常人ならざる者 :約1500文字 :ホラー
「……結構来たなあ」
男は独りごち、満足げに鼻から息を吐いた。散歩のつもりが、興が乗って思いのほか遠くまで来てしまったのだ。
川と山に挟まれた大きな広場。雑草は綺麗に刈り揃えられ、シロツメクサの葉を主に、緑の絨毯のように広がっている。
と、いっても今は深夜。遊歩道から数歩踏み出した彼の目に映るのは、薄めた墨汁を紙に広げたような灰色の地面と、その奥に群れる黒々とした木々の濃淡だけだった。
殺風景な景色。しかし、この広々とした空間を独り占めしているというだけで、気分がよかった。
男は深く息を吸い込み、新鮮な空気で肺を満たす。体をぐっと伸ばし、「ううぅ」と気持ちよさそうに声を漏らした。
そして腕を下ろした――その瞬間、ピタリと動きを止めた。
遠く、灰色の地面の上に、ぼんやりと浮かぶ白いものがある。
動いている。
猫か?
いや、大きい。
犬か?
それにしては変だ。前足がないように見える。
徐々に大きくなっている。
――いや、違う。
近づいてきているのだ。
男がその事実に気づいた瞬間、向こうも男の存在に気づいたのか、のたうつように走り出した。
男は踵を返し、全力で逃げようとした。だが、遅かった。恐怖と好奇心が、逃げるタイミングを遅らせたのだ。
次の瞬間、背中に衝撃が走り、男は地面に倒れ込んだ。何かが彼に馬乗りになった。
「ひ、ひい!」
短く悲鳴を上げ、手足をばたつかせる。溺れた者のように、ただひたすらに。全身を覆う恐怖が指先から体温を奪っていく。
死、死、死だ。無駄だ。殺される……!
男は息を荒げ、必死に抵抗した。
もはや諦念が湧き上がりかけたそのとき、なんとかそれを押しのけ、雑草の上を這うようにして逃れた。
立ち上がろうとするが、うまくいかない。腰が抜けていたのだ。
「んー! んーふっんー!」
背後から、うめき声がした。男は少しでも離れようと、土に指を食いこませる。冷たい感触に尿意が込み上げてきた。
「んんんー!」
だからだろうか、男はふと、その声に熱を感じた。
どこか必死な、懇願するような……。
男はおそるおそる振り返った。
「ひ、人……?」
それは、人間だった。白い拘束衣を着ている。前足がないように見えたのは、そのせいか。舌を噛まないようにするためか、口輪までつけられている。
「すみませーん。驚かせてしまってえ」
精神病患者だろうか? そう思った瞬間、突然どこからか中年の女性が現れた。男に駆け寄ってくるその顔は、まるで飼い犬が悪戯をしたときのような、困ったような笑みが浮かんでいた。
「い、いえ。だ、大丈夫です……あ、か、彼は脱走でもしたのですか?」
「いいえ、散歩です」
女性はにこりと微笑んだ。
安堵したのか、腰に感覚が戻ってきた。男もぎこちなく笑い、立ち上がろうとする。
ちらりと拘束衣の男に目を向けると、彼は見開いた目でじっとこちらを見つめていた。
助けを求めているのだろうか?
確かに、その格好では自由などないも同然だ。だが、病院の方針や自宅介護の都合に口を出すのは憚られる。こうして拘束されているということは、何かしらの理由があるのだろう。
男は申し訳ない気持ちを抱えつつ、視線を逸らした。
「んんんんー!」
「それじゃあ、私はこれで――」
男がそう言った瞬間だった。
首筋に、チクリとした痛みが走った。
途端に体が動かなくなり、視界がぐるりと回転し、地面が迫る。
顔が草に埋まり、夜露の冷たさが頬に滲んだ。そして乾くように、じわりじわりと感覚が薄れていく。
どこかへ引っ張られるような感覚の中、微かに女の声が聞こえた。
「運動させないと、味が落ちちゃうので」
拘束衣の男のうめき声が、遠のいていく。
――屠殺前の豚みたいだ。
まぶたが閉じる寸前、男はそう思った。




