ハッピーエンドアレルギー
「この俳優きらーい」
ユカがアイスを片手にそう言ったのを
ソラはそれが独り言なのかそれとも自分に言ったのか少し考えた。
ユカがソラのほうをちらりと見て、それで目が合ったので
ソラは取り繕うような咳払いを一つした後、言った。
「どうして?」
「だって性格すごく悪いんだもん」
「おいおい、それはそういう役だからだろ?」
「でも他の映画だって悪役ばかりだよ?
きっと性格が悪いからそんな役しか来ないんだよ」
「じゃあ、その映画に出ているその悪役の意地悪な母親役も嫌いか?」
「……そんな訳ないじゃん……バカ」
「悪い、忘れてくれ」
ユカはツンと顔を背けた後、テレビに近づき、画面に触れた。
すると
「え! 嘘! 何これ!」
「お、おい! ユカ!」
「お兄ちゃん! 助けて!」
テレビに触れた指がまるで底なし沼に沈むかのように引き込まれていく。
駆け寄ったソラがユカの腕を引っ張る。
「痛い痛い!」
「我慢しろって! クソッ!」
「痛い! ちょ、痛いってば! この!」
ユカの横蹴りがソラの脇腹に直撃し、うっという短い悲鳴と同時に
ソラはテレビに体をぶつけた。
そして二人はそのままテレビの中へ引き込まれていった。
「うぐ!」
「うわ!」
「きゃ!」
「いたた……お兄ちゃん大丈夫?」
「ああ、何とかな。腹は痛いがなぁ!」
「ははは、ごめんて。でもここって……」
二人が見上げたのは夜空とアイボリー色のお城。
間違いなく、直前まで見ていた映画に出てきたものだ。
「ああ、あの中庭だな」
「私たち、映画の中に入っちゃったってこと?」
「そんな馬鹿な……夢に決まってるだろ」
「でも夢ならまだ覚めないで欲しい……かな」
「ん、ああ……」
「あれ?」
「どうした?」
「さっき、悲鳴がもう一つなかったっけ?」
「ああ、そういえば、うお!」
二人はそこでようやく一人の男を下敷きにしていることに気づき
慌てて飛びのいた。
「この人死んじゃったの……?」
「いや、まさか、気絶しているだけだよ。ほら口が動いた。お?」
「あ! この小太りの人、水吹き男!」
「水吹き男って……ああこの悪役、確か王子役に水を吹きかけたんだっけな」
「そ。ホントイヤな奴。まあでも最後、ヒロインは
コイツとじゃなく王子様と結婚するんだけどね」
「でもマズくないか?」
「ん、何が? せっかくだし蹴りいれようよ」
「やめろっての。いいか、確かコイツは立小便するためにここに来たんだよな?
でもいつまでも気絶したままだと
話が進まなくて物語に支障が出るんじゃないか?」
「んー平気じゃない? あ、やば! 誰か来た!
隠して隠して! で、私たちも隠れよ! 怒られる!」
「あ、ああ」
「子爵殿? コールギス子爵殿?」
「そうだ。確か小便中、お付きの人に呼ばれて慌てて出て行くんだったな」
「そうそう、で、ズボンに足をとられて転んでオシッコが自分にかかっちゃうんだよね」
「子爵殿ー。コールギス子爵殿ー!」
「どうしよう、こっちに来るよ! 私たち見つかったらどうなるの? 牢屋行き!?」
「ま、任せておけ。あー『ここだ、ここにいるが後にしろ、今取り込んでいるんだ!』」
「お、声真似上手いね」
「昔、何度も見た映画だからな」
「でも最近は見てないね」
「ハッピーエンドが嫌いなんだ。体が痒くなる」
「はー、思春期ね」
「うるさい」
軽く言い合いながらも上手くいったと二人は顔を見合わせて笑った。
だが、茂みの中にいるソラの腕を突然、手が掴んだ。
そしてソラはそのまま引き出された。
「う、うわ! あ、あの俺」
「……コールギス子爵殿。そろそろ来て頂かないと」
「え、あ、あえ?」
「どうされましたかな? ん? そちらにいるお嬢さんはどなたですか?」
「え、いやこれは俺の妹で」
「妹? コールギス子爵殿は一人っ子のはずでは」
「え? ああ、従妹だよ従妹! 言い間違えたんだ」
「ああ、そうでしたか。では参りましょう」
二人は執事風の男の後に続いて歩く。
「お兄ちゃん、どうなっているの?」
「わからない。まるでアイツの代役……。
そうか、あれじゃないか? トランプの箱に入っている白紙のカード。
無くしたときに代わりに使えるようにってあるやつ。
