女王の島
先日、私は実家に帰った。父の退職を機に海近くのマンションを購入。
引っ越しをするので、いらない物を処分しろと両親に言われたためだ。
とは言うものの就職し、実家を出る際にほとんど処分したはずなので
ただ単に息子の顔でも見たいのだろうと若干、自惚れもしていたので
小学生の時の夏休みの日記、読書感想文ちょっとした賞状、卒業証書など
タイムカプセルを掘り返したように
古い焦げ茶色のタンスからそれらが出て来たことに驚かされた。
確実に私の物だが見覚えがない。母親にそう言うと「そりゃそうだ」と笑われた。
記憶というものは歳を取るにつれて色褪せていくとは聞いていたがその身で実感。
このように小学生、中学生、高校生と段々思い出せなくなっていくのかと
私は天井を見上げた。
……それは嘆きではなく、救い、懇願だった。
未だ色褪せず、記憶の中に留まり続けるあの事件。
今再び思い返し、書き記せば心に根付いたこの悪腫も少しは縮まってくれるだろうか。
それともいっそ映画を撮ってみるか。
心的外傷も悲劇も全て道具箱の中に仕舞った素材とし余すことなく利用するのだ。
元映画同好会の名に恥じぬ行いだろう。
そうだ、あの時もそんな風に強がりを言った気がする。
ああ……思い出してきた。やはり少しは色褪せていたようだ。
それが今、濃く、濃く……。これは救いとなるのか、あるいはその反対か。
何にせよ、今更止められないようだ……。
僕から俺に、俺から私へと、成長するにつれて一人称が変化した。
あの頃は、確か俺だ。声変わりは……してたはず。
……そう、中学二年生の時のことだ。
あの日、我々映画同好会は顧問の教員と共に
そう大きくはない遊覧船に乗っていた。
なに、不思議な話ではない。この顧問、時に色々なことを我々にやらせる。
経験、それも得難いものであればあるほど映画の理解度が増すとの事だ。
それについては異論はない。
運動部ではないと言えど体力が大事などとぬかし
ジョギングをやらせるよりよほど有意義だ。
私は大いなる海を目の前にし、家に帰ったら休日を利用し
シリーズ物のサメ映画をぶっ通しで観ようと思っていた。
白い塗装がはがれ、錆色の肉が露になっている船を見て
乾いた血の痕のようだと思ったのは当時、血が出る映画ばかり観ていたせいだろう。
嫌な予感? その時はしなかった。まったく。つまり、私もはしゃいでいたのだ。
だから気づかなかった。いや、中学生の私には気づきようがなかった。
海の時化も。船の整備不良も。
気がついたときには私の口の中の半分を湿った砂が占拠していた。
砂浜。
転覆。
大波。
穴。
船の漂流。
エンジントラブル。
逆から順に呼び起こされる記憶。走馬灯でないのが何よりだ。
みんなはどうしている? 生きているのか?
と考え、辺りを見回したらちょうど皆、近いタイミングで意識を取り戻したようで
修学旅行の朝のような妙な気分になった。
私含めて七人。そのうち、一人は顧問の大橋先生。
船長は……船と運命を共にしたようだ。
いや、確か救命胴衣を着け、真っ先に逃げ出したような気がする。
クソめ。まあ、それはいい。
私たちはまず生きていることを喜び、運の良さを称え合った。
流れ着いたのは無人島。そう大きくはない。
ここで重大なのは周囲に陸地が見えないことだ。
どこまで流されたのか。もしかしたら国外……。わからない。
船にいる間は虫かごの中の虫が子供に弄ばれるように
グルグルグルグルと為す術がなく
出来ることと言えば胃の中の物を洗いざらい吐き出すことくらいだった。
もう一つ重大なのは先生の怪我だ。どうも岩場に足をぶつけたらしく
折れた骨が洋服のハンガーを引っ掛けるによさそうな具合に脛から飛び出ていた。
それを見た三上が嘔吐。よくまだ吐く物があったと感心したが
その少し後にその内容物はこの島の木に実っていた果実だということが分かった。
逸早く目覚めた後、よくもまあ警戒せず食えたものだとまた感心した。
