逆再生
「お、おい」
「ん?」
「あのレーン。あそこで泳いでいる人、あれ、後ろに進んでいないか?」
「いやいや、あの泳ぎ方でそんなことできるはずが……
おいおいおい! どうなっているんだ!」
始まりは殆ど同時だった。
朝、とある会社員が会社の中に一歩足を踏み入れた瞬間
前を向いたまま後ろに歩き出した。
その表情は戸惑いそのもの。受付係の女性社員も目を丸くした。
まるで逆再生。すれ違う人が奇異の目で彼を見る。
「だ、誰か止めてくれ!」という叫びも
朝から何ふざけているんだと呆れ顔で返された。
ぶつかりそうになり怒号を浴びせられもした。
訳が分からず、恐怖で背筋が凍るその最中
彼は来た道をまったく同じように戻っていることに気づいた。
このまま自宅に戻るのか。労力の無駄、まあ出社しただけだが。
家に着いてからタクシーを飛ばせば会社に間に合うだろうか。
しかし、また逆再生したら?
いくらか冷静さを取り戻した、いや取り戻そうとした彼はそう考えた。
しかし、逆再生しているのは自分のみだということまでに考えが及ばなかった。
つまり、電車はタイミングよく戻ってはこなかった。
彼は後ろ向きのまま駅のホームから一歩線路に出た。
そして、そこに来た電車と衝突した。
こうした事件が数多く起きた。原因不明の奇病、現象。
ただならぬ様子だと気づき、止めようとした人もいたが理の力とでも言うのだろうか。
太陽が沈み、月が出るのと同じように誰にもどうすることもできない。
女性一人に対し男三人がかりでも男が引き摺られる始末。
一秒も止められはしなかった。
閉まったドアがあろうともお構いなし。ドアをぶち壊し、進んだ。
それが子供であっても同じこと。
自転車で母親に幼稚園に送り届けられた幼稚園児が
自転車の後部座席に乗った姿勢のまま宙を平行移動し、自宅に向かっていくのを
その母親が自転車で追いかける映像はネット上で数億回再生された。
もはや超常現象であることに疑いはない。逆再生する時間も人それぞれ。
現段階の世界記録は二十二時間四十二分のアメリカ人男性だ。
彼はほとんどホテルで過ごしていたから最初のうちは問題なかったが
飛行機に乗っていたのは運が悪かった。
その日、多くの人がフライングヒューマノイドの目撃者となった。
またあるアメリカ人男性は強盗後、バイクで逃走中に逆再生が始まり
バイクに乗った姿勢のまま後ろに平行移動し、追跡中のパトカーを撥ね飛ばした。
何故、人体にしか及ばないのか。そのうち機械や動植物にも及ぶのか
分からない。専門家などいはしないのだ。
国民に注意を呼びかけるくらいしか政府はできなかった。
無敵。決して止められない。何ものにもだ。
つまり、幸いにも逆再生する人々は
何かに守られているように逆再生が終わるまで怪我など体に影響はない。
先の電車と衝突した彼も電車を突き抜け
そのまま宙に立った状態で線路の上をなぞる様に自分が乗ってきた駅まで移動した。
が、逆再生が終わるタイミングによっては悲惨だ。
ある運転手が奇妙なものを目撃し、車を止めて降りた。
下降する蜘蛛のように男が橋の上から両手を広げズリズリと降りていく。
そして、ある位置でその動きが止まると、急激に飛び上がったのだ。
一回、二回、三回と跳躍。そして最大の伸び。
そう、バンジージャンプだ。
だが、その逆再生は男が橋に足を着ける直前で終わった。
男はそのまま紐なしで落下した。
一連の流れの中、その男は声が枯れるまで悲鳴を上げていたという。
運のない奴だ。テレビの前でそのニュースを見て、そう呟く者が多くいた。
みんな、家の中で安全に過ごす事が最良と考えたのだ。
テレビの前、ソファーの上なら逆再生が始まっても大した影響はない。
映画の連続放送なら、尚の事。
テレビ局も『お家時間を安全に楽しもう!』と銘打って特番を組んでいる。
だがDVDなどで見るのとは違い、良いシーンを戻せないのが残念だ。
男は一人、リモコンをチラリと見てそう思う。
もしかしたらここが何かの映画の世界で
見ている者が良いシーンで逆再生し、その影響が……。
いや、宇宙人の実験……。
神の悪戯……。
……なんて説はもうワイドショーで聞き飽きた。
なるようにしかならないさ。
人間も農作物と大して変わらず地球温暖化だの寒冷化だの
どうにもならないようなデカい影響は受け入れるしかないんだ。
そう、まさに前向きに。ふふ、上手いこと考えたな。SNSに投稿しようか。
あの泳ぎの動画も大分話題になったからな。とっさに撮っといて良かった。
……と、駄目だな。
この前、地面に落としたのがよくなかったらしい。スマホの画面がチラついている。
それにこの前、音も変だった。そろそろ買い換えないと……。
……壊れる……前兆。不具合の続出。
これも、もしそうだったら……?
もっと大きな、そう、地球がそのうち逆回転を……。
それだけで済めばまだいいかもしれないが、いずれ停止……。