俺たちはそういうものじゃないのか?」
「ふーん、でも妹はいないって言ってたよ」
「確実に設定にないものにはなれないんだろう。
従妹はいるかどうかわからないからいけたんだと思う。親戚くらいいそうだしな」
「この後ってたしか……」
「ああ、パーティ会場で――」
「ご馳走!」
「じゃなくてほら、ウェイターに変装した王子役が
婚約者であるヒロインの部屋に向かうのを見て」
「後をつけて部屋に入って」
「慌ててバルコニーの柵に掴まって隠れた王子を」
「突き落としちゃうんだよねー」
「でもそれで王子は物語の冒頭の事故で無くしていた記憶を取り戻して」
「対決! ハッピーエンド!」
「お二人とも、立ち止まって何をしておられるのですか? さ、早く」
「はーい!」
声を揃えてそう返事した二人は
執事の背に続いて中庭から出た。
はしゃぐその背中を見ていた者が一人。
「う……昔見ていた映画? ……映画……映画・……」
「わぁ……」
大広間にて二人は歓喜の声を漏らした。
豪華絢爛、見たことのない料理と華やかな衣装に身を包んだ人たち。
「すごい! すごいね! それに、この人たちエキストラなのにみんな綺麗!」
「しっ! 聞こえるぞ! ああ、でもこうして立体で見ると
何もかもテレビとは迫力が違うな。匂いも味も、うん、うまい」
「ずるい! 私も食べる!」
二人は料理に夢中になる余り、ウェイターに変装し
こっそり階段を登る王子役に気づかなかった。
そして、それを追う影にも……
「ふー、食べた食べた。本当にこれ夢かなぁ」
「ま、味がすることもあるだろう。あ!」
「え? あ! そうだよ! ヒロインのお部屋に行かなきゃ!」
二人は慌しく階段を駆け上がった。
「間に合うかな?」
「まあ、行くしかないだろ」
ソラはドアをノックした。
「はい」
透き通る声。なぜだか花の香りがした気がした。
ドアを開けて中に入った二人は思わず息を漏らした。
「……美人だねぇ。さすがヒロイン」
「ま、ヒロインだし当然だろ」
「いや、クールぶってるけど顔、ニヤケてるよ」
「うるさいな!」
「あの、子爵様? そちらの方は……」
「ん? ああ、従妹だよ」
「そう、ですか」
「うん」
「……」
「……」
「ちょっと、お兄ちゃんの台詞の番だよ。何か言わないと先に進まないじゃない」
「ん、ああ、えーっと『ご機嫌いかがかな! 麗しの我が愛しいライザよ』」
「声真似はしなくてもいいんじゃ?」
「いちいち、うるさいな!」
「ええ、いいですわ……」
明かりもつけていない暗い部屋。
それよりもライザの暗く、沈んだ顔にソラも思わず気が沈んだ。
バルコニーの向こうに時々見える打ち上げ花火がライザのその横顔に色を付ける。
ソラの背中をユカが押す。
子爵は台詞を言いながら、部屋に潜む侵入者を捜し歩くのだ。
そして、バルコニーの柵の下部に見える指に気づき、歩み寄る。
それを隠すようにライザが回り込むがすでに時遅く、子爵はライザを突き飛ばし
ぶら下がる王子役の指を踏みにじり、王子役は落下。
しかし、木の枝が落下の勢いを殺し、何とか怪我なく芝生の上に落ち
さらに、その衝撃で自分が王子であることを思い出した上
記憶を無くすきっかけとなった馬車からの落下事故が
子爵に突き飛ばされたことが原因だったと知るのだ。
ソラはその筋書きを頭の中で反芻しつつ、その通りに動いた。
しかし、バルコニーに歩み寄ってもライザは動こうとしない。
「ちょっと、ユカ」
「うん、変だよね。だってそこに……あ!」
「どうした?」
「いない! 王子役がいないよ!」
「え! まさか来るのが遅すぎた?」
「どうしよう!」
「どーう! されましたかなお二人さん!」
部屋のドアを勢いよく開けて中に入った男がそう言った。
子爵だ。鼻を膨らませ、ヅカヅカと歩く。
「あ、あれ? 子爵様……。あ、あ。あれ? その子たちは?」
混乱するライザ。ユカとソラ、二人に目を向けると
まるで今初めて見たかのような顔になった。
「どうしよ! 本物が来て役が取り返されちゃったんだよ!」
「ああ、でもまあ子供だし見逃してもらえたり……」
「そーう! はいかないんだよお二人さん!」
「うわ、聞こえてた!?」
「そう、私は耳がいいんだぁ。今のも、さっきのも聞こえていたよう?