赤く、大きさもマンゴーによく似た実だった。
ただ、果肉はブルーベリーのような色をしていた。
この島の浜辺を除く至る所に自生している。
首ほどの太さの幹。葉は天狗の団扇のよう。
背丈はまばらだが高いものでも取ることはそう難しくはない。
一つの木に実は二十から三十ほど。
それが糸を垂らす蜘蛛のように細い茎についている。
あるいは……いや、これはいい。
とにかく簡単だ。引っ張るだけでプチンとすぐに取れる。
水分もこれで補える。量があるからしばらくは大丈夫だ。心配はない。
そう、お互いを元気づけた。
先生はとりあえず、引きずるように運び、岩陰に入れた。
日差しが強く、季節は秋だが暑かった。が、夏日もある。そう不自然な事ではない。
だからきっとここはまだ国内だ。だからすぐに助けが来る。
そう言い、私たちは待ち続けた。捜索隊を。偶然、船が、飛行機が通るのを。
しかしどれも来なかった。
とは言え、そう長い時間が経ったわけではない。
しかし、本もゲームも映画もない状況だ。暇つぶしも限られてくる。
そして、それらは現実逃避させてくれるほど面白くはない。
先生は痴呆老人のように果実を求め続けた。
渡さないとひどく嘆き、懇願し、罵った。
見捨てられ、飢え死にするかもしれないという恐怖もあったのだろう。
我々が怪物に思えたのかもしれない。
教師であるがゆえに子供の残酷、冷酷さを良く知っている。
終いには赤子のように泣き出すので果実を与え、静かにさせた。
そんな先生にこそ私は恐怖心を抱いていたがもう一つ恐れていたことはこの果実だ。
先生のあの様子は異常だ。
もしかしたら中毒性があるのでは?
先生はそれに蝕まれているのでは?
そう考えたが、他に食料はない。
石を割り、その破片で木の枝を削り即席の槍を作ってはみたが
これで魚を捕れる気はしない。火起こしも同様だ。
とりあえず、何か役に立つ知識はないかと
脳をぎゅっと絞り、無人島を舞台にした映画を思い出してみるが
ウィルソンという名のバレーボールしか思い浮かばなかった。
そしてそれすらここにはない。
それからしばらく時間が経った。
しばらくと言ってもこの島に来てからどれくらいの時間が経ったのかはわからないが。
私たちは腹が減ったら果実を食らい、眠くなったら眠る。
そんな原始生活に先祖返りしていた。
そう原始的。法より己の欲求に従順な時代。
食欲。睡眠欲……そう来ればあと一つは性欲。
我々映画同好会の中で、そしてこの島にいる女性はただ一人。大友芳江だ。
浜辺の四角い岩の上、制服のスカートが風でなびき、太ももが露になる。
それを見た横田が生唾を飲み込む瞬間を私は見た。
おいおい冗談だろ?
と、この言葉には二つの意味がある。
まず、大友芳江は美人ではない。お世辞にも平均的でもない。
尤も、中学生だ。これからどう化けるかは誰もわからない。
だが順当に進化するなら、その先はトロールといった怪物の類だろう。
ボサボサの眉は目の上に毛虫が乗っかっているみたいだし
その目は段ボールの切れ込みみたいに細い。
浅黒く、頬はジャガイモのように荒く、ぽってりしている。
そして先程述べた太ももは太い。いや、太い。本当に。
そしてもう一つの意味は、これはアナタハンの女王事件の再来なのか?
奴がこの島に君臨する女王蜂となるのか? という事。
が、我々は中学生。性に対する興味にはバラツキがある。
当時、私は女子からの「おはよう」などの挨拶も返さず
無視するのがカッコいいと思っていた人間だ。
思春期の気の迷い。アンバランス。混乱の渦中。
変な意識はあれど、性的欲求の対象ではなかったように思う。
少なくとも大友芳江だけはない。
しかし、同時に我々の想像力というものは広大無辺。
この島に何年いるのか。あるいは何十年。
成長し、肉体が大人になればその本能を自制するのは難しい。
とうとう、セックスしたいなどとぼやき始めた先生を横目に見れば
そう思うのも無理はない。
