汚れ
夕暮れ時、背中を丸めて帰り道を歩いていた男は、自宅である団地の敷地に入った瞬間、見覚えのある背中を見つけた。
「……ん、おい、タダシ。何してるんだ?」
「あ……お父さん。ミツグくんとお話してるんだ」
その背中は、やはり息子のタダシだった。父親は振り返った息子の奥を覗き込むように背筋を伸ばした。しかし……。
「ミツグ……くん?」
「うん、そうだよ。僕の友達なんだ」
「そ、そうか。も、もう暗いし家の中に入りなさい」
「うん、またね。ミツグくん」
息子はそう言うと階段を駆け上がっていった。その場に残された父親は“ミツグ”くんに目を向けた。
ミツグくん? これのことか……?
父親は壁のその黒い汚れを見て、眉を顰めた。その汚れはちょうど彼の息子と同じくらいの背丈で、人型だった。
……うちの子は昔から想像力が豊かで、とは言えない。学校に馴染めていないのではないだろうか。友達ができずに、だからこんな壁の汚れを友達なんて言って、寂しさを紛らわせているのではないだろうか。
やめさせたい……が、それも、おれのせいか……。おれが独立し、そしてその会社を潰してしまったから、この団地に引っ越すことになってしまったのだ。友達とも離れ離れになり、こんなことを言いたくはないが、前に住んでいたところより、少々治安も悪い。妻に相談したところでそうなじられるだけか……。
父親はため息をつき、階段を上がり始めた。その足取りは酷く重そうに見えた。
それから一週間後。自分の部屋の階まで階段を上がった父親は、聞き覚えのある笑い声を耳にした。
「……タダシ?」
「あ、お父さん。おかえり」
「そ、それは……」
「うん、ミツグくんだよ」
父親は驚いた。団地の外廊下の壁に、あの黒い汚れがあったのだ。どういうことだ、最近まではなかったはずだ……と考える父親。その一方で息子はニヤニヤと汚れを見つめ、そして何度も頷いていた。まるで内緒話をしているようだった。父親は咳払いをし、言った。
「……タダシ、家の中に入りなさい」
「え、でもまだミツグくんと話していたいよ」
「いいから! と、友達はよく選びなさい。もうそれとは付き合うな!」
息子は返事をせず、ふてくされた顔で家の中に入った。
その背中を見送った父親は、黒い汚れに近づいて指を伸ばした。だが、結局触れることはせずに離れ、ドアノブに手を伸ばした。
もしも、人の肌みたいな感触がしたら……。そんな想像をした自分を自嘲気味に笑う。ただ、ドアの向こうの息子の足音が遠ざかるのを無意識に待っていた自分のことは、笑う気にもなれなかった。
それからさらに一週間後の夜。何かに体を揺すられるような感覚がし、父親は目を覚ました。
寝惚け眼で周りを見たが、誰もいない。ただ、何かがバタバタと部屋を出て行った気がする。玄関ドアを開けた音はしない。ではリビングだろう。そう思った父親は自室を出て、暗い廊下を進んだ。
「タダシ? 夜中に何を……」
リビングには息子がいた。こちらに背中を向けている。パジャマ姿のまま、肩を動かしてクスクスと笑っているようだ。
「あ、お父さん」
息子が振り返った。
「お、おおい、そ、それ!」
「え? ミツグくんだよ?」
「そ、そんなのは……」
父親はそう言いかけ、口をつぐんだ。暗闇の中、月の光が差し込むリビングの壁に、影よりも濃く現れている黒い人型の汚れ。その頭の部分が、ぐにゃりと揺らいだように見えたのだ。
「ミツグくん、怒っているよ。この前のことでさ……」
「この前?」
「それ呼ばわりしたこと。付き合うななんて言ったこと」
「あ、あれは、でも、変だから……」
「謝ってよ。僕の大事な友達なのに」
「やめなさい、そんなのは友達じゃない!」
「あー、ほら。またそう言うから、ミツグくんがもっと怒っちゃった」
息子はそう言うと、父親の足元を指差した。
「あ、あああああ!」
視線を落とした父親はこらえきれず、悲鳴を上げた。
その足元にも黒い人型の汚れがあった。そして、それがうっすらと目を開けたように見えたのだ。
「ああ、ああ寄るな、寄るな、あ、あああああああ!」
父親の悲鳴はあっという間に遠ざかり、そして完全に途絶えた。
息子は窓辺に寄り、下を眺めながら思った。
落ちちゃった。前と違って狭い部屋だから悪いんだよ。窓の位置も低いしね。あ、壁と床の汚れは今のうちに消しておこう。お母さんに訊かれたら面倒だし。単純に不気味だから引越ししようって言い出すのを狙ってたけど、まあこれはこれでいいかな。きっとどこかに引っ越すよね。
息子はニッコリ笑い、汚れの手の部分にタッチした。