映画、そう映画。私は悪名高き海賊キャプテンボルグ!
そして狂気の科学者、ドーロソン博士!
そしてそして連続殺人鬼、アステンの切り裂き魔!」
「こ、これまであいつが演じた役だ……」
「どういうこと! 記憶が混ざっちゃったの!?」
「いずれも私は敗北したがここではそうは行かないよ。
まずは邪魔者である君たちを始末しようか」
子爵はそう言うと指を鳴らした。
「……」
「……」
「……ああ、もう、ほら来い! 衛兵! 衛兵!」
衛兵が勢いよく部屋の中に入ってきて、二人に槍を向ける。
「子爵様! その二人はまだ子供です! どうか手荒な真似は――」
「うるさい! 黙ってろ!」
二人をかばおうとするライザ。それを子爵が無情にも突き飛ばした。
「ちょっと! 何してんのよ!」
「あ、ユカ!」
ユカが子爵の股間めがけて蹴りを放った。
ふぐっと言う声。子爵が身を丸めるとその横を二人が走りぬけた。
「ナイス!」
「当然!」
しかし、衛兵が二人の後を追う。
懸命に走るがすぐに追いつかれてしまうだろう。
そう考えた二人はドアが少し開いた部屋を見つけ、中に飛び込んだ。
耳をドアに押し当てる。衛兵はどうやら通り過ぎたようだ。
二人は安堵の息を吐いた。
「そこで何しているのですか?」
後ろからの声に驚き、二人はその場で飛び跳ねた。
そしてゆっくり振り向く。
「マ、ママ……」
「ママ? あなたみたいなみすぼらしい子を産んだ覚えは――」
そこで子爵の母親は言葉を止めた。
駆け寄った二人に勢いよく抱きしめられ、肺の空気が言葉になることなくただ出たのだ。
ソラとユカ。二人の兄妹の母親は女優だった。
そう、車の事故で命を落とすまでは。
そしてその母が今、目の前にいる。
湧き上がる感情を抑えきれるはずがなかったのだ。
「おおっと! 我が母上様に何をしているのかな?」
ドアを開けた子爵がそう言った。次いで衛兵が部屋の中に踏み込む。
「その二人、連れて行ってもよろしいですかな? 母上」
「……当然よ。この小汚いのと同じ空気を吸いたくないわ。早く連れて行きなさい」
「ママ! ママ!」
衛兵に腕を掴まれ、引っ張られるユカが必死に叫ぶ。
それを子爵の母親は冷たい目で見つめる。
だがこの時、ソラの頭の中は思考が渦巻いていた。
――なぜ子爵はここまで必死なんだ?
股間を蹴られた復讐? いや、何かマズいことでも……そうか!
ソラは結論に達するや否や叫んだ。
子爵が二人の口を塞ぐよう命令するコンマ数秒前だった。
「マイティガール!」
それは二人の母親が若かりし頃に演じた役だった。
コスチュームに身を包み、夜な夜な悪を成敗する人気シリーズ。
二人がそれを口にすると母親は照れたように笑った。
役名を口にした瞬間、その笑顔を思い出し
兄妹二人の心に春風のような温かい感情が流れ込んだ。
そして子爵の母親の目に灯がともった。
「は、母上?」
子爵の母親は応えなかった。
代わりに繰り出した拳がユカを捕まえていた衛兵の顔面を打ち抜いた。
「クソ! やれ! 殺せ!」
子爵はそう叫び、部屋の外に飛び出した。
衛兵が剣を抜く。マイティガールは自分のドレスを裾から引きちぎり
それを向かってきた衛兵の腕に、更に首に巻きつけ引き絞り、膝裏を踏みつけ倒した。
衛兵の手から落ちた剣を手に取ると
ソファーの上に飛び乗り、向かってくる衛兵たちと剣を交える。
「追いなさい! 早く!」
「ママ……」
ソラは躊躇うユカの腕を引き、二人は部屋から飛び出した。
「……ママ、ありがとう」
ユカの去り際の涙交じりの呟きにソラは聞こえないふりをした。
部屋を出て廊下を走る二人は
大広間で悲鳴が上がるのを耳にし、駆けつけた。
「よーよーよーお! 二人さん!」
汗をかき、ニヤリと笑う子爵。
その腕の中にはライザが。そしてその手にはナイフが握られていた。
「何を!」
「人質なんてズルイ!」
「はっ、何をって見りゃわかるだろう? お前さんたちガキは恐れるに足りないが
あのババアは手強いからな。まあ念のためだ。ほら、言わんこっちゃない」
二人と子爵の間にマイティガールが舞い降りた。
「ママ!」
「……その子を放して」
「嫌だねぇ母上様よ」
子爵が笑う中、ソラはある違和感を覚えていた。
『まあ念のため』一体どういうことだ?
