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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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夫の忘れ形見

 長年連れ添った夫婦でも知らないことはあるものだ。

夫の懐具合。夫は思った以上の遺産を私に残してくれた。

『人生、死ぬまで楽しむ』『不変こそ恐れるべきだ』

と私に意気揚々と説いていた夫は事故であっさり死んだ。

夜中。酒に酔い、陸橋の階段を踏み外し、頭を打ったという。

目撃者が複数いるから事件性はない。


 私の膝の上に置かれた遺書。

そこに書かれていたのは三人の女の名前とその住所。

夫は何を抱えたまま死んだのか。

私には知る義務があるようだ。




 ここは居酒屋。いや、小料理か。まあどちらでもいい。


 一人目の女。柏木冬子。

白い暖簾、くすんで見えるのは夜の闇のせいでも私の老眼のせいでもない。

 建て付けが悪い引き戸を開け、中に入る。

パイプ椅子が七つ。客がすれ違うのも苦労しそうな狭い店内。

開店時間の少し前に来たので客はいない。


 冬子という女は……あの女だな。

客の席とL字型のカウンターで隔てた厨房に立ち、せっせと準備をしているようだ。

歳は私より下。とは言えもう四十は過ぎているのではないだろうか。

 まあ、若くないほうが変な見栄を張らなくていいのだろう。

 元々の客の入りは知らないが、早々に話題を切り出すのが吉だろう。

そう思い、口を開きかけたとき、冬子が私を見てハッと気づいたように先に口を開いた。


「貴女、愛実さん?」


「え、ええ……」


 私の名前を。これは先制パンチ、思わず面食らってしまった。


「お会いしたかったわ!」


 満面の笑みで冬子は私にそう言った。

冬と言うよりかは春。雪解け水のような澄んだ穏やかな声。

まったく大した役者だ。

こっちはそちらと夫のまぐわいを想像し、泥水でも飲まされた気分なのに……。

 冬子は私に席に座るよう促し、なにやら調理を始めた。


「先生、よく奥様のことをお話になっていたんですよ」


「そうですか」


 愛想なく、そっけない受け答えをするが、特に気にしている様子はない。

余裕なのか、鈍いのか。

話をしてたって布団の中で? と、返答をしなかった自分を褒めてやりたい。

言ったところでしらを切られるか、笑われるかだろうけど。

余裕なのはこちら。二人の関係を全く気にしていないように思わせないと。


「あ、そうだ。ここの事をどうお知りに?」


「主人のメモを見まして」


「あら、そうでしたか。っとはーい、できました! ぜひ、どうぞ」


「……これ」


 出された料理には見覚えがあった。


「カレイの煮付け。ふふ、緊張してしまいますけど。先生から聞いた奥様の料理です」


「どうしてこれを?」


「先生がどうしても作ってくれって。自分の妻の料理だからきっと看板メニューになるって」


「そ、そう。まあ定番料理ですけどね」


「ええ。でも先生ったら子供のようにはしゃいでいたんですよ。

おいしい、おいしいって。あ! 勿論、奥様には劣るともおっしゃっていましたけどね」


「ふ、ふーん」


 話を聞くに夫は教師を定年退職してからも足しげくこの小料理屋に通っていたようだ。

腕はあるが借金を抱え、うまく動けない冬子にやきもきし

料理のメニューの提案など色々アドバイスをしていたらしい。

 それで生前、夫が私によく料理のレシピを聞いてきた謎が解けた。

店内のメニューの並びには確かに私の得意料理であり、夫が好きだったものが

いくつか見受けられた。


 夫が死んだことを告げると冬子は目に浮かべた涙を服の袖で拭った。

店の開店時間が過ぎ、客が入ってきたので退席することにした。

料理は残さなかった。




 二人目の女。峯島咲。


 彼女が住んでいたのは平屋の古い家だ。

インターホンを押すと、驚いた顔で出てきた。

恐らく、この女も私の事を知っているのだろう。

 だが、またしても驚いたのはこちらのほうだ。

その足元にいる女の子はまさか夫との……。


 と思っていたが話してみるとどうやら違うようだ。

家の中は散らかっているからと

三人で並んで近くの団地の公園に来た。

 ここはこの団地に住む子供しか遊んではいけないのではないかとも思ったが、別にいいようだ。

 女の子、名前は美香という。

美香はよくこの公園に遊びに来ているようだ。

一人でも平気、と誇らしげに私に教えてくれた。

まあ、団地なら不審者も入り込み辛いだろうから、いいのかもしれない。


 夫が死んだことを告げると咲はしばらく黙った。

美香が遠くから私たち二人に手を振ったのをきっかけに

私の夫との出会いを話し始めた。

 きっかけはあの子だったと。

美香が転んで泣いていたところを夫に声をかけられたらしい。

両手がスーパーの買い物袋で塞がっていたから助かったという。


 美香がベンチに座る私たちに、また手を振る。

あの子は前の夫との子供らしい。

私と夫との間に子供はいない。

そのことで別に夫と喧嘩したりすることはなかったが話題にもしなかった。

心のどこかで欲しがっていたのかもしれない。

だからつい、声をかけたのかも。

 夫は時々来ては相談相手や経済的に困っている咲を援助していたようだ。

 全く知らなかった夫の顔に新鮮な気持ち、本当にそれは自分の夫なのかとさえ思った。

思い返せば、定年退職してからも家にいることは少なかった。

昔の同僚と会ったりしているとでも思っていたし

家に夫が居つき、生活のリズムが乱れるのを恐れてもいたから

特に追求することはなかったが

夫も、自分なりに私に気を使い、そして何か新しい事を探していたのかもしれない。

なんて、考えていると夕焼け空に浮かぶ雲がどこか聖なるもののように見えてきた。




 三人目の女。篠原理恵。


 書かれていた住所もそうだが、そこにいた女にも驚いた。

 チェーンの喫茶店、そしてギャル。

名前の割にかなり軽薄そうだ。そして若い。


「へぇー! あなたが奥さん!」


 私が名前を名乗ると目を大きくし、理恵はそう言った。

 貴女は一体、私の夫の何?

