信じれば飛べる
穏やかな日差しが降り注ぐ休日の午後。
山頂で一人、景色を堪能したコトミはその下山途中、足を止めた。
あの人……。
崖の先端に立ち、時折、下を覗き込むように見る男。
その異質とも言える風体からどうしても嫌な想像が頭に浮かび、離れようとしない。
自殺。
あの男はその決心がつかずにその場に留まっているのだろう、と。
ただの杞憂。
そうとも言い難い。
何故ならその男はコトミが山を登っている時もそこにいたのだ。
ただ景色を楽しんでいるにしては長い。
それにそもそも楽しそうには見えない。
声をかけるべきだろうか。それとも無視して下山する?
でも死なれでもしたら後味が悪い。家に帰った後、ニュースで知るのなんて嫌だ。
せっかくの有給に水を差された気分になる。
でも、どう声をかける? 命は尊い? ありきたりだ。
自殺志願者を説得できるような言葉は持ち合わせていない。
周囲に人はいないから相談もできない。
とりあえず、一声。それぐらいかけてみようか
そうだ、まだ自殺する人と決まったわけじゃない。
やっぱりただ景色を楽しんでいるだけ。そう聞いて安心したい。
そう考えたコトミはフゥーと息を吐き、意を決し男に声をかけた。
「あ、あの、良い景色ですよね!」
「……ええ、本当にいい景色ですよね。飛ぶにはいい場所だぁ」
コトミの淡い期待は僅か一往復で脆くも崩れ去った。
声をかけた手前、逃げるように立ち去るのも気が引ける。
駄目で元々。説得するだけしてみようとコトミは考えた。
「あ、あの、その、飛び降り自殺なんてやめた方が……。
ああ、ほら、きっとあなたが死んだら悲しむ人がいるでしょう?」
そう言った後、しまったとコトミは思った。
そんな人がいるのならそもそも自殺なんて試みないだろう。
あるいは悲しむ人はいるが、それ以上に死を決意する事情があるのかも。
だが、男の返答は意外なものだった。
「飛び降り? ははは、違いますよ。飛ぶんです。空をね」
「そ、ら? 空を?」
コトミは話しかけたことを益々後悔した。
この男、頭がどうかしている。
虚ろな目で空を見上げ、わずかに口元が緩んでいる。
もしかしたら麻薬中毒者かもしれない。
何にせよ、死ぬ気はないとわかった。できるだけのこともした。
たとえ、結果がどうあれ、あとはご勝手に。
そう考えたコトミはそっと後ずさりした。
「信じれば飛べるんですよぉ!」
突然、男が声を張り上げたのでコトミは体をビクッと震わせた。
「あなたは……まだ飛べないと思いますか?」
「と、う、さすがに無理じゃないかな、と……思います」
「それは残念です……信じれば誰でも行けるのに」
男はそう言うとスゥーっと
まるでエレベーターに乗っているように空に上昇し始めた。
え、え? と戸惑うコトミをよそに男はそのまま空に昇り
やがて米粒ほどの大きさに見えるまで遠く離れ、そして見えなくなった。
「ほ、本当に? 飛べる? いや、そんなことあるはずが……。
そう、幽霊! きっとそうよ……」
コトミはそう呟き、崖の下を覗いた。
するとコトミは悲鳴と息を呑んだ。
いた。
そこに男が。ただし糸の切れた操り人形のように手足が折れ曲がっている。
眼窩は空に向いているが眼球は潰れたように真っ赤だ。
そして、さらにその下には
「わ、わた、わたし……?」
コトミがいた。
男と同様に手足が折れ曲がり、男と重なるその姿は
まるで交尾中の虫を踏みつぶしたようなそんな不快感があった。
自分自身の死体。
それを目の当たりにした瞬間、コトミの足元が揺らいだ。
あ、落ちる。
引き寄せられるように崖の下へと落下する中
走馬灯と呼ぶには甚だ短く歪な記憶が呼び起こされた。
そうだ……山を登っている最中にあの男に声をかけたんだ。
でも、さっきみたいに男は訳の分からないことを言っていて……。
怖くなってその場から離れようとしたとき、抱きしめられそのまま二人、崖の下に……。
信じる者は救われる。信じれば天国へ。
そう理解してもまだ飛べるとは思えなかった。
罪の意識なき悪人はどこへ行く。
余りにも理不尽なその仕組みに
コトミは怒りとも嘆きともとれる叫びを吐き出しながら
崖の下、地面を越え、さらに深く、暗闇へと落ちていった。




