呼び水
その青年はガタガタ震えながら下を見下ろした。
次に、後ろを振り返る。
友人たちのニヤニヤとした表情。その中に一つ、可憐な微笑み。
彼女は青年の意中の相手。それを前にしてまさか怖気づいたなんて言えない。
飛ぶしかない。このバンジージャンプ。そして戻ってきたらその勢いで告白するのだ。
青年は覚悟を決め、その橋から飛び降りた。
「え」
青年は思わず声を漏らした。なぜか突然、周りの景色がゆっくりに見えたのだ。
青年は思う。
これはまさか死ぬ前の――
「そうです。貴方はもうすぐ死にます」
「うわっ! 何だ、え? その角、まさか」
「そう、悪魔です」
「あ、あく、悪魔!?」
「ええ。貴方の魂を頂きたく参った次第です。
交渉のためにこうして時間をゆっくりにしているわけです」
「そんなこと、いや、待て、もうすぐ死ぬって」
「ええ、紐が切れてこの下の川の大きな岩にグチャ! と。
ほら、御覧なさい。わかります? 私の指の先。そう、紐のあの辺ですね。
劣化しているでしょう? 伸びきったらブチッと。まあ整備不良ですねぇ」
「クソ係員め! ん? 交渉……それって願いを叶える代わりに魂を頂くとかって話?」
「はい、その通りです」
「じゃ、じゃあ助けてくれ! 俺を地上に戻してくれ! 今すぐ!」
「いやいやいや、それではいつ魂を頂けるかわからないじゃないですか。
目の前にご馳走があるというのに見送るわけないでしょう」
「え? じゃあ、願いって何を……」
「そうですね。貴方から恐怖心を取り去るっていうのはどうですか?」
「そんなの……ああ、成程……。この場限定の願いというわけか。
足元を見ているというかなんというか。それはそれとして恐怖心を、か。
でも死ぬことに変わりはないわけだしな……」
「じゃあ、今まで味わったことのない快楽を味わうというのはどうです?」
「ほう、それって性的な」
「ええ、そうです。気持ち良すぎて気絶しますよ。死んだこともわからないでしょう」
「まあ、さっきの案よりは……ん? それってその、射精は……」
「しますね。爆裂的に」
「駄目だ駄目だ! 落下で死んだのか興奮で死んだのか悩まれるだろうが!
恥晒しもいいとこだ!」
「では、チッ」
「な、なんだよ、え? うわ、何だ! 光が……え、その輪っか」
「はい、私は天使です」
「え! 天使!? 嘘!?」
「はい、さあ、こんな意地汚い悪魔の誘惑に乗っては駄目です!」
「クソガキが……」
「黙れ悪魔! 馬鹿アホ! よ、よし! て、天使様! どうか俺を、お助けください!
マジでいい人間になりますから! お願いします!」
「はい、いいですよ。貴方の魂を特別に天国まで連れて行って差し上げましょう」
「よし! ん、え? それ、結局死ぬの?」
「はい、死にます! さあ、早く悪魔の誘いを正式に断って時間を元に戻させ……おや?」
「え、う、うわ! その黒いローブは」
「はい、死神です」
「死神……え、死神? 何で?」
「困りますよ天使さん。我々死神は魂をあの世に運び
天国か地獄かの審判を受けさせるのが仕事なのに
天国へ直接送ろうだなんて仕事泥棒もいいところだ。
それでは我々死神の存在意義が無くなってしまいますよ」
「う、ですがこの哀れな青年の魂を悪魔に掠め取らせるわけにはいかないのです」
「言い訳ですか? こういう事の積み重ねがですね、良くないんですよまったく。
まあ、私が来たからにはサクッと死んでもらって、しっかりと魂をお運びしますよ」
「おいおい、お前たちはこの青年に何もしてやれないんだろう?
だったら黙っててくれ。死の間際、最期の願いを俺が叶えてやろうとしているんだからな」
「駄目です! 誘惑に負けちゃ! 天国へ行きましょう!」
「だから駄目ですって! ちゃんと審査係まで連れて行かないと!」
「誰を選ぶんだ? 俺だよな? 快楽だぞぉ?」
「いや、私でしょう! 天国ですよ天国!」
「だから駄目ですって! あの世に、ああ、私だけ貴方に得がないですね。
じゃあ死後、特別に一週間程、現世をうろついていいですよ。
気になるでしょう? 自分が死んだ後の、周りの様子とか
女風呂を覗いたって構いませんよ」
「さあ、どうする!」
「どうするんですか!」
「……ふ、ふぐぅ、う、う、う」
「ああ、泣いてしまった」
「……も、もう少し考えさせてほしい。し、下で待っててくれ。
落ちる間に考えるから……。それまでお互いで話し合ってて。
誰を選ぶのが一番正しいか、ついでに誰が優れた存在なのかとかそこのところを……」
「いいだろう」
「望むところです」
「では、お待ちしてます」
悪魔、天使、死神は川の表面まで降りていった。
緩やかな時間の流れの中では川は凍り付いたように動かない。
三者は半ば罵り合うように話し合いを始めた。
そして、青年はバンジージャンプの紐を掴み
まるで地獄に垂らされた蜘蛛の糸のように、登り始めたのだった。




