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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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メメント・ウミ

 大学入試を終えた僕は久々に昔住んでいた島に来た。

 受験の最中は気が紛れていたが

それが終わると砂浜に掘った穴に波が流れ込むように

またこの島の事を思い出し、気がつくと船に乗り込んでいた。


 夕日に刺される中、船から降りて島の中を歩く。

 親の仕事の都合で中学三年生の時に引っ越して来て

また仕事の都合で中学卒業と同時に引っ越した。

 よそ者の上にすぐに島を去ったんだ。親しい奴はいない。思い出のある場所もない。

ただ一つを除いては。




「お、遅れてごめん」


 僕がそう言うと海を見ていた彼女は僕に移した。

髪がフワっと揺れ、潮風に混じり甘い香りが僕の鼻に届いた気がした。

 灯台へ続く堤防。島の一部ではあるけど島から一番離れた場所。

振り返れば生い茂った木々が重なる山。

こうして夜に塗られれば一つの巨大な生き物のようでたまにゾッとするけど

その向こう側にある細々とした灯りのついた町。

それを隠してくれるから、僕はこの場所が好きだ。


 喧騒とは無縁の世界。ここが彼女とのいつもの待ち合わせ場所。

 隣の席の女の子。唯一の友人。

 ここで会う彼女は学校にいるときよりも、自由で穏やかな顔をしていた。

日中はつけている顔の湿布をとり、肌を夜風に撫でさせている。

 夜の闇が彼女の顔の傷を隠す。ここにある全てが彼女の味方。

穏やかな波の音を奏でる海も。風も。僕も。

 周期的に彼女の顔を照らす灯台を除いて。


 彼女の顔の傷が明るみになるその度に、僕はそれとなく目を背ける。

『それとなく』……本当は不格好かつ不自然な振る舞いだったと思う。

 そんな僕の心の内に気づいているだろうけど、彼女は何も言わず、ただ微笑む。

僕はその笑顔も大好きで、いつも横目で見る。

灯台の光に照らされ、ほんの一瞬輝く宝石のような。


「あ、その服――」


「先を越されちゃったね」


 戻って来た薄暗がりの中、彼女はそう言うと海を指さした。


 海、浮かんでいるのは……黒い……塊?


「くじらだよ?」

 

 僕が目を細めていると、彼女が僕の耳元でそう囁いた。

 彼女の甘い声。彼女の吐息が耳から脳へ達し、僕の全身をバグらせる。

 僕はパッと飛び退き、熱持った頭と顔を冷まそうと、風の吹く方向に顔を向けた。

 きっと今、真っ赤な顔をしている。

また灯台の光が僕らを照らす前に元に戻したかった。


「く、鯨?」


 背けた顔を少し彼女の方に戻し、僕はそう言った。

 どうやら一頭の鯨が迷い込んでいたようだ。彼女はそれを穏やかな表情で見つめる。


 僕は鯨の事なんてどうでも良かった。

 頭の中にあるのはいつも決まった事。

 彼女のこと……彼女の家庭。


 彼女は父親に虐待されていた。


 それを知っている癖に僕はどうすることもできずにいた。

それが胸を掻き毟りたくなるほど悔しくて、もどかしかった。

 この島にただ連れて来られた僕は一緒に逃げようとも言えず

ただここで何事もなかったように、普通の中学生の振りして他愛のない話をするだけだった。

 そうすることで、あえて触れないことで彼女の支えになっていると

そう自分を慰め、今はまだ子供だからと自分に言い訳した。

でも、いつか、いつかはきっと……と、それも言い訳。


 彼女が立ち上がり、海を背に僕を見た。

 灯台の光がまた彼女を晒し者にした。


 ……そのグレーのセーラー服。

 ひょっとして島の外の高校の?

 あの親父の許可が下りたの?


