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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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マリアの嘘

 うだるような暑い夏だった。

窓(と言うよりか格子がついた穴)の外からは蝉共の声。

パタパタと扇ぐために借りた本の音。迷い込んだハエの羽音。

そしてゴリ、ゴリ、ゴリ、という音。

 それがこの監房の中にある音だ。

 ああ、最後の音。何か気になるだろう?

 それはな、同居人が彫刻刀で木を削っている音さ。

俺がこの房で奴と一緒になったその日から

いや、その前から削り続けていたらしい。

 片手に収まるほどの大きさの木片。

それを長さ数センチの刃で、俯き汗垂らしながら削ってやがるのさ。

しかもボロい刃さ。チラッと見た時に先っぽが欠けてるのがわかったよ。

まあ、それでも刃物だ。貴重品さ。

 奴がどうやってそれを手に入れたかは知らない。

 大方、どの刑務所にもいる調達屋のおかげだろうが問題は奴がそれをどうするかだ。

 眠っている俺の目に突き刺さなければ別にどうしようと奴の勝手だ。

わざわざクソを煮詰めたような性格の看守共に教えてやる義理はない。

 だから、俺は奴に訊ねた。

『アンタはそれを俺の目か、それともお好みの穴にぶち込む気はあるかい?』と。

 奴は手を止め、答えた。ただ一言『ないよ』と。そしてまた木を削りだした。

 無口でどうにも他人と関わるのが好きじゃない奴だと分かったが

それでも無害と決まったわけじゃない。

 俺は次に何を彫っているのか奴に訊ねた。


『マリアさま』


 そう言うと奴はその木彫りをくるりとこちらに向けた。

手を合わせた聖母様が軽く下を向いてこっちにお上品に挨拶しているみたいだった。

でもまだ全然だ。その手が変にぶっとくて笑いそうになっちまった。

 でもまあ、一先ずは放っておいても大丈夫そうだ。

そう思った俺は植物の成長を眺めるように

奴のマリア像の完成を楽しみにすることにした。


 奴はせっせと木を削り続けた。たまに俺が飛ばす冗談を耳にしながらな。

時々手を止めるのは奴が笑いをこらえているのか

それとも木彫りの構想を練っているのかわかりかねたが

奴が俺のことをそう嫌っていないことは何となくわかった。

 五月蠅いと言われたことは一度もなかったからな。

俺の人生の中じゃ耳が腐り落ちそうになるくらい聞いてきた言葉なのにな。

実際、ガキの頃、母親が泣いている俺の耳にアイロンを押し当ててきたこともあった。

 あの時は焼けて落ちるかと思ったぜ。股の間にできたイボみたいにポロッとな。

ははっ、こんな感じの冗談さ。笑えるだろ? 無理?


 で、その年の秋のことだ。

いつもの俺の軽口。奴はそれに珍しく反応した。

俺はああ、やっちまったかなって思ったね。その軽口っていうのは


「なあ、マリアって女は嘘つきのクソビッチなんだってな?

だってそうだろう? あの女はどこの誰とも知らない男と寝て妊娠。

それを旦那に知られるのが怖かったんだ。処女懐妊だって? 笑っちま……」


 ベッドの上で胡坐をかいていた奴がのっそりと

自分のベッドで寝ころぶ俺の方を向いた。

その目に怒りはなかった。ただ哀れむような目をしていた。

 俺はそれが気に入らなくて怒鳴ってやろうかと思ったが

何となく後ろめたさがあったから、ぐっと堪えた。

偉いだろ? はははっ、それが前からできていれば

刑務所に来ることもなかったかもしれないのにな。


 奴は少しするとまた壁の方を向き、木を削り始めた。

俺はボビーと目を合わせ、どうしたもんかねと溜息をついた。

 ああ、ボビーっていうのは迷い込んだハエのことさ。

 どういうわけか奴は出ていかないんだ。叩き潰す? そんな真似はしないさ。

でも言うまでもなく俺は聖人じゃない。暇つぶしのいい相手になるってだけさ。

 刑務作業場からくすねたタコ糸の先っぽに輪っかを作り、ハエめがけて投げるのさ。

当然、捕まえたことはない。

 でもこれが成功、それも百発百中にもなればこの刑務所から出たときに

ちょっとした一芸として稼げるかもしれない。

人気のテレビ番組に出てさ、ピエロの格好でもして

風船みたいにハエどもを引き連れて登場するのさ。

夢のような話さ。実際何度か夢で見た。

現実、いつ出ていけるのかもわからないってのによ。

 奴の木彫りの完成が早いかそれとも

俺がハエのボビーを捕まえるのが早いか、どっちだと思う?