勝つ見込みがある奴が言う台詞だ。
考えるソラの頭上に影が現れた。
それが飛んできたテーブルであることを脳が理解しても体はすぐには動かなかった。
間一髪のところでマイティガールが二人を抱きかかえ、かわした。
「あ、ありがとう……母さん」
マイティガールが二人を床に下ろし、テーブルが飛んできた方を見つめた。
「お、お兄ちゃん、あれって……王子様だよね?」
「あ、ああ、いやあれ……」
混在する悪役の記憶が呼び起こしたそれぞれの映画、その内容。
その中で子爵は一つだけ王子と以前も共演していた。
それがよりによって
「そう、この狂気の科学者でもある俺が生み出した殺人マシーン、アダムだ! 殺せ!」
どこからともなくおどろおどろしいBGMが流れ
アダムは上半身の服をビリビリに破り捨てた。
一歩進むたびに、大広間の大理石の床にヒビが入る。
目が赤く光り、ターゲットである三人を捉える。
足がすくみ、動けずにいる兄妹から目線を切ったマイティガールが走りだす。
アダムが繰り出した拳が顔を掠める。
その腕にぶら下がり、広げた両足をアダムの首に絡めた。
勢いと体重をかけ、アダムを引き倒し、その顔に肘を打ち下ろす。
だが、鈍い音が大広間に響いた。
「駄目だ。もうその役に入り込んでいる! 完全にサイボーグ化しているんだ!」
「どうしたらいいの!」
アダムとマイティガール、二人が奏でる激しい打撃音の中
子爵の高笑いが大広間で踊る。
ライザの必死の呼びかけにもアダムこと王子が反応を示すことはなかった。
「……そうだ、ライザ!」
ソラがライザの名前を呼び二人の目が合った瞬間
ソラは甘栗を剥くようにライザの喉が引き裂かれるのを目にした。
ユカの悲鳴が加わり三重奏となった大広間でソラはライザに駆け寄った。
「これが『念のため』さ。
どうせ、また何かの役を呼び起こすつもりだったんだろ? そうは行くかよ」
子爵が吐き捨てるようにそう言い、そばにあった水差しを口に流し込んだ。
ビチャビチャと零れた水が勢いよく服から床に滝のように流れ落ちる。
這うように進む一線の水が血溜まりに合流する。
その血溜まりの中心にいるライザは
喉に食べ物を詰まらせたような短い呼吸をしながら、ただ天井のシャンデリアを見つめる。
その瞳にソラが映り込む。そして子爵も。
子爵はソラの髪を掴み、自分に顔を向けさせると、口に溜めた水を一気に吹きかけた。
「ハッハッハアアアンハアアアアアン! 最高の気分だぜ!」
子爵が笑い、ソラの髪を捻るように引っ張り床に叩きつけた。
頭を踏みつけ、恍惚とした表情を浮かべる。
「ああ、タマゴマゴマゴマゴ……」
頭蓋骨が割れる音を聞き漏らさないようにと耳を近づけながらそう呟く。
もはや正気ではない。
いくつもの悪役の記憶が混在し、精神が狂気に蝕まれているのだ。
「ああああああああああ!」
「あーあむあむあむあむ!」
口を開け、ソラの悲鳴を餌にするように子爵が口をパクパク動かす。
「う、うぅ……」
呻き声。そしてライザの頬を涙が伝うのをソラは見た。
まだ生きてる。ソラは痛みに自身の悲鳴を押し殺し、その名前を呼んだ。
「血霧の魔女……」
すると、ライザの体が小刻みに震え、喉から血が音を立てて噴出した。
その血が赤い膜を作りライザを包む。
ソラはその光景を目にしながら、頭が軽くなるのを感じた。
子爵が足をどかしたのだ。
見上げると恐怖に歪んだ顔。
そして……魔女は産声を上げた。
血霧を纏いながら風になびくカーテンのようにフワリと子爵の前に。