今、スタートダッシュを決めれば後半、有利になる。
そう考えたのか、横田は大友芳江に歩み寄った。
会話の内容は距離と風の音に阻まれ聞こえはしなかったが大体こんな感じだろう。
「やあ、元気? 大変なことになったね」
「そうだね」
「……何かあったらさ、言ってよ。力になるし、話聞くよ?」
「そう……」
「……」
「……」
大友芳江は明るい人物ではない。人との会話より独り言の方が圧倒的に多い。
そして悲しいかな、それが我ら映画同好会の紅一点。
つまり、同じ穴の狢。我々も似たようなジャガイモなのだ。
が、それを超越するのが閉鎖空間の魔。
いずれ、あの女も横田同様にこの空気に汚染され、勘違いし、つけ上がるだろう。
現に、奴は風でなびく髪をまるでシャンプーのCMの女優のようにかき上げている。
このまま変貌を遂げるのか。しかし、それは蝶ではない。蛾ですらない。
蛹から出てくるのはただ、より太った芋虫だ。
「見るに堪えないな」
私の隣に来てそう言ったのは根岸。彼はヒーローものの映画が好きだ。
自分と重ね合わせる癖があったがこの状況下で、それは助かる。
親愛なる隣人に越したことはない。
因みに横田は昔のホラー映画が好きと言うが
それは単に女の裸がやたら出てくるからという理由なのは知っている。
三上は料理系。それとコメディ。どちらも無害だ。
この島の果実がなくならない限りはだが。
横田はまずまずの手応えだという顔をしながら、大友芳江から離れた。
大友芳江はブツブツ何かを呟いている。
私は根岸に肩を叩かれ、ついてくるように言われた。
用件とは先生の事だった。
先生はミルクを欲しがる赤子のように朝昼晩の三食の法則を無視し
絶えず、島の果実を求め続けていた。
それに対し、働きアリのように従順に食料を運び続けるのは小谷。
彼の好きな映画はその小柄な見た目に反し
アクション系。主に肉弾戦のある洋画が好きだ。
いや、その小柄な体だからこそ憧れを抱いているのかもしれない。
何にせよ、気弱で優等生。
島に来た当初から先生の面倒を見ているのは自然な事だと言える。
しかし今、その先生の様子がおかしいときた。
そんな事、この島に流れ着いた当初からだと思ったが
その姿を目の当たりにして私は愕然とした。
口周りとその直下、白いシャツはブルーベリー色の果汁で汚れ
捲れ上がったシャツの下からポッコリと、お腹が膨らんでいた。
顔は青ざめ、汗をかいて髪が乱れているからだろうか
全体的に溶けたような、浜辺に打ち上げられたクラゲを連想した。
「まさか、ずっと食べ続けているのか?」
私は先生の横にある未だ手つかずの果実の山と
その反対側にある食い散らかされた果実の残骸を見てそう訊ねた。
小谷は無言で頷いた。その間も先生は口に果実を運び続けている。
足だけじゃなく、両腕も折れていたら良かっただろうか
いや、もしそうだったらきっと喉もつぶれていてほしかったと思うに違いない。
食べすぎですよ、と果実を取り上げようとすると先生はひどく喚き散らすのだ。
尤も、そう強く止める気はなかった。
正視に堪えない。口の中に運び込まれる果実は膨らんだニキビが潰れるように弾け
その溜め込んだ液を撒き散らすのだ。
こんな先生の世話をする小谷を尊敬し、また哀れんだ。
でもその役を代わる気にはなれなかった。
私の役目は見張り。船か飛行機が通らないか水平線を見つめるただそれだけ。
でも重要なことだ。小谷以外の五人が島の端に散らばり、ただ待つ。
まあ、船が急に現れることはない。十分、二十分おきに見れば問題はない。
飛行機は空を見上げれば済む話だ。
だからある時、私は様子を見に行くことにした。
大友芳江のところにだ。
と、その道中、横田とばったり出会った。
そう、私が大友芳江の様子を見に行こうと思ったのは
この男こそがうつつを抜かし、役割を放り出しているのではと考えたからだ。
……では最初から横田の方へ向かっていればよかったのでは?
