ナメクジ
その主婦は駅から一歩町に出たとき、愕然とした。
足元に薄く、ややキラキラした白い線。
それが何か考える必要はなかった。
巨大なナメクジが前方を這いずっていたのだ。
主婦は悲鳴を上げようとした瞬間、自分の口を手で押さえた。
冷静になるのよ。そう自分に言い聞かせた。
何故なら道行く他の人間は何ら変わりない態度なのだ。
これは幻覚か何かだ。
それはそれでショックであるが、今日はたくさんの用事を済ませ
疲れている。きっと眠れば元通りだ。
そう考えた主婦は早足に自宅を目指した。
しかし、玄関のドアを開けた瞬間
悲鳴はもはや抑えようがなかった。
家の床、壁、ナメクジが這いずった跡がびっしりとあったのだ。
そしてそれはつまり、この先にその主がいると告げている。
主婦は逃げ出したい気持ちをぐっと抑え、家の中に入った。
自分が家を守らなければ。
その思いが勇気の火を灯したのだ。
尤も大きく、はっきりとした線を追い
リビングのドアを開け中に入る。
そこには巨大なナメクジがソファーの上で身じろぎしていた。
電灯で煌めくその体表はくすんだ白色で、所々に老人の肌にできるシミのような斑点があり
飛び出した二本の触覚の先端にある目は、テレビ画面を見てニヤついているようだった。
そのおぞましさに主婦は震えた。そして怒りにも。
自分が選んだ壁紙、インテリア、そしてソファー。
部屋の家具その全てにあの這いずったような白い跡があったのだ。
卒倒しそうになるのを堪え、目を見開くと
主婦はキッチンから包丁を持ち出し、その無防備な背中めがけて振り下ろした。
ナメクジはビタンバタンと暴れ、逃れようとグニィと体を伸ばしたが
主婦は突き立てたその包丁を魚の腹を裂くように一気に引き
そして割れたその背中に向かって何度も包丁を突き刺した。
『で、今のニュースの逮捕された主婦は「ナメクジを殺しただけです」と
供述しているそうなんですが、先生、これは……』
『ええ、やはり夫婦が揉める一番のケースというのは
夫が定年退職後に家に長い時間いるということなんですね。
これまでの生活リズムが狂い、奥さんの体調、精神状態が不安定になるわけです。
そして、喫煙。これは嫌がる人はホントに大きなストレスになりますからね。
家具や服にも匂いが付きますからねぇ。
夫をナメクジ呼ばわりする気持ちも、わかる気がします』




