マトリョーシカ、マトリョーシカ
夜、その青年は部屋で一人、昔見た映画のワンシーンを思い出していた。それは、無人島に独りきりの男が、人恋しさからボールに顔を描き、話しかけるというものだ。
――これを拾ったのは、寂しかったからだろうか。
青年は薄暗いアパートの一室で、テーブルの上に置かれたマトリョーシカを見つめながらそう思った。
大学入学を機に、彼は親元を離れ、初めての一人暮らしを始めた。アパートはみすぼらしかったが、新生活の始まりに心は浮き立っていた。
しかし、何日か経つと人恋しさから寂しさが増し、塞ぎこむ時間が増えた。奥手な彼は友達ができず、彼女を作ることを夢見ていたが、声をかけてもうまく行かなかった。
気分が沈み、街路灯の切れた帰り道は一層暗く感じられた。死角と闇が、まるで青年を誘い込むかのようだった。
そんな時、青年は空き地の茂みにマトリョーシカが落ちているのを見つけ、拾って帰ったのだ。
――ま、とりあえず開けるよな。
青年はマトリョーシカを掴み、ぐっと捻った。
「お」
思わず声が出た。マトリョーシカから出てきたのもまたマトリョーシカ。それ自体は当然のことながら、驚いたのはそのマトリョーシカに描かれた女の服が一枚脱げていたことだった。
むろん、そのマトリョーシカの形は瓢箪のようで、そこに描かれている女の体型もでっぷりとしているわけだから、セクシーとは程遠い。と、青年は思わなかった。彼自身、そういった女の趣味はないが、話しかけやすそうだし、初めて見たときから何か色っぽさを感じていたのだ。
モデルは金髪の美女。絵柄もそう古めかしいものではない。一つ開けたら服を一枚脱いだということは、そういうスケベなコンセプトで作られたものなのかもしれない。
これは得したな。意外と使えるかもしれない。そう思った青年は上機嫌で二個目も開けた。
――よしよし……
思ったとおりだ。中から出てきたマトリョーシカはまた服を一枚脱いでいる。青年はさらに開けた。
――ほほう……
四個目は下着姿だった。と、くると……と青年はニヤついた。
――これはなかなか……
五個目は裸だった。手の平の上に乗せて、上から下からと丁寧に眺める。保存状態もいいようだ。こういう物は意外と価値があるかも知れないと、青年は思った。しかし……
――ん?
青年は気づき、疑問に思った。五個目のマトリョーシカのおなかにも切れ目がある。これで終わりかと思ったのに、さらに開けられる。それに重さがある。中身が入っているかもしれない。ひょっとしたら、宝石や指輪などのお宝が入っているのかもしれない。そう考えた青年は鼻から息を吐き、マトリョーシカを捻った。
――か、固い。
だが開けられないことはない。青年はそう確信し、さらに力を込めた。
――これは……マニキュア?
開けた瞬間、青年はそう思った。畳の床に赤い液体がびしゃっと飛び散ったのだ。そして、二つに割れたマトリョーシカの片方にはマニキュアのブラシが……
――違う。これは
青年は驚きのあまり悲鳴を上げ、マトリョーシカを手から床に落としてしまった。マトリョーシカはコロコロ転がり、その顔を天井に向けた状態で止まった。
青年がマニキュアのブラシだと思ったのは、剥き出しになった背骨だった。
突如として、警報機のような甲高い悲鳴が部屋中に鳴り響いた。青年のものじゃない。マトリョーシカだ。目を見開き、口を大きく広げて叫んでいるのだ。それも背骨が剥き出しのマトリョーシカだけじゃない。他のマトリョーシカたちも口と目を広げ、叫び出した。しかも、その目は青年の方へ向いていた。
青年はその叫び声に頭がくらくらとし、耳を塞いだ。
そして、青年はよろめきながら窓を開けると、外へと飛び出した。青年が住むアパートの部屋は一階だ。雑草が伸び放題のこじんまりとした庭に着地するはずだった。しかし、そこにあったのは奈落の闇だった。
――落ちる。
何も掴まるものがなかった。青年は落下中、振り返り、遠ざかる部屋の窓を見上げた。マトリョーシカたちが縁に並んで青年を見下ろしていた。
……と、青年は目を覚ました。起き上がると体に不快感を抱き、触れてみるとTシャツが肌に張り付くほど汗をかいていた。
しかし、この汗は今の悪夢だけが原因ではない。これまでの重労働によるものだ。
青年は壁掛け時計を見上げた。少しばかり寝入ってしまっていたようだ。
――あの夢は……。
スーツケース。
ブルーシート。
ビニール袋。
シーツ。
「……マトリョーシカ、ふふっ、はははははははははは!」
青年は傍らのスーツケースを見て、ひとり笑った。