そう気づいたがもう時すでに遅し。
横田の顔に見る見るうちに嫉妬と怒りの念が浮かび上がってきたのだ。
「どこへ向かうつもりだ?」と横田。
正直に話そうが、果実を取りに行くあるいは小便に、と嘘つこうが関係ない。
信じてはもらえないだろう。
「別に」とそっけない返しをすると
横田は逡巡の後(恐らく、私に掴みかかるかどうか悩んだ)
鼻をフンと鳴らし、ズンズンと木々の間を進んだ。
私はその後に続いた。ただし、距離は空けて。
横田は大友芳江と会話しながらチラリとこちらを見た。勝ち誇った顔。
それはいいが、お前の横にいる女は掲げるほど輝かしい物ではないと思う。
しかし、どうにも私は嫉妬に喘ぐネズミのような配役を与えられてしまったようだ。
ふと、横を見ると果実をつけた小さな木があった。私と同じくらいの背丈。
まあ、食べなよ、と私を慰めているような感じがした。
だから、違うって。そんな気はないんだ。
私はそう心の中で答えながらも果実を一つ、木からもいだ。
島の夜はそれほど恐ろしくなかった。
島の中に襲ってくるようなイノシシなどの獣がいないことは
散々歩き回ったからわかっている。今のところはだが。
先生が喫煙者であることを思い出し、まさぐり、ライターを見つけたので
火を起こすのにそう苦労はしなかった。
キャンプファイヤーとはこんな感じのものだろうかと
それなりに心が浮き立ち、果実を焼いてみたり木の枝を投げ込んだりして楽しんだが
それも最初うちだけだ。火はただの火でしかない。
見つめながらどうか、この明かりをどこかの船や飛行機が見つけますようにと
願ってみたりしたが、ただバチバチと枝が音を立てるに終わった。
何度目かの夜、根岸が果実を食べながら横田に訊ねた。
「あまり食べないんだな」
「……ああ、何か胸がいっぱいというかさぁ」
横田は波打ち際を歩く大友芳江を見つめながらそう答えた。
私も根岸も何も言わなかった。お互い見合わせ、ただ黙って果実を食した。
しかし、何日かすると横田と大友芳江の楽しそうな声が島のどこからか聞こえた。
追いかけっこのようなやり取りだった。
私は大したものだとどこか感心しながら果実を食した。
たまに根岸や三上といった他の者と顔を合わせると
口周りが青い果汁で薄汚れているのが見受けられた。
制服の白いワイシャツも言わずもがな。汗と泥と果汁で汚れていた。
でも、大して気になりはしない。人間の順応性というものは中々大したものだ。
それから何日か経った。何週間。何年と。
だがその島でではない。我々は意外にも早く救出されたのだ。
尤も体感、この島で過ごした時間は長かったが。
外国人の船だった。彼らは我々を船に乗せ、慌ただしく島から離れた。
それからこれもそう長くはかからなかったはず。
我々は海上自衛隊の船に引き渡された。
船に乗った瞬間、県外への旅行、その帰りの電車。
自分が住む町から四、五離れた駅を通過した時と同じような気持ちを抱いた。
もうすぐ帰れるんだ、と。
我々はばらつきはあったが少しの間入院。その後、日常生活に戻った。
先生は一度も学校に戻ることないまま辞職。
事件の責任を感じたというよりは
ぼんやりとしていて、まだ心が島から帰ってきてないといった話だ。
その流れで映画同好会は自然消滅。
横田と大友芳江は付き合い始め……はしなかった。
横田は武勇伝を吹聴し、目立ちたがり屋が好きな女子をうまく捕まえたようだ。
中学を卒業してからの事は知らない。各々、普通に進学し、就職でもしたのだろう。
あの島について何度もネットの海の中を探し泳いだが、まったく見つからなかった。
小さな島だ。不思議な事ではないのかもしれないが何度も、何度もだ。
諦め、また探し、また諦めて思い出だけを抱いた。
別れた元カノ。あるいは初恋相手。憧れのマドンナ。その姿を何度も、何度も……。
あの果実……。
ああ、堪らない……。
先生、三上、小谷は死んだ。
あの果実を多く食べていた順にだ。
私にはわかる。
耐えられなかったんだろう。あの果実の無い生活に。
あの果実を食べて以来、私の中の欲と言う欲は
全てあの果実への食欲へと置き換わってしまったようだ。
あの時、まだ芽のような性欲はそのまま腐り消えた。
カウンセリングに通い、どうにか想いを押し殺して生活してきたが
限界に近いと私は常々、感じていた。
そして、実家で見つけたボロボロになった制服。
黒のスラックスのポケットにそれはあった。
小さな黒い粒。あの果実の種だ。
うまく隙間に入って、検疫から逃れていたのだろう。
萎びている。当然だ。だが種は死んでいない。
確信というよりはただ信じたかった。
そして祈りは届いた。植木鉢に埋めると数日で芽が出始めたのだ。
すごい成長速度だ。私の欲に応えてくれているかのように。
そうだ、この果実も私に食されるのを待っていたのだ。
ああ、待ちきれない……。あの柔肌のような感触……。
あの島に女王蜂はいなかった。
ただただ蜜を自分のために好きなだけ嘗め尽くしただけ。
それが幸か不幸かはこの果実を広め、世の中に判断を仰ぐとしよう。
私はもう、世の中がこの果実でいっぱいになる事しか考えられないのだから。