 僕はそう彼女に訊こうとしたけど、言葉を、息も呑み込んだ。

 その夜の彼女の顔にあったのは殴られた痕ではなかった。

 

 血。

 

 それは彼女のセーラー服にも染み付いていた。

 真っ赤なスカーフは夜の海にできた影のように色濃かった。


 また夜が戻った。

 何も言葉が出ず、息を呑み、ただ見つめる僕に彼女は手を伸ばした。


 この手を掴んで。


 彼女の目がそう言っていた。

 僕は……彼女の笑顔から目を背けた。



 少しの間の後、海が何かを飲み込んだ音がした。

 僕は前を向いた。

 でも、彼女の姿はそこにはなかった。

 心臓が破れそうなくらい激しく鼓動していた。

 有り得ない、嘘だろ。これは現実か?

そんなありきたりの言葉が頭の中でグルグル回りながら

僕は堤防の縁まで行き、灯台が海を照らすその瞬間を目を凝らして待った。

早く、早く早く……そう小刻みに震えながら。

 

 でも、彼女は見つからなかった。

 

 静かな海。灯台の光が照らす。

その時、僕はようやく鯨が死骸である事に気づいた。


 ――先を越されたちゃったね。


 彼女の言葉、声が頭の中に蘇る。

途端に彼女の意識が、見た光景が足元から水が上がって来るように

僕の意識を侵していく感覚がした。

 それは普通の、思春期の男子中学生らしい

普段から育んだ妄想力が引き起こした現象だったのかもしれない。

 彼女と二人、島を出て行く妄想。

 彼女の肌に触れる妄想……



 体を包む冷たさ。

 沈む。沈む。

 月明かり揺らめく海面が遠のいていく。


 灯台の光が海を撫でるのを見た。

 泡が浮かんでいくのを見た。

 クラムボンが死ぬのを見た。

 緩み、外れたスカーフが流れていくのを見た。

 それが浜辺にゴミと打ち上げられる未来まで見た。


 彼女が何か呟く。

 浮上するその泡に込められた言葉が海面で割れ、僕の耳に届く。

 あの囁き声のように。


 海を想い、私を思い出して。




 彼女の席は空いたまま卒業式を迎えた。

 あの夜の事は誰にも話していない。

父親を殺してボートにでも乗って島を出たんだと噂された。

 

 それなら良かった。

 そう思いたかった。

 そんな気がしてきた。

 あの夜見たのはただの夢で、彼女はどこかで元気に中卒の男の部屋に転がり込んでいる。

食べて、寝て、ちょっと働いてセックスして、また寝て。

そんな想像をすると胸焼けするように気分が悪くなり

でも欲情する自分に嫌気がさした。

 綺麗なまま死んだ彼女。

 その彼女の手をとれなかったあの夜。

 全て無かった事。

 どこかで生きてて、それでどうか嫌な女で、少しだけ自分より不幸でいて欲しい。

想像上の彼女は淫らで、でもその笑顔はあの夜、灯台に照らされた時と同じで綺麗で。


 ――海を想い、私を思い出して。


 彼女の言葉。それもただの僕の想像だけど

実物、映像問わず海を見る度に頭によぎる。

 高校生活は空虚そのもの。記憶に色濃くあるのは

下校か登校かただ歩いている、そのことだけ。

 風と波に侵され崩れ消えた砂の城のよう。跡に残るのは膿んだような僅かな膨らみ。

 胸に刺さった棘は肉を腐らせ、黒ずみはもう随分と広がっている。



 日は沈んだ。あの時より少し波があるけど同じ場所、同じ海。

 あの時の光景がなぞられる。

 でも、灯台の光の下に彼女はいない。

 鯨もいない。

 あれが鯨だったのか、本当に存在したのかさえ、今となってはわからない。

 記憶の群青はただただ暗い。


 何にせよ今は僕一人だけだ。




 灯台の光が海を撫でる。

 泡が浮かんでいく。

 クラムボンが死んだ。

 死んだ。

 死んだ。

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