夕闇と罪
「やや! 貴方は!」
タクシーに乗り込んだ瞬間、俺はしまったと思った。
変装を……せめてマスクでもつけてくるべきだったと。
「鋼太郎さんですね! あの名探偵の!」
俺が頷くと運転手の男は、恐らく彼自身そう出したことないであろう
高音を口から発したのち、少し咳き込んだ。
「フィ、フィクションと現実の狭間に生きる男!
解決した事件をモデルにした小説は飛ぶように売れドラマ化!
あ、今度もまた映画を――」
俺は運転手を手で制し、行き先を告げた。
俺はそれで彼がタクシー運転手としての本分を思い出してくれると思ったが
そうでもなかった。
タクシーは走り出したものの、運転手の興奮はさらに高まった。
行き先がまずかったのかもしれない。
「いやー! まさか鋼太郎シリーズの原点!
最初の事件の舞台となったあの村にその名探偵張本人を乗せることになるとは!
タクシー運転手として私はもう、くぅぅぅ」
感極まる彼に何か言葉をかけようかと思ったがやめておいた。
逆効果になりそうだ。それこそ事故でも起こされたらどうもしようもない。
腕を組み沈黙と愛想笑いに勤しむことにする。
「今回も事件ですか? いや、里帰り? 確かあの村出身でしたもんね!
何年ぶりですか? これまでも時々帰ってきていたり?
ああ、でも鋼太郎さんを乗せたって話は仲間内で聞いたことないなぁ。
それとも気づかなかったのかなぁ。いやぁ、だとしたら気づいた私は中々のものだぁ。
いや、それにしても自慢になりますよホント。連中、悔しがるだろうなぁへへへ。
それにしても、いやーカッコいい! 鋼狼と呼ばれるだけあって鋭い眼光!
それに、鍛えているんですか? いやーなんだか逞しい!
私なんてもうお腹が出ちゃって出ちゃって、へへへへへっ。
でも鋼狼と言うよりか銀狼? いやーその白髪すてきですなぁ。
私は何とか白髪染めで抗っていますけど私もそうしようかなぁ。
私もタクシー界の銀狼とか呼ばれちゃったりしてね!
いいなぁ、やはり自然のままに、ですか?
それにしてもあの村に行くいうと思い出しますねぇ最初の事件のあの犯人!
村に帰って来た厄介者が起こした殺人事件! 私、やはりあの話が一番好きでね!
あ、でもあの厄介者は大嫌いですよ! この! このこの! この野郎!
ってなもんですよ、へへへへへへ。
ホント、自分の都合で出て行ったくせに、のこのこ帰って来て
我が物顔で! 横柄な振る舞い! 昔の事を掘り返してネチネチネチネチと!
今更なんだ! 何様だって話ですよ! 主人公はお前じゃないんだぞ!
くぅー嫌い嫌い! 悪行の描写がリアルでねぇ、モデルとかいるんですか?
あ! そういえば観光客を乗せたことが何度もありましたよ!
まあ、最近はあまり見ないですけど、あ、そうそう――」
……二、三。今ので四軒目。窓のない家。取り壊し予定だろうか。
曇り空のせいか余計に町が寂れて見える。
この辺りも昔と変わったようだ。あの村を出た日。
たった一度、タクシーから窓の外を眺めただけだが。
そういえばあの時も確か季節は秋だったか。
風で舞う落ち葉の乾いた音が窓越しに聞こえてくるようだった。
「到着でーす! いやぁ、感激だなぁ。サイン頂いちゃってへへへ。
ところで、良かったら待ってますけど。
ええ、鋼さんのためなら一時間でも二時間でも!
