昼間から!? やっぱスケベ野郎だなこのこいつぅ!」
「ほらほら聞かせてくれよ。酒の肴にしてやるよこのエロ男」
「いたっ、いたた……ええ、それから、少し歩いた後
私はコーヒーショップに行きました。
店内にジャズが流れていてとても穏やかな空間でした。
そこにいるお客さんも、皆さん、優しそうで実際――」
「俺たちとは大違い!」
「はははっ! やかましいわ!」
「ぴゅーひょろろろろう!」
「蛮族かよ! オッポゲオッポゲ!」
「……実際、優しくて。
何を注文しようかと迷っていた私に親切に教えてくれたんです。
お陰で美味しいコーヒーを飲むことができました。あれは最高だったなぁ……」
「俺たちもこの店のおススメを教えてやるよ! あー、ひじきの煮物!」
「きゅうり丸々一本!」
「じゃあ、カット野菜!」
「そこの観葉植物! アンタの席の横のな! はははっ全部食えよー」
「ほらほら、お客さんを困らせるんじゃないよ。ほい、きゅうりね」
「えっ、あの」
「って、出すんかーい!」
「はははっ! 反応おもんな!」
「大将、このお客さんおかんじょー!」
「ぼったくっちゃえ!」
「……それから私はしばらく街を彷徨い歩きました。
どこかいい場所はないかと。そう考えながら。
でも行く先々で不思議と優しくされまして……」
「まだ話す気かーい! 長い長い!」
「て、おいおい、どこかいい場所はないかってアンタまさか」
「あん? 何?」
「どっか飛び降りできる場所でも探してたんじゃないのか? 暗いなー」
「ええ、まあ……。でも優しい人たちを巻き込む訳には行かないじゃないですか」
「そりゃ、脳みそが飛び出るのは見たくないわな」
「うげー、やめろよ食事中に」
「なむなむー!」
「悪霊退散! かぁー! 散れい! おらぁ!」
「い、痛いです……それで、夜になり、この店の灯りと笑い声に引き寄せられたんです」
「はははっ、それがいい。死ぬのなんてなぁ……迷惑迷惑ぅ!」
「飲んじゃえ飲んじゃえほら一気一気!」
「そうそう、死ぬにしてもどっか人気のない山かどっかでやってくれよ」
「まあ、上から落ちてきた奴の下敷きになったって話も聞くしな。冗談じゃないぜ」
「そっと中を覗くと一席空いてて、それで入ったんです。
やっぱり思った通りでした。皆さん、お知り合いですよね?
常連さんだけの店ってどうも居づらいですよね……。それが良かったんです」
「ふふふっ、驚いたよ、え? 誰? ってなったわ」
「はははっ、気味の悪いのが来た! ってな」
「そうそう、あ、マサさん来たらアンタ帰ってな」
「うんうん。そもそもマサさんの席だしな。ね? 大将」
「うん、ああ、そうそうマサくんと言えば――」
店主含め、五人はまた仲間内だけで話し始めた。
だから「いい人生だったなぁ……」と呟く男の声は聞こえなかった。
当然、男が先程から時計を気にする理由もわからず、理解しようともせず
男の足下の鞄に入っている爆弾にも気づくはずがなかった。




