ドアの先
……なんで自分は生きているんだろうか。
ある日、男がそんな哲学的思考の道へ踏み込んだのも仕方がない。
独裁者の演説のように唾を飛ばし、恫喝してくる上司を前にしては。
あるいは道ではなく沼か。男はその説教に対し、耳を傾けてはいなかった。
しかし、内容はわかる。理不尽。それに尽きる。自分に落ち度はない。
あるとすればこの会社に入った事。と、言っても他に入れる会社はなかった。
学生時代苛められ、不登校に。その後、何とか立ち直り、就職したものの
このようにパワハラの毎日。ぶり返す昔の嫌な記憶と共に苦しい日々を送っている。
……あれは?
男は嫌悪感を出さないようにしていたが
飛び掛かる唾を前に無意識に、徐々にだが顔を逸らす。すると、ふと気づいた。
非常ドアだ。
くすんだ様な白いドア。その上部に緑色の非常口のマークが記されていた。
「聞いているのか! だいたいなぁ! お前は――」
丸めた書類の束で頭を叩かれ、意識は肉体から離れ
またどこか第三者が見ているように俯瞰的になった。
だが、男はその間もどこかあの非常ドアを気にしていた。
あんなところにはなかったはずだと。
暴力を交えた上司の叱責が終わると、男はそのドアに近づいた。
いつの間に工事したのか。しかし、オフィスの壁
それも隅っこじゃないところに作るなんて不自然だ。鍵はかかっているのだろうか。
「おい……おい、大丈夫か?」
「ん、ああ、うん」
「そんなに落ち込むなよ。まあ言ってしまえば、いつもの事じゃないか」
「うん、まあ、そうなんだけど。これさ……」
「嘆きの壁か?」
「え?」
「お前、ふらふらどこに向かって歩いていくのかと思えば
今、そこに頭つけて、ぶつくさ呟いてたじゃないか。
だからさすがにと思って声を掛けたんだよ」
「壁……?」
男は愕然とした。この非常ドアは自分にしか見えないらしい。
幻覚。それも重度の。ドアノブを握ると確かに冷たい感触があるのだ。
病院に行く暇はない。尤も行く必要はない。
このドアが何を意味するのか医者に訊かずともわかる。
現実からの逃避。先程、説教されている自分を俯瞰で見るあれと同じ。
それでも男は前に夜道で見た首吊り縄の幻覚よりマシと思った。
あれは直接的すぎる。まあ、これも大して変わらないか。
男はため息を吐くと、自分のデスクに戻り
賽の河原の石積みのような仕事をまた始めた。
あのドアはいずれ、見えなくなるだろう。そう考えつつ。
しかし、翌朝の通勤途中。男は何かに躓き、膝と手をアスファルトについた。
なんなんだ、と振り返るとそこにあったのは。
「またか……」
そう、あの非常ドアであった。
周りの人は何もないところで転ぶなんてどんくさい奴、と
男をチラッと嘲笑めいた目を向けるだけでさっさと歩いていく。
そのことから男はこれは完全に幻覚なのだと思った。
そして恐れた。幻覚のドアノブに躓くなんてこれは相当危ない。
怪我の心配ではなく、自分の脳が。
思い込みの力はすごいものだ。こうなるとこのドアの先も存在するかもしれない。
ただの壁や地面じゃなく、その先、つまり死が。
まさか、オフィスの非常ドアを開けた先にご丁寧に階段まで用意してあるとは思えない。
そのまま五階から真っ逆さま。警察は屋上から飛び降りたと判断するだろう。
道の真ん中のこのドアは奈落へ無限落下、そのまま行方不明。
馬鹿な。ありえない。だが死に様を想像すると、よりリアルに感じ、背筋が冷えた。
男は立ち上がり、ドアに背を向けた。しかし、後ろ髪引かれるような思いであった。
あの先にあるのは救いなのではないだろうか、と。
自分はこれまで逃げ続けてきた。
痛みから、恐怖から、人から、人生から。だから向き合わなくてはならない。
いつだったか、そう決めた。この現実と向き合う。いくら辛くても。
男はそう、毎日踏ん張ってはいたが、体は着々と限界に近づいていたのだろうか。
お馴染みの自律神経の乱れ。寝付けない夜。
そして、瞬きの間にまたしてもそれは現れた。
非常ドア。それも天井に。
男はベッドの上で目を瞬かせながらそれを見つめる。
……無茶苦茶だな。さすがに開けられないだろ、これは。
なんて思うと変な笑いが出た。
「ひひ、はははっ、あはははははは、ふふっ、はははははははは……」
――開けてみようか。
ひとしきり笑い、少し泣いて冷静になり考えてみると、開けられなくもない。
部屋にある物を手当たり次第に積み重ねれば手が届くだろう。
積み重ねた本の上に乗り、部屋に吊るした首吊り縄に首をかけるように……。
開けた先には何がある? このアパートの上の部屋?
突然、下から現れたら上の住人は驚くだろう。会ったこともないが。
そう考えると少しワクワクもしたが、男は行動に移そうとまでは思わなかった。
自分は相当重症だ。このドアは脳からの警告。
明日、辞表を出しに行こう。そう考えた。
そして自分が上司に辞表を叩きつける場面を想像すると随分と胸が軽くなった。
これこそ現実逃避だろうか。
実際、男はその場面を想像し、眠りについたことが過去、何度かある。
今回もまた積み上げた石の一つ。崩れ、何にもならない、ただの慰め。
……だが、もし明日になってもその気が変わらなければ実行に移そう。
そう、辞めるんだ。辞める、辞める辞める……。
そう決心すると安堵したのか眠気がこみ上げてきた。
目を閉じた男。悪くない気分だった。
自然と笑みが浮かんだ。
――あ、落ちる
眠りに。夢の中に。
そう思った時、前髪がふわっと風が撫でた。
そして感じた。腹から膝にかけてずっしりとした重さを。
ぶわっと肌が粟立ち、背筋が凍った。
今のは夢……ではない。これは、確かに存在する。
そして、瞼を開けた男が目にしたのは暗い天井。
夜だから暗いのは当然。だが、暗すぎた。ドアの形にくっきりと闇がそこにあったのだ。
脈打つ心臓の音が体の中から響く。
体内を廻る血液。男の脳がギュルギュルと思考を始め
早戻し、早送り。繰り返される言葉。
ドアが開いた。
いや、開けたんだ。
そう、何もドアを開けることができるのは、こちら側だけとは限らないじゃないか。
この掛け布団の上の重み、湿り気……なにが出てきた? 何が落ちた?
なにが、なにがなにが……いや、慌てるな、そうだ、あれは非常ドア。
逃げてきた。そう逃げてきたんだ。
彼あるいは彼女は自分の世界から逃げてきたんじゃないのか?
そうとも同類。そう恐れることはない。下手に刺激しては逆効果だ。
傷を負った者同士だ。優しく、仲良く。
そうだ、このグチュグチュという音だって考えようによっては友好的な――
男の思考はそこで停止した。
気づいた。開いたドアの内側。
そこに記されているマークは非常口と言うより、まるでレストランの……