まあ、その分売り上げが落ちちゃいますけど、そんなもんねぇ」
「いや、いい。大丈夫だ」
「そうですか? じゃあ、帰りはぜひ、この名刺の電話番号に
もう私、すぐに迎えに来ますんで! スピード違反上等! なんてね!」
去っていくタクシー。窓から運転手が腕を突き出し豪快に振る。
俺は軽く手を上げようとし、やっぱりやめ、村の入り口へと体を向けた。
匂いも、こうして歩いて見る景色もあの日とそう変わりないように思える。
一時、小説を読んだ観光客が押し寄せたと聞いたが洒落た店などない、ただの村だ。
何も恩恵も変化も、もたらさなかった様だ。
「あ、鋼……ちゃん?」
「……美玖ちゃん?」
踏んだ雑草から飛び跳ねた虫を目で追っていた時
背後からしたのは少し大人びているが懐かしい声。
振り向いた俺の目に映ったのは、ほんの一瞬ではあるがあの日の幼馴染の姿。
瞬きの間に月日が流れ込む。
年輪の如く皺が刻まれ、髪の毛から艶を奪い、片方の目には白い濁りが浮かび上がる。
『それでも君は美しい』
そう言葉が口から出たがったが、先に口を開いたのは彼女のほうだった。
「久しぶりね。何年ぶりかしら」
「……四十年ぶりくらいかな」
少し考える振りしたが多分、気づかれていただろう。彼女もまた聡明な子供だった。
あの時はまだお互い十六、七辺りの、そう子供だった。俺は女も知らなかった。
村を出た後、俺は探偵事務所に弟子入りし、経験を積んだ。
派手な事件はなかったが、たまたま殺人事件に遭遇。犯人を推理し、事件解決。
そこに居合わせた芸能人がそのエピソードをテレビで話し、有名に。
それをきっかけに仕事が、事件が舞い込むようになった。
「小説もすごく売れているみたいね。一時期、貴方のファンが押し寄せたわ」
彼女が顔の半分にかかる夕日に目を細め、微笑んだ。
もう半分、白濁した方の目は俺の体に遮られ影の中に。
俺はなんて答えたものか、少し時間をかけたのに結局、口にしたのはただの一言。
「……すまない」
「いいの、いいの。みんなで冷たくあしらったから。若い女の子なんて特にね」
「それって……」
「そう、嫉妬よ……なんて嘘! ふふふっちゃんと見抜けた? 名探偵さんっ」
「いや……騙されたよ。敵わないな」
木枯らしに押され、俺たちは並んで歩き出した。
どこも変わらない気がする。田の広さも。屋根の上に残っている瓦の数も。
「みんな、驚くだろうなぁ。鋼ちゃんが帰って来たって知ったら」
「ああ……だろうな。元気にしているかな。
翔平とはたまに会うんだ。アイツも村から出て、俺の小説を書いているからな
そうだ、翔平も村に帰ったりしているのかなアイツ――」
「ねぇ、なんで帰って来たの?」
たまたまだろうか風が止み、彼女の言葉に迫力を持たせた。
枯葉がピシッと割れる音が聴こえた気がする。
あるいは乾燥した皮膚のひび割れの音か。
「何で……何となく、だろうか」
そう言うしかなかった。帰ろうとしたことは何度もあった。
だが踏ん切りがつかなかった。
それが今になって何故か自分でもわからない。死期が近いとでもいうのだろうか。
老いた猫のように姿を隠したかったのか。人気のない、それでいて馴染みがある場所に。
「そう……」
俺の言葉に彼女は納得しているかしていないかどちらかわからなかった。
いや、納得しなくても仕方がない。
これまで避けてきた癖に気まぐれで来たのか、と怒り出しても文句は言えない。
「覚えている?」
俺は彼女が指を差す方向に顔を向けた。
ああ、覚えているとも。あの丘でよく二人で空を眺めた。
次。あれも覚えている。あの家は宮下さんの家だ。
よく飼っているウサギを触らせてもらいに行った。
次。ああ、あの大きな木。この村、唯一の桜の木。
覚えているとも。桜吹雪もそこに立つ君の姿も。
次……。
あの林は……ただの林だろう。
昔、虫を捕ったような気もするが……まあ、それはどこの林も同じことだ。
俺が黙っていると彼女は腕を降ろし、何も言わず林の奥へ奥へとぐんぐん突き進んだ。
俺は何も言えず、ただ後に続いた。
虫がついたら嫌だな。かぶれたら嫌だな。
そんな思考に至るのはもうすっかり俺が外の世界に染まったということだろうか。
いや、単純に大人になったのだ。
もう、あの頃とは違う。俺も彼女も。俺は女を知った。何人も。
「……この小屋は?」
林の先にあったのは小屋。それも小さな、と付けたいほどに。
仮設トイレよりは少し大きいか。
こんなの、昔あったか? 建てたのか? 比較的、新しい・・・・・・か? どうだろうな。