 正解はどちらでもない。無効試合さ。

 ボビーは死んだ。

 そう、冬になったのさ。

この刑務所は夏は暑く冬は寒い。当たり前? いーや、とんでもない。

毎年何人か死ぬくらいキツいもんさ。

それが賭け事の対象になっているのは、まあ逞しいと言ってもらいたいものだね。


 冬の夜は特に寒い。まあ、毛布くらいはくれるのだけどボロボロ。

そして床は打ちっぱなしのコンクリート。薄いマットレス。木製の固いベッドの上。

 俺らがいる監房は二階だが、それが何だって話だ。

吹きすさむ風が房内をクソガキみたく駆け回って出ていったかと思えばまた入ってくる。

 ガチガチ歯音を立てながら手足を擦り合わせて暖を取る。

それでも寝入り、いつのまにか朝を迎えられるのだから

人間ってのはこれまた逞しいもんだよな。

 ……まあ、布団の中で奴が木を削り続けている音に耳を澄ませていると

なんだか安心して眠くなるっていうのはあったがな。


 だがある夜のことだ。奴の手が止まった。

先に寝入ったのかなと思ったがどうも違う。

 耳を澄ますと奴の呻き声が聞こえた。

咳もしている。そしてしきりに寒い、寒いって呟きやがる。

子守歌には程遠い。悪夢を見ちまうよ。

ハエが縄を俺の首に引っ掛けて引き摺り回すような悪夢をな。

 だから俺は自分の毛布を奴にかけてやった。

礼はいらなかったし、奴も言わなかった。ただ、木を削る音がまた聞こえ始めた。

いい音だった。静かな冬の夜にピッタリだ。

俺はこれでマリア様を侮辱したことをチャラにしたと勝手に思った。


 まあ、そのおかげで『俺、これ死ぬな』とも思ったけど無事、朝を迎えることができた。

 毛布はいつの間にか戻ってきていた。奴も大丈夫そうだった。

 沈黙が何となく照れくさくて俺は奴に『いつ完成するんだ?』と訊ねた。

奴は答えなかったが多分、完成したら見せてくれると思った。


 そしてまたある夜のことだ。これには参った。寒いなんてもんじゃない。

外で雪が絶え間なく降り続けていた。

 俺はガタガタ震えながら布団の中で丸まっていた。

するとだ、トントンと背中を叩かれた。最初は気のせいかと思ったが違った。

 奴が俺のそばに立っていた。幽霊かと思ったね。青白い顔でさ。

 でもすぐに俺の視線は下へと移った。

 体型に不釣り合いなポッコリ出たおなか。餓鬼みたいだった。

 奴は俺の手を取り、服をまくり、その腹に当てた。

 暖かかった。ああ、とてもな。

 それに動いたんだ。


「ここを出ていくね……ありがとう」


 奴はそう言うと俺の上に自分の毛布を被せた。

 そして、床にコトッと何かを置いた。

 で、奴は檻をすり抜け出ていったんだ。

俺は思った。ああ、奴は死んじまったってな。

 俺が奴が置いていったものに目を向けると

……ああ、あの瞬間は今でも鮮明に覚えている。

 木彫りのマリア様さ。

 雪雲の間から顔をのぞかせたお月様に照らされ

ただ、俺一人に微笑んでくれていた。

俺も奴と一緒にこのまま死んでもいいかなって思った。


 でも翌朝大騒ぎ。奴の遺体がなかったんだ。

いや、遺体なんてものはどこにもないのかもしれない。

 俺は叩き起こされ尋問を受けた。

 今みたいな話をしたよ。ああ、散々ぶん殴られた。でも、おなかの事は話さなかった。

 看守連中はわからずじまい。監房に残されていたのは木彫りのマリア様だけ。

あの晩に完成させて……いや、多分、もっと前からだ。

 マリア像は五月蠅い同居人を誤魔化すためのフェイク。

奴が本当に作りたかったのは木彫りの鍵だ。この監房から出ていくためのな。

 そう、奴は上手くやってのけた。脱獄したのさ。


 ただ、謎は残るよな。あのおなかの子。

まあ、それに関しては俺が見た幻覚だったのかもしれないが

でもあのおなかの子のためにここから出ていこうと決めたのだとしたら納得だ。

 相手の男は誰か? はははっそりゃ、やっぱり神様じゃないのか?

 それか……あの事件の後ここを辞めた男の看守かな。

木彫りの鍵なんてものは存在せず

格子扉を開けたのは奴と懇ろになったその男が手助けしたんだ。


 それともやっぱり奴が自力で脱獄したのか。

 ああ、神様が助けてくれたってパターンもあるか。はははっこれは俺の冗談。

まあ、何にせよどれを信じるかは自分次第だな。

 俺? 俺はそうだな……。まあ、神様ってのを信じてみたくなるね。

何度、春を迎えても、奴が捕まったって話を未だに聞かないことを考えるとさ。


 それに男ってのは女房でも平気で裏切るからな。

俺も旦那が裏切らなけりゃここに来ることなんて……まあその話はいいさ。

神様との子だと思ったほうが、これからも奴は捕まらないって気がするだろう?

 

 俺は信じるよ。

 だから、こうしていつもマリア様にお祈りしてるってわけ。

無くしちまわないようにタコ糸を結び付けてさ。

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