子爵が振りかざしたナイフは空を切った。幻影かのようにすり抜けたのだ。
魔女はピアノに触れるように子爵の顔に両手の指を添える。
「あ、あああああああああああ!」
魔女は紙を破くように子爵の皮膚を剥いだ。
手に握った顔の皮膚がグチャグチャと音を鳴らす。
それは這いずる子爵の悲鳴に掻き消され、ソラにしか聞こえていなかった。
「アダム! アダム!」
子爵の呼びかけに応じたわけじゃない。危険。この場で最も。
それを察知したアダムが魔女に向かって走った。
踏み込みからの跳躍。
美しさすらある完璧な動き、だが魔女は容易くアダムの首を捻り切った。
ソラは刺激臭のようなものを嗅ぎ取った。
ユカが漏らしていたのだ。囁くような声、それがそこらじゅうから聞こえる。
粒子状にとなり浮かぶ血の一つ一つが
剥き出しの眼窩、萎れた口を作り、囁いているのだ。
ソラはユカのそばに身を引きずるようにして近づき、そして抱きしめた。
膝が濡れたがそこに不快感はなかった。
そして恐怖心も薄れた。駆け寄ったマイティガールが二人に駆け寄って来たからだ。
抱きしめられたその瞬間、二人は陽だまりの中にいる気分になったのだ。
魔女は三人を一瞥すると子爵の方を向いた。
子爵が這いずった後はナメクジの粘液のように掠れた血の道ができていた。
「ぼれは! ごごじゃ! 死ないばず!」
魔女がそっと子爵の上に覆いかぶさった。
テーブルにクロスをかけるようにフワリと
「ギィギギギギギギギギアアアアグギギギギギイィ!」
悲鳴と歯軋りと骨が削れる音が交じり合ったもの。
たった一人で三重奏を奏でた子爵に魔女から賞賛と歓喜の声。
魔女の笑い声が大広間に響いた。
そして演奏が終わると魔女はゆらり揺れ動き、アダムのそばによる。
その瞳は愛おしい男を見るような優しさが満ちていた。
願望からそう見えたのかもしれないが、ソラとユカはそう感じた。
魔女はアダムをそっと包むと窓から夜空へと昇っていった。
静まり返った大広間。遠くの花火の音が聞こえる。
近くでは心臓の音と呼吸音。その中、ユカが囁く。
「ママ……すごく綺麗よ」
「……ありがとう、ユカ。ソラも頑張ったね」
微笑む母親の腕に抱かれながら兄妹は泣いた。
母親の言葉。それが二人に呼び起こされた母の記憶なのか
それとも彼女が演じただけなのか二人は疑問に持つことさえしなかった。
これまでの疲労と緊張。涙がその最後の一押しとなり
二人が眠るまでそう時間はかからなかった。
次に二人が目を開けるとそこはリビングのソファの上
手から落ちたアイスはカーペットに食われ、映画はエンドロールを迎えていた。
目を擦り、見合わせた二人は照れたように笑った。
あれは現実? 同じ夢を見た?
確かめ合うのも、現象についてあれこれ理論立てて議論するのにも夜が更けすぎた。
それは言い訳。ただ泣き腫らした顔を見られるのがお互い恥ずかしかった。
リビングを出て自室に戻ろうとするソラにユカがニッコリ笑って言った。
「まだハッピーエンドは嫌い?」
「いや……別に。いや、そもそもアレはハッピーエンドなのか?
だってヒロインと王子は……」
「何言ってるの。主役は私たちなんだから良いの!」
ユカはアイスの棒を拾い上げゴミ箱に向かって投げた。
入ったかどうか、リビングのドアを閉めた音と重なり
ソラがそれを知ることはなかった。
主役は自分たち。確かにそうだ。
ソラは戦う母の姿と笑顔を思い浮かべ、役者を目指そうと、心に決めた。




