そこに縄があるならば
夜中。その男は一人、ベンチに座り、目の前の木をただ黙って見つめていた。
大きな木だ。ストーブに手をかざし暖を取るように、その枝と葉が外灯に届きそうだった。
その外灯にカナブンの類だろうか、虫が懸命に体当たりをする音だけがしている。
彼はチラリと外灯に目を向け、また視線を木に戻した。瞬きをし、大きく見開いては戻し、ジッと見つめる。彼がなぜそうもその木を見つめているのか。その四つに分かれた幹の一つに縄が結び付けられているからだ。
それは、お手本のような首吊り縄だった。子供の悪戯か、自殺志願者が結びつけたのだろうと彼は考えていた。そして、おそらく後者だ。ただ、その者は踏みとどまり、席を譲ったのだろう。自分のような男に。
躁うつ病の傾向があるらしい。仕事はしばらく休むようにと書類に目を向けながらその医者は言った。『もうクビになりました』と言って笑ってみたら、本当に愉快な気持ちになってそのまま大笑いした。医者は黙り、哀れむような顔をしていた。
人生を振り返ってみても、風に吹かれた砂浜みたいに足跡も何も残っていない。自分は今まで何も成し遂げていない。そんな人間は世の中にたくさんいるだろう。そして死んだ人間にも。
さて、目の前の首吊り縄。これは天啓ととるべきか? 思い立ったが吉。それは自殺に関してもそうじゃないのか? 違うか? 何にせよ誘われている気分だ。楽になれるっていうのは間違いじゃないだろう。
たまたまふらっと立ち寄った公園。朝の様子は知らないが、この塗装が剥げたベンチに錆びた遊具。子供に大人気の公園って訳じゃなさそうだ。たぶん、第一発見者は犬の散歩のお年寄りになるだろう。死に顔を見せつけても別に構いやしないだろう。いい刺激だ。
彼は大きくため息をついた。
最低な気分だ。額の下で太い何匹ものミミズが蠢いている感覚。皮膚が気持ち悪い。玉葱の皮のように剥けたらどんなに清々しいことか。胃の中に滞留しているのは食物じゃない。粘土の塊だ。
でも、もう終わりだ。独り、部屋で殺虫剤を浴びた虫のように手足を折り曲げ動けなくなることもない。読んだ本の一行で過去のトラウマがフラッシュバックすることもない。念仏のように『死ね』と誰に向けるでもなく呟くことも、謝罪の言葉を呟くこともない。
今、一羽のカラスが木から飛び立った。これも天啓なのだろうか? 合図なのだろうか? 木に少し登り、縄を手繰り寄せ、首を通して飛び降りるだけ。想像するだけで縄がしなる音が聴こえてくるようだ。ああ、悪くない音だ。
彼は濁りに濁った泥の中のような思考の池から顔を上げ、大きく息を吐いた。そして、ベンチから立ち上がると、木に向かって一歩一歩進み始めた。
彼は自然と縄までの距離を目で測る。
ここからあと十一、十二、いや十三歩ぐらいだろう。……十三か。ははっ、まるで十三階段じゃないか。これも天啓だな。
彼が小さく笑うと頭上で羽ばたく音、葉が擦れた音がした。先ほど飛び立ったカラスが戻ってきたようだ。
彼は上を見上げ、闇夜に溶けたその鳥を探した。目を走らせたが見つからなかった。諦めた後、彼は両腕を広げて念じた。
――見届けてくれ。そして、おれの死体を啄ばんでくれ。
腕を下ろすと彼は視線を首吊り縄に戻し、また歩き始めた。高揚した気分だった。
あと、三歩、二歩……。
――えっ。
彼はピタリと足を止めた。たった今、上から肩に落ちてきた何か。肩に当たった瞬間のその感覚を頭の中で反芻し、それがカナブンの類の虫であってほしいと願うも、顔に跳ねた液体から絶望の沼に沈む。見ずともわかる。でも見るしかない。嫌な予感は的中した。そう、見事に彼に的中したのだ。
彼は心の中で慟哭した。クソ、と。
こんなことがあるか、あっていいのか。こんな惨めなことが……!
彼は上を見上げ、その憎っくき愉快犯を探した。カラスの笑い声が聞こえた。いや、それはただの鳴き声であったが、確かに笑ったような気がしたのだ。
彼は惨めさに肩を落とし、すでに気は削がれていたが、再び首吊り縄に目を向けた。
……ない。
縄はいつの間にか消えていた。幻覚だったのか? 蜃気楼? 彼が思案していると今度は耳元で蚊が飛び回り、彼は思わず仰け反った。
彼はそれを手で振り払い、ため息を一つついた後、公園の出口まで歩きだした。
……時折、波のようにやってくる自殺衝動。今回もまた見送りだ。もう、ずっとこんな繰り返し、そんな人生だ。生きていれば良いことがあるなんて、それこそクソ食らえだが、どうにか持ちこたえている。
まあ、確かに夏が過ぎた後の夜風。たまに美味しい飲み物がある自販機。少しばかり、癒しはあるが……。
彼は公園から道路に出ると足を止めた。そして、目を瞬かせた。
なんだ……? そこの家のフェンスにあるのは……。いや、そこだけじゃない。ああ、電柱! 標識! アパートの物干し竿! そこかしこに首吊り縄があるじゃないか!
これも幻覚なのか? ……いや、違う。本物だ。今、引き寄せられるように人が近づいていく……あ、あ、あ……。
それは、まさに地獄絵図だった。
死にたいのは自分だけじゃなくてみんな同じ。少なからず死への願望がある。これは、それが引き起こした現象なのだろうか。決めかねている者の背中を押すように、胸を、首を引っ張るこれは神の救済か?
なんて救いがない話だ、と彼は口を覆った。
しかし、夜風で軋む、縄の音。それがどこか寂しさを癒していることに気づいた彼は小さく笑った。




