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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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エア結婚

 独りの男がいた。そう、独り。彼は独身だった。 

が、その手の薬指には、この薄暗いバーの細やかな照明でキラリと光る指輪があった。

 独身なのになぜ。

 その理由。彼は女性にモテない。モテなさすぎた。

ゆえに結婚を諦め、普段から薬指に指輪をはめることにしたのだ。

 それはなぜか? 自分を既婚者と見せようと考えたのだ。

 無意味……いうわけでもない。

こうしてからというもの、同僚や店員など会う人その人からの扱いが良くなったのだ。

これは、ちゃんと結婚できたやつ、まともな人間だと

そう見られるようになったからではないのか。

 気の持ちようということもあるかもしれないが彼はホッと一安心。

無論、そんな彼もやはり虚しい気分になる事が多々あった。

 だが、仕方ない。こういう生き方もあるんだ。自己防衛。

と、どこか卑屈な思いも抱き、日々を送っていた。だが……


「隣いい?」


「え、あ、はい」


 彼はこの夜、バーにて、そう声をかけられた。

女と付き合ったことのない彼でも自分に好意を持っていることがわかるような素振り。

この女がわざとそう見せているのかもしれない。


「寂しそうだったから声かけちゃった」


「まあ、そうみえたかい」


「奥さんと上手く行ってないの? ……なんて踏み込みすぎ?」


「いや、いいんだ。事実は変わらないさ」


 彼はできる限り落ち着いた態度で接した。だが心臓は高鳴り、股間は熱い。

結婚した後の方がモテるようになったと同僚が話していたがまさか本当とは。

既婚者というものは『略奪してみたい』と女の狩猟本能か何かを刺激するのかもしれない。

それだけでなく、思えば少し小奇麗にしたり

俺は結婚しているんだぞ、と自信を身に着けたからかもしれない。

 いやしかし、世の男は結婚した上でこうも誘惑されたりなどとなんとまあ贅沢というか

なんというか、いやまあ、人それぞれか。いずれにせよ俺はそんな誘惑になど乗らずに

妻一筋でいや待て俺は結婚してないぞ。じゃあこれは本当の結婚のチャンスいや

でも彼女は俺を既婚者だと思ってただの遊び、じゃあ妻とは別れることにしていや待てよ……。

 

 と、千載一遇のチャンスに興奮した彼の脳内はグチャグチャであったが

上手い具合に流れに乗り、店を出た彼は女の肩に手を回し、夜の街を歩いた。

 高まる性的欲求は熱持ったままだが外の空気と夜風で彼はいくらか冷静さを取り戻した。


 ……エア結婚からの不倫。エア不倫だろうか。いや違うか。

まあ、どこか騙している気はしなくもないが、構わないだろう。

俺という人間の魅力に変わりはないのだ……多分。

 

 鼻歌を歌い、女と笑い合い上機嫌な彼。

 だが、ちょうど良さそうなホテルを見つけ、中に入ろうとしたその時だった。

 

 着信。表示された登録名は『妻』だった。


 背筋が凍りつくようだった。

既婚者であってもそういった場面だろうが彼は偽既婚者、独身だ。

 ではこの『妻』とは何者か?


 ねえ、どうしたの? 誰から? と訝しがる女をよそに彼は通話ボタンを押した。


『あ、あなた? ねえまだ帰らないの? もーう、遅くなるならそう言ってよ!』


 話の内容こそ怒ってはいるが声からは然程怒りを感じなかった。

関係は悪くない。まるで新婚。二十代後半から三十代くらいの声。

知らない声だが知っているような気がする。これは……しかし……やはり間違い電話。

いや、だがこの登録者名は一体……。


『あなた?』


「あ、ああ、何でもない。すぐに帰るよ」


 電話を切った彼は女がいることも忘れ、走って駅に向かった。

電車を待つのももどかしく思い、自宅の最寄り駅に到着すると彼はまた走った。

 その最中、頭に浮かぶのは、果たしてこれは一体どういうことなのか、そのこと。


 俺の願望が形となって現実に現れたのだろうか。

 思えば転職を機に既婚者の振りをし始め、かれこれ数年になる。

熟練の剣豪が刀を持たずしてその刀の形、重さを感じるように

俺もその境地に達したという事だろうか……。

 だとすればその妻は俺好みの女。頭の中で毎日その姿を、声を描いていたのだ。

同僚にも妻とのエピソードを話したことがある。もちろん、全て創作だが。

 会える。理想の女に、その体を抱ける。


 興奮と走ったせいでアパートの前に着いた時には息も絶え絶えだった。

 痛む横腹に手を当て、大きく息を吐くと彼は階段を上り、鍵を開け中に入る。

 満面の笑み。だが、その口から「ただいま」が出ることはなかった。

 部屋は真っ暗。温かみのかけらもなかった。

視覚からくる寒さ、足から這い上がる虚しさ襲われ、彼はその場に座り込んだ。

 

 馬鹿馬鹿しい、俺はなにをはしゃいでいたんだ……。

 こんなことならあの女と……ああ、そうだホテルの前まで行ったのに……。


「クソッ!」


 彼が独り、悪態をついたその時だった。

 電話が鳴った。


『あなた、おかえりなさい。冷蔵庫におかず、入れておいたからね』


 “妻”からであった。彼は上ずった声で返事をし

電話を片手に冷蔵庫まで歩き、扉を開ける。電気を点けることを忘れ、未だ真っ暗な部屋。

冷蔵庫の庫内灯が期待に満ちた彼の顔を照らす。

 だが、中は朝と変わらない彩りのなさ。おかずなど存在しなかった。

訝しがる彼。だがそれは彼の“妻”も同じであった。


『どうしたの? 早く出して食べてよ』


「え、あ、ああ。ありがとう」


 “妻”の口ぶりからして、どうやらこの部屋の中にいるようだ。

それも背後に。ゾクリとしたのは冷蔵庫の冷気のせいか。

 彼はそっと後ろを振り返る。

 が、誰もいない。冷蔵庫のドアを閉めると部屋と音は完全な暗がりに沈んだ。

いや、光はあった。彼の片手の中に。そして音も。


『あなた、どうしたの? 何も出さずに閉めて』


 彼はビクッと震えた。電話越しの“妻”の声。

位置的に今、目が合った、いや、合っているはずだ。

その闇の中、目を凝らすと僅かに人型の影が浮き上がったような気がした。


『あなた?』


「え、ああっと、これだな?」


 彼は背を向け、夕食を冷蔵庫から取り出した。

テーブルの上に置き、そして箸を持ち、その見えない皿の上のおかずを摘まむ。


『ちょっと、何やってるのもう。ふふふっラップはずさないと』


「あ、ああ。そうだったな、はははは……」


『うふふ、はい、ビールもどうぞ』


 彼の喉から干乾びたような笑い声が鳴る。

カツンと虚しく皿と箸が触れ合う音がする。

暗く冷たい部屋。温もりで満たされるのはまだまだ先のようであった。

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