黒い穴
キャンベル一家の三人の子供の母であり、ジェームズの妻のオリビアは、ただうっとりとワイングラスを片手にその光景を眺めていた。
夕食を終えても子供たちは席を立とうとせず、夫のジェームズの変顔にキャッキャと笑っている。オリビアはこれが幸せなのだと、ワインをまた一口飲み、味と光景を記憶を刻んだ。
その時、夢から現実に引き戻すように電話が鳴った。妙な胸騒ぎがオリビアを椅子から立ち上がらせることを躊躇わせた。むろん、彼女はそう長く尻込みしていたわけではない。時間にして数秒。
しかし、受話器を取ったのは次女のミアだった。真っ先に椅子から立ち上がり、電話に向かって駆け出した。
「もしもしー?」
ミアが受話器を耳に当てながら家族の方へ振り返った。得意げな顔をしている。何かと大人の真似したい年頃だった。それを見たジェームズが微笑んでいる。
オリビアは椅子から立ち上がり、ミアに近づいた。そして、手を伸ばそうとした時、ミアは受話器を戻した。
「あ、切れちゃったの? 誰からだった?」
「んー、わかんなーい」
ミアは体をくねくねさせながらそう答えた。
「でも、なんか、かなしそうだったー」
その言葉を聞き、再びオリビアの胸がざわついた。
掛け直すべきだろうか。でも、ミアが受話器を置いたのは相手が先に切ったからだろう。もしかしたら間違い電話かも。彼女はそう考えた。
「あ!」
長男のピーターがオリビアのワイングラスを倒した。赤いワインがテーブルの上を駆ける。
カーペットに落ちる前にと、オリビアもまた駆け出し、ティッシュを手に取った。
セーフ。なんとか食い止めた。その時だった。電話がまた鳴った。
「ああ、いいよ。僕が出る」
ジェームズはピーターの頭をくしゃくしゃっと撫でた後、受話器に向かい、手に取った。
「もしもし、ん、ソフィ? お前か? ……ソフィア! おい、どうしたんだ? よく聞こえないよ。外か? 今、外にいるのか?」
オリビアは母親の直感というものがあるのだと確信した。長女のソフィアの身に何かが起きた。今、はっきりとそう感じた。
寄宿学校に通うソフィアはこの家を離れ、寮で暮らしている。何があったのだろうか。いじめ? 事故? 事件? 嫌な憶測がガラスの欠片のように頭の中をぐるぐると回り、切りつける。
頭痛がして、オリビアは手で頭を押さえた。その部分から、血が垂れるイメージが湧いた。おそらく、それは先ほどのワインと重なっているからだろうと彼女は思った。今、この頭痛の処方薬となり得る答えの一番近くにいるのは夫のジェームズだったが、彼は力なく受話器を置いた。
「切れた。たぶん、ソフィアからだと思う……」
「たぶんって、何……? 娘の声がわからなかったの」
「違うよ。何か、風かわからないけど、よく聞こえなかったんだ」
「何か言ってなかった? 聞き取れなかった? 少しでも」
夫を非難する言い方をしないよう気をつけながらも、オリビアの気持ちは急いていた。
「ただ、『来て』と言っていたと思う」
「……なら、行きましょう」
少しの間をおいてオリビアは言った。
「……よし、わかった。すぐに車を出そう。みんな一緒にだ。さあ、お姉ちゃんに会いに行くぞ、ピーター、ミア……ミア?」
「え、ミア? あの子どこに行ったの?」
二人は辺りを見回したが、ミアの姿は部屋のどこにもなかった。
「きっと、トイレだよ。ふふふ、張り切っているんだ。僕たちも準備をしよう。ピーター、お前もだ。さあ、早く早く」
「はーい」
バタバタと準備を進めた。自室で外用の服に着替え、荷造りをするオリビアは、「過保護だろうか?」と自分を落ち着ける意味も込めてそう考えた。
ソフィアにはまだ携帯電話を持たせていない。電話ができるということは、それなりに安全な場所にいるのでは? だからきっと大丈夫。
……でも、あの後何度掛け直してもつながらなかった。それが気になる。どうして、電話を掛けてきたのだろう。精神的な落ち込みだろうか。ジェームズはソフィアに今、外にいるのかと訊ねていた。風か車の音か何かで聴き取りづらかったからそう判断したのだろう。外ならどこかのお店の、あるいは公衆電話から掛けてきたのだろうか。
まずは寮に電話して安否を確認するべきでは。しかし、その寮での暮らしが原因だったら? それに、抜け出して電話を掛けてきたとしたら、そのことが学校側に知られたらソフィアは処分を食らってしまうかもしれない。
それは避けたい。いや、でもそれでは、どうやって娘を見つければいいのだろうか……。
「ミアー。パパー?」
「ピーター?」
廊下でピーターの声がして、オリビアは部屋の外に顔を出した。
「あ、ママ」
「どうしたの?」
「ミアとパパがいないよー」
「そんなことは……ミアー! あなたー!」
返事はなかった。オリビアは目眩がして倒れそうになった。しかし、顔を引き締め、ピーターの方を向いた。
「……ピーター。あなたはリビングに行っていなさい」
「はい、ママ……」
住み慣れた我が家。しかし、今はその影一つ一つがどこか別の空間につながっているような錯覚がした。
まるで穴。そう、穴だらけだ。その穴に二人は落ちたのでは。馬鹿な、そんなことあり得ない。
オリビアは部屋の電気のスイッチを点けて回った。だが、影を押しのけても夫と娘はいなかった。窓から外に止めてある車に目を向けても静まり返ったままだ。
オリビアは自分を落ち着けるために大きく息を吸い込んだ。
そして吐いた瞬間、聞こえた。電話の音。だが、それはすぐに途絶えた。
「ピーター!」
オリビアは慌ててリビングに向かった。その間、頭に浮かんでいたのはそもそもの始まり、あの奇妙な着信のことだった。そうだ、あの受話器を取った人から消えていった。じゃあ……。
「ピーター?」
リビングにピーターはいなかった。ただ外れた受話器がツーッと音を鳴らしていただけだった。
オリビアは両手で口を塞ぎ、叫び出したい衝動を堪えた。叫んだところで、今この家にいるのは自分一人だけ。誰かが駆けつけてくることはない。反響することもない。叫び終われば虚しい静寂が待っているだけ。それが恐ろしかった。認めたくなかった。どこか、そうどこかにいる。そうとも、悪戯で隠れているんだ。
娘が危ないかもしれないのに? ……いいや、娘もグルだ。思えば自分だけが電話に出てないではないか。声を聞いていない。
そうだ、きっと、きっと……。
オリビアは恐る恐る受話器に手を伸ばし、元に戻した。
ふっと息を突こうとした瞬間、電話が鳴った。
オリビアは恐ろしく熱いものか、その逆、恐ろしく冷たいものに触ったかのように素早く受話器から手を離した。
電話は鳴り止まない。出る。知るにはそれしかない。大丈夫……そうだ。きっと聞こえてくるのは明るい娘の声だ。サプライズで帰ってきたのだ。それで、こっそり夫の携帯電話を借りて今、家の外からかけてきているのだ。きっとそのすぐそばで他の三人も笑いを堪え、ニヤニヤしているはず。
希望的観測だ。それに気づかないオリビアではなかった。しかし、彼女は受話器を手に取った。もう、それしかなかった。
「もしもし」
「お……あさん? ……わたし……」
それはソフィアの声だった。雑音が酷くて、聞き取りにくいが間違いない。
「きて……こっちに……きて……」
「どこ、どこなのそこは? 大丈夫? 無事なの?」
「……こっち……て」
行きたい。行かなければ。そう思った瞬間、オリビアの視界が歪んだ。酷い船酔いのように、立っていられなくなった彼女は膝をついた。
娘が言う場所はどこなのか。ただ、どこにせよ、ここから遥かに遠い場所に思えた。
今、二人を繋ぐのは受話器の穴のみ。聞き出さなければ。どこにいるのか。
受話器に耳を寄せるとその黒い穴から冷気のようなものが肌にかかり、寒気がした。オリビアの母親の直感がまたしても働いた。
そうか……娘はきっと死んだのだ。そして、呼んでいる……。みんなを、私を、こっちに来てと……。
……いい。それでもいい……家族みんながそこにいて、娘が呼んでいるのなら。
そう思った瞬間、目の前がぐるんぐるんと回り、渦巻く水の中に引き込まれる感覚を最後に、オリビアは全てを委ねるように目を閉じた。
「お母さん?」
「……ソフィア?」
オリビアが目を開けるとそこには長女のソフィアがいた。
ジェームズも、ピーターも、ミアもそこにいた。その姿がぼやけて見えるのは目のせいではないとオリビアは察した。
「ごめんね、みんな。呼び出しちゃって……」
「……いいのよ」
オリビアがそう言うと、他のみんなも頷き、微笑んだ。
オリビアの脳裏には、自分たちが死んだ経緯が蘇ろうとしていた。しかし、ソフィアが抱きかかえる赤ちゃんを見て、彼女はその凄惨な記憶をぐっと奥へ押し込み、今はただ温かな光景を記憶に刻むのだった。