と訊こうとしたとき、テーブルの上にあるノートに目が行った。


「あ、あはは。字汚いよね?」


 訊けば夫に勉強を教わっていたらしい。

夫は元中学校教師ではあるが、名門大学卒だ。

高卒の資格を取ろうとする彼女の勉強を見るくらい、どうってことはないだろう。


「あ、飲む?」


 人懐っこい子だ。私がテーブルの飲み物に目をやるとパッと差し出した。

名称は舌を噛みそうなほど長いものだが、ようするにチョコらしい。


 夫の死を告げると理恵はうつむき

「問題に正解すると、頭撫でてくれるんだ。

親は殴るしかしてこないのにね」と、語った。

 彼女の両親は言わば育児放棄。無干渉、無関心らしい。

 夜の街をぶらついていた時、夫に話しかけられ

高卒の資格くらいはとったほうがいいと諭されたそうだ。


 甘みのあるチョコが舌に溶け、胃に落ちていくのを感じた。




 家に帰った私は一人、物思いにふけた。

立ち上がっては部屋の中を歩き、また座っては立ち上がる。

 そのうち夫の部屋の整理を始めたときには

我ながらテスト前の子供かと笑いがこみ上げてきた。

でもこれが功を奏し迷いは消え、私の決意は固まった。




「義信さん……」


 私は考え抜いた末に、美香含めた四人を自宅に招いた。

すでに葬儀は済ませ、夫は骨壷の中だ。

 三人は目に涙を浮かべ、線香をあげた。

 美香はまだ何がなにやらよくわからない様子だが

夫の遺影を見て「よくうちに来てた人ー」と指差した。

 咲がその指を下ろさせ、美香を膝の上に乗せ抱きかかえる。

沈んだ空気が少し、柔らかくなった。


 切り出すのなら今だろう。


「良かったらここに一緒に住まない?」


 美香を除いた全員が「え?」っという顔をした。


「みんな、住む場所に困っているそうじゃない?

冬子さんは家賃を払わなくすむ分、店や借金を返すほうにお金を回せるし

咲さんもこれから成長していく美香ちゃんに何かとお金かかる。

理恵さんも家にはもう何年も帰っていない、そもそもあるかどうかもわからないって言うし

男の人の家や財布を頼りにするのも不安でしょう?

私一人で住むにはここは広すぎるもの。お金なら夫の遺産があるし、それに……」


 私は一度言葉を区切った。目をこすり、息を吸う。


「……みんな、夫が大事にしていた人だもの。放っておけるわけないじゃない」


 私は並んで座る三人に手を伸ばした。

 私たちは手を取り合い、そして涙した。

 これから温かな日々が始まる。

 

 そう考えているのだろう。


 長年連れ添った夫婦でもお互い知らないことがある。


 夫の部屋にあったもの。

 AV『小料理屋の美人女将』

 シャボン玉など外でしか遊べないおもちゃ。

 チョコ味のコンドーム。


 三人、それぞれに会った時、それとなく遺産の話を口にしたが

どうにも目を逸らすような感じがした。

知っている。恐らく夫が自慢げに吹聴していたのだろう。

実家を売ったら思ったより高く売れたとでも。

さぞかし羽振りが良かったに違いない。


 そして死後、一部を譲るとでものたまっていたのだろう。

事実、私が見つけた遺書にはこの三人に遺産の一部を譲ると書かれていた。

 尤もそれをこの三人は知らない。

まさか、口頭で約束していたから遺産をよこせと詰め寄ることはできないだろう。

夫との関係がバレれば訴えられ、逆に金を払う羽目になるかもしれないのだ。

 尤もそれほど期待はしていなかっただろうが。

 そう、このまま自然消滅と考えていたに違いない。


 いや、このままで済ますものか。

別に女遊びしていた夫への嫉妬心ではない。

ただ「何も知らずにお人好しだ」なんて顔に書いている

この三人の女に思い知らせてやりたいのだ。

人を、私を軽んじるとどうなるのかを。

 言い訳は聞かない。

そもそも、夫の関係を正直に話さない事が反省のないことの証明だ。

遺産は十分ある。それをちらつかせ、競わせる。

死後、誰に譲りたいと私に思わせるかを。

 だが、そうはならない。

寄付でも何でもどこかにくれてやるさ。

あの世に持っていけるわけじゃないのだ。


 夫は私に楽しいゲームを残してくれた。

私が知らない顔を持った夫。その夫は私のこの顔を知っていたのだろうか。

 いいや、知るものか。

私でさえ知らないのだから。

この先どんな自分になるのかも。

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