風雨に晒され、他の家とそう見分けはつかないように思える。
「……覚えている? 健三の事」
空気と唾、それに埃の塊を呑んだ気になった。
忘れるわけがない。俺をモデルにした小説の最初の事件。
この村で起きた殺人事件。村に戻った悪漢。健三、その振る舞い。
あの無精髭も。顔にかかる息も。脅しの言葉も。君の髪に指を絡ませる姿も。
だが奴は死んだ。奴はその振る舞いを咎めた村の者を殺し、死体を埋めた。
そしてアリバイを偽装。だが、それを見破られ、追い詰められあの丘から転落。
下の岩に頭をぶつけそしてそう、奴は
「生きているの」
生きて……は? じゃあ、何で
「じゃあ何で知らせなかったって? みんな、悩んだの。
でも貴方にはそのまま村の外で生きていてほしかった。
何も縛られずにね。結果的にそれが正解だったみたいね。
有名になって自分の人生を生きて」
「そんなの! ……そんなのは……翔平は? 知っているのか」
「ええ、知っているわ」
「俺だけか……その、小屋にいるんだな」
彼女が頷いた。俺は彼女の横を通り、ドアを開けた。
その瞬間、凄まじい臭気が鼻を突いた。
蠅と、蛆は幻視か。ただ、ボロボロの髪の毛にはシラミがついている。
開かれた瞼、両方の黒目は白濁し、白目は黄色に。
開いた口は黄色い歯が数本、それも簡単に抜け落ちそうな印象を受ける。
痩せ衰え、あの日の奴の姿は見る影もない。ただ、生きているようだった。
「頭を打った後遺症ね。動かせるのはせいぜい眼球くらい。
村医者の大野さんのおかげでここまで持ったの」
「世話は……君が?」
「当番制だったけど……そのうちみんなやらなくなっちゃった」
「なぜ……」
「なぜ生かしておくか? こんな最低な奴を。
だって……生きていたんだもの。
放ったらかしにして死んだら結局……同じこと。
ちゃんと寿命で死んでもらわないと……貴方が……」
「殺人犯になってしまうから? 俺が……こいつをあの日、突き落としたせいで」
俺の最初の殺人事件。小説は所詮フィクションでしかない。
俺は奴を殺し、村を出た。いや、送り出された。誰も咎める者はいなかった。
お前がやらなければ自分がやっていた、という声をかけてくれた者もいた。
お前は悪くない、と他にも多くの慰めの言葉と、集めた金を持たせて。
村の外からやって来た駐在には酒に酔い、足を滑らせた事故だと
口裏を合わせ報告し、やがて事件の真相は
俺自身の心の中でも小説が後押しする形となった。
しかし、真実は違う。そう、違った。
「じゃあ……なぜ、教えてくれなかったんだ?
生きていると知ったなら……俺はすぐにでも、ここに、君を。
それに時々、悪夢を見ずに……」
「貴方がこの村に帰ってきたら教えようと思った。でも……来なかった。
ふふふっ、貴方が今、ここに来たのはきっと彼の死期が近いからかもね。
多分、もう長くないわ」
この衰弱振り。そのようだ。しかし……。
「その痣が気になる? 腕と足だけじゃないわよ」
「いい、やめてくれ」
俺は奴のシャツの裾を捲ろうとする彼女の手を掴んだ。
震えていた。
手だけじゃない。声も、怒りか、それとも……。
「もし、貴方が帰ってきたら……二人で殺そうと、そう決めていたの……。
それで今度は私も……。ねぇ、私は……何だったんだろうね」
彼女は嫉妬していた。俺に……一人で村を出ていった俺に。
そして怒りも感じていた。
ただ、それを自分の貞操を守った恩人に向けるべきものじゃないと
自分を制し、憎い男の身の世話をし
そして……この男と村を出ていけない自分を重ね合わせたのではないだろうか。
もはやあるのは憎悪だけじゃない。
愛憎、複雑な感情がこの小屋の中に渦巻いているのではないだろうか。
……だが俺の推理なんてどこまで合っているのか。
俺の名探偵ぶりは所詮、小説の中だけの話かもしれない。
これまではただ運が良かっただけだ。
その根拠は……俯いていた彼女が上げた顔。
その表情から彼女の心情を読み取れないこと。
これまでこの男が生きていたことを知らなかったこと。
そして……俺が今からしようとしていること。
遅すぎた。何もかも。
日が落ちようとしている。
暗闇が全部を隠してしまえばいい。
俺も彼女も何もかも。
呻吟が耳を蝕む。溺れ、沈むような声。誰のものか、夕日か。
俺は自分の手の中にある、汚泥の塊のような冷たさよりも
そっと重ねられた彼女の手の温度に意識を寄せつつ
貰った名刺をどこへ仕舞ったか思い返す。
行き先は決めていない。
ただ、今度は二人、どこかへとだけしか。




