黒い靄
せ、先生――
ダメだ、何度声を出そうとしても勇気が出ない。
だって、絶対みんなに変なヤツだって思われる・・・・・・。
でも、アレは確実にいる。ぼくの妄想なんかじゃない。
どうしてみんなには見えないんだ?
あの黒い死神が・・・・・・。
お昼休みが終わり、授業が始まって十分ほど経ってから、アイツは教室の一番前に現れた。
海の中に漂うワカメのような黒い靄。
その体からモニュモニュっと二本、靄が伸びたと思ったら腕の形になり
さらにそこから大きな鋏のようなものが作られた。
ぼくは目がおかしくなったのかと思って何度も目を擦った。
でもアイツは消えない。
それどころか鋏をクラスメイトの頭の上に持っていった。
一体何をする気なんだ?
そう思って目を凝らしてみるとそのクラスメイトの、いや全員の頭のてっぺんから白い糸のようなものが出ていた。
それでわかった。アイツの狙いはその糸を切ることなんだ。
そして、糸を切られた人はきっと・・・・・・。
ぼくは身震いした。止めるべきだ。みんなに早く逃げるように言わなきゃ。
でも、あれがぼくの幻覚だとしたら変なヤツだと思われちゃう。
そうなったらきっとからかわれる。嫌だ。でも命が・・・・・・あ、あれ?
アイツは何もせず・・・・・・と思ったら隣の人の頭の上にまた!
いや、また何もせず・・・・・・あ、また、いや、選んでいるのか?
アイツは一人一人、吟味するように教室の中をズリズリと移動した。
一列目・・・・・・セーフ。
二列目も・・・・・・セーフ。
なんだ、何てことないじゃないか。
それにぼくの席は最後の列だ。
あのペースだとここに来るまでけっこう時間がかかりそうだ。
案外このまま何事もなく授業が終わるなんてことも。
・・・・・・いや、あああ、ああ! やった!
アイツ、鋏でダイチくんの頭の糸を切った!
あ、あ・・・・・・ダイチくん、項垂れて・・・・・・あ、あ・・・・・・。
・・・・・・死んだ。
でも授業中だから誰も気づいていない。このままじゃまた誰かが・・・・・・。
・・・・・・今、ぼくが叫べばみんなを救えるかもしれない。
・・・・・・よし!
「せ、先生!」
「ん? どうした」
「あ、あ、あの・・・・・・ト、トイレに」
「・・・・・・さっさといってきなさい」
できなかった。みんなの注目が集まった途端コレだもの。
ぼくは意気地なしだ。卑怯者だ。
はやく教室に戻って今度こそ・・・・・・。
いや、このままトイレにいれば助かる・・・・・・ダメだ!
何を考えているんだ! 戻るんだ!
だってクラス一可愛い、カスミちゃんが危ないかもしれないじゃないか!
それにユウコちゃんやコトちゃんにマイちゃんとあとそれから・・・・・・とにかく戻らなきゃ!
ぼくは静かに教室に戻った。叫びださなかった事を褒めてやりたい。
だってさらに犠牲者が増えていたのだ。
でももうアイツは最後の列の端、つまり、ぼくの席を通過した後だった。
ぼくは助かった。みんなには悪いけどでも良かっ・・・・・・いや! 嘘だろ! 戻ってきた!
二週目!? あ、あ、来る! もう一回トイレに・・・・・・。
駄目だ、もう前に・・・・・・それに見えていることがバレたら追いかけて来るかも・・・・・・。
でも、あ、あ、あ、怖くて足が動かない。
黒い靄。何て不気味なんだ。
近くで見るとウネウネとまるで小さな丸い虫が蠢いているようだった。
お願い・・・・・・お願いします。どうか、どうかぼくの糸は切らないでください! お願い!
――キーンコーンカーンコーン
・・・・・・ああ、神様。授業の終わりのチャイムだ。
良かった、助かったんだぁ・・・・・・。
あれ?
「うぅうー! あーあ、ふぅ・・・・・・」
「はははっ。おい、ダイチ。お前爆速で寝てたな!」
「いやー、睡魔がさーあ」
ダイチくんだけじゃない。
死んだと思っていたクラスメイトたちが頭を上げた。
そうか、みんな、眠っていただけだったんだ!
つまりアイツの正体は・・・・・・
「おーい」
「え、な、何?」
「お前、全然トイレから戻ってこなかったろ! ウンコか? ウンコだな?」
「え、あ、そ、その・・・・・・べ、便魔に襲われて・・・・・・」
それから三日ほど、ぼくはからかわれた